天狗党・武田耕雲斎~悲しみの降伏状
元治元年(1864年)12月21日、天狗党・総大将の武田耕雲斎の降伏状が、天狗党征討総督の徳川慶喜に受理されました。
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これまでの天狗党のお話は・・・
外国からの圧力に屈し、開国をしてしまった弱腰の幕府に対して、元治元年(1864年)3月に、今は亡き水戸学の権威・藤田東湖(とうこ)の息子・藤田小四郎を中心に、尊王攘夷を掲げて決起した天狗党は、その後、幕府軍や水戸藩内の保守派の諸生党などと関東にて転戦しますが、諸生党に水戸城を占領された事で、関東での活動に限りがあると感じ、新たな総大将・武田耕雲斎(こううんさい)のもと、水戸藩の現状報告と幕府の方向転換を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)のいる京都へと旅立ち、下仁田戦争、和田峠の戦いを経て、美濃(岐阜県)・萎靡(いび・岐阜県揖斐郡)宿に到着・・・ここで、面会に来た中村半次郎の勧める薩摩藩の前面支援を辞退し、北まわりのルートで雪の木ノ芽峠を越えた12月11日、この先の通行許可を金沢藩に求めますが、ここで、頼みの綱であった慶喜が、天狗党征伐の総督として琵琶湖の北側の海津(滋賀県マキノ町)まで来ている事を知らされ、がく然とするのです。
くわしくは、それぞれの下記リンクからどうぞ▼
- 水戸学&尊王攘夷については(10月2日参照>>)
- 3月27日:天狗党・結成(3月27日参照>>)
- 4月10日:日光東照宮で声明発表(4月10日参照>>)
- 7月9日:下妻夜襲(7月9日参照>>)
- 10月25日:武田耕雲斎が総大将に(10月25日参照>>)
- 11月16日:下仁田戦争(11月1日参照>>)
- 11月20日:和田峠の戦い(11月20日参照>>)
- 12月2日:揖斐宿で中村半次郎が面会(12月2日参照>>)
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
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そもそも天狗党の西行行軍は、先代藩主の息子である慶喜に嘆願するための行軍であり、途中の戦いも、その行軍を阻止されたための戦い・・・だからこそ、すんなりと道を開けてくれた藩とは、何のモメ事もなく通過し、ここまでやってきたのです。
ところが、その頼むべき相手が討伐軍の総督・・・これでは、もう面会する意味はありません。
天狗党と対面して水戸藩の現状を聞き、彼らの理念を聞き、その武士らしく、き然とした態度に感銘を受けた金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)らは、彼らと慶喜の間をとりもつ事を約束し、罪人としてではなく、客人として接しました。
それに応えた耕雲斎は、早速、嘆願書と始末書をしたため、その満願の思いが込められた書状を持って、甚七郎らは雪の近江をひた走ります。
しかし、その書状を受け取った慶喜は、「天狗党は賊徒である」として、書状を受け取る事すら拒否し、それどころか、「来たる12月17日に総攻撃をせよ」と金沢藩に命じました。
金沢藩の彼らから、その報告を聞いた天狗党・・・総攻撃の予定日の前日=16日に、最後の軍儀を開きます。
ここで、天狗党・大軍師の山国兵部(やまくにひょうぶ)は、
「ここから間道を抜けて山陰道を行き、かねてからの同盟に従って長州(山口県)とともに尊王攘夷の意志を貫くべきである」
と主張・・・数人が、この意見に賛同します。
そう、実は、この4年前の安政七年(万延元年・1860年)7月22日、長州藩の桂小五郎と、水戸藩の西丸帯刀(さいまるたてわき)・岩間金平(いわまきんぺい)らによって丙辰丸(へいしんまる)の盟約=成破同盟(せいはどうめい)なる物が交わされていたのです。
