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2009年12月 2日 (水)

天狗党・雪の行軍~運命の新保入り

 

元治元年(1864年)12月2日、美濃萎靡宿に滞在中の天狗党の総大将武田耕雲斎に、西郷隆盛の命を受けた中村半次郎が面会しました。

・・・・・・・・・・

この年の3月、藤田小四郎の呼びかけにより、尊王攘夷の魁(さきげけ)となるべく蜂起した天狗党(3月27日参照>>)・・・

神君・家康公のお膝元・日光東照宮にて声明を発表した後(4月10日参照>>)
下妻夜襲など、関東各地で奮戦するも(7月9日参照>>)
藩内の保守派に水戸城を占領された彼らは、新たな総大将に武田耕雲斎(こううんさい)を迎え、水戸藩の現状を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)のいる京都へと旅立つ事にします(10月25日参照>>)

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

11月16日の下仁田戦争(11月1日参照>>)
11月20日の和田峠の戦いを経て(11月20日参照>>)

旅立ちから、ちょうど1ヶ月の12月1日、美濃国(岐阜県)揖斐(いび・岐阜県揖斐郡)宿へとたどりつきました。

そして、翌日・元治元年(1864年)12月2日、そんな彼らの元に、薩摩(鹿児島県)西郷隆盛の命を受けた中村半次郎(後の桐野利秋)面会に訪れたのです。

そうです。
上記のルート図をご覧いただくとお解かりの通り、揖斐宿から、一山越えた先には琵琶湖が広がっていますから、このまま西へと進み、琵琶湖の東岸を行けば、数日で京都に到着します。

「わが薩摩が、全面的に協力しますので、このまま、まっすぐ京都へ出て下さい」
半次郎は、西郷からの伝言を伝えに来たのです。

しかし、しばしの論議の末、耕雲斎は、その薩摩の協力を丁重に断り越前(福井県)から近江(滋賀県)に向かい、琵琶湖の北へと抜けるルートを選択したのです。

それは、「我らは戦うために西へ向かっているのではない」という、彼ら天狗党のポリシーから生まれた判断でした。

琵琶湖の東岸を通るという事は・・・当然、彦根という場所を通る事になります。

4年前の万延元年(1860年)3月3日、安政の大獄を断行した、時の大老・井伊直弼(なおすけ)桜田門外の変で暗殺したのは・・・首を取った者こそ薩摩の脱藩浪士・有村兼清(かねきよ)でしたが、その他のメンバーは水戸の脱藩浪士たちでした(3月3日参照>>)

天狗党は、まさに、彼らの遺志を継いだ集団・・・そんな彼らが、直弼のお膝元=彦根を通過するなど、更なる摩擦を呼びにいくようなものです。

天狗党の今回の西行は、この挙兵自体が、弱腰で開国してしまった幕府を再び尊王攘夷の姿勢へと方向転換させる目的のやむにやまれぬ挙兵であった事、また、そのために起きてしまった水戸藩の内紛の状況を慶喜に説明したいがための行軍です。

けして、幕府と戦うために西に向かっているわけではありません。

それを証明するためにも、無用な争いは避けねばなりません。

即日、出発した天狗党は、12挺の大砲、9挺の五十目筒、そのうえ馬まで連れて、翌・3日には長嶺へ、続いて、すでに1m以上の積雪に見舞われていた越前との国境・烏帽子(えぼし)越えを決行します。

4日に峠を越えた天狗党は、6日に木本(福井県大野市)を過ぎ、9日には今庄宿(福井県南条郡)に到着し、雪道の行軍で乱れた隊を整えますが、常陸(茨城県)大子(だいご)を出発した時の1000名は、度重なる戦乱と険しい行軍のため、約800名ほどになっていました。

その後、2mの積雪となっている木ノ芽峠を越えて11日には新保宿(福井県敦賀市)に到着しました。

ここで、南2km先の葉原(はばら)に、金沢藩の兵が陣を敷いている事を知った耕雲斎は、「この行軍が慶喜に嘆願するための京都行きであり、沿道の諸藩と戦う意志はないので、藩内を通行する許可をいただきたいとの書状をたずさえて、金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)らと面会します。

立場上、尊王攘夷派と幕府(保守)派に分かれているとは言え、どちらも、国の行く末を憂う忠義なる武士同士・・・したためられた書面からあふれ出る思い、藩の内紛と過酷な峠越えでボロボロになった姿、それでいて武士の誇りを失う事のない毅然たる立ち居振る舞い・・・

甚七郎らは、彼らの姿に深く感銘を覚えます。

しかし、甚七郎は、そんな彼らに残酷な知らせを報告しなければなりませんでした。

それは、彼らが最後のの頼みとしている慶喜が、天狗党征討軍の総督として、すでに琵琶湖の北側の海津(滋賀県マキノ町)まで来て、本営を設置しているというものでした。

愕然とする天狗党隊士たち・・・

この日まで、主君と疑った事のなかった人物が、突然、敵の・・・それも総大将となっている・・・

この悲しい現実は、同じ武士として甚七郎らの涙も誘い、甚七郎は、ありったけの力を活用して、慶喜と天狗党の間を取り持つ事を、耕雲斎に約束したのです。

その言葉を聞いた耕雲斎は、慶喜宛ての嘆願書と始末書を書き、甚七郎に託しました。

そして、まもなく・・・耕雲斎の満願の思いがこもった書状を手に、一路、海津へと、降りしきる雪の中をひた走る甚七郎の姿がありました。

天狗党の運命やいかに・・・と、この続きのお話は、天狗党の今後を決める軍儀も含め、耕雲斎が3度目にしたた書状を徳川慶喜が受理する12月21日のページへどうぞ>>>
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コメント

この天狗党には奥州相馬藩を脱藩した「半杭伴」と言う縁戚の者がいます。腕自慢で殿について江戸に登った時に尊王攘夷にかぶれたと言う。千葉道場で吹き込まれたらしい。結果は那珂港の戦いに敗れ暗闇に紛れて舟で逃げ延びたと言う。同じ相馬藩に中には捕まった者もいて、運悪く断罪になった者もいるのです。茨城県には明治時代の歌人「横瀬夜雨」がいて、彼も天狗党の著作が有ります。

投稿: 半杭正幸 | 2009年12月 2日 (水) 10時57分

半杭正幸さん、こんにちは~

那珂湊の頃は、大発勢を含めて3500名ほどに膨れ上がった天狗党軍でしたが、本文にも書かせていただいたように、大子を発った時は1000余名・・・郷士の他に神官や医者や・・・その半分ほどは農民出身者だったと言いますが・・・

この先、それぞれの日づけで詳しく書かせていただくつもりですので、ここではあまり書かないようにしますが、最終的に釈放されるのは、病気で衰弱した女性一人だったそうですから、天狗党の運命が、いかに過酷だったかがわかりますね~。

投稿: 