その年に桜田門外の変(3月3日参照>>)で井伊直弼(いいなおすけ)を暗殺したのが水戸浪士らであった事から、同じ尊王攘夷の意志を強く持つ長州の小五郎が、水戸藩の彼らに近づいて同盟を結んだ物で、長州藩の軍艦・丙辰丸の船上で交わされたので丙辰丸の盟約と言います。
また、別名の成破同盟の「成」は「大成の成」・・・つまり、現在の幕政を改革を成すという事で、「破」は「破壊の破」で、暗殺や襲撃や挙兵の事です。
この密約を結んだ時、かの西丸が「成すのと破壊するのとどっちが難しいやろ?」と、小五郎に聞いたところ、小五郎が「そら、破壊でしょう」と言ったので、「ほな、難しいほうを俺らがやるわ!」と言ったのだとか・・・。
その約束通り、彼らは、その後、英国公使館の襲撃や坂下門外での安藤信正の襲撃も決行したのです。
その後、京都で小五郎に会った小四郎も、「頑張ってね~」と激励され、軍資金として500両も支援してもらっていたのですから、ここで、長州を頼ろうというのも一理あります。
しかし、マジメ一筋で実直な耕雲斎には、主君同様の慶喜に弓を引く事など到底できません。
結局、耕雲斎の意見に小四郎も賛成した事から、協議の末、天狗党は、このまま降伏する事に決定したのです。
翌・17日、耕雲斎が書状をしたため、再び甚七郎らがひた走ります。
さすがに今度は、その内容を確認した慶喜でしたが、そこには、水戸藩の現状と、それにともなう挙兵へのやむにやまれぬ事情が書いてあったため、「内容が降伏になってない!」と激怒・・・やむなく、耕雲斎は再び書状を書き直し、元治元年(1864年)12月21日、その内容に満足した慶喜が、やっと受理したのです。
最後の降伏状には、弁明など一切なく、
「武装して各地をウロウロして、周囲を動揺させ、大きな罪を犯してしまった事は、申し訳ありません。
深く反省して、一同、皆、降伏しますので、どのようにでも処置なさってください」
書状に「降伏」の文字が入っていて、さぞかし、慶喜も満足したようですが、この書状は、慶喜の御用人が書いた下書きを耕雲斎が写しただけだったなんて話もあります。
ただ・・・
「願い事を聞いていただく事ができないという事は充分わかりました」
とか、
「賊徒の汚名を受ける事は悔しい」
とか
「武士の情けで、どうか心情を汲み取ってください」
とか、ほんの少しだけでも、書けた事がせめてもの救いかも知れません。
この後、天狗党は金沢藩預かりとなり、敦賀へと移送されますが、以前と変わらず、金沢藩はいたって親切・・・3ケ所のお寺に宿泊する彼らには、食事は充分に与えられ、新しい衣類ももらい、翌・慶応元年((1865年)の元日には、鏡餅や振る舞い酒も用意され、皆、大いに喜んだと言います。
しかし、この事が、かの甚七郎をも巻き込む、悲しい結末へと導いてしまうのです。
そう、年が明けた1月18日、彼らは幕府へと引き渡され、その待遇は一変・・・と、なるのですが、そのお話は、天狗党最期の日となる2月4日のページへどうぞ>>。
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コメント
天狗党を見ていると、誰かシーザーのように「ルビコンを渡れてしまう(秩序を乗り越えられてしまう)」人がいたら、運命が変わったのかなぁと思えてなりません。
とはいえ、ガッチリ「君に忠義が正義!」教育をされてきた人達ですから、無理かなぁ。
あるいは薩摩や長州、彼らがすがった徳川慶喜のように「外圧の方がヤバすぎて、内輪揉めしている場合じゃない!!」と肌で感じる(感じざるを得ない)体験をしていたら…。
少なくとも、喰らい合いの末、誰も残らないような悲劇は避けられたかもしれません。
投稿: | 2017年9月12日 (火) 01時11分
「歴史に。もしもは禁物」と言われますが、やはり「もしも」の想像をするのはワクワクしますね。
投稿: 茶々 | 2017年9月12日 (火) 02時36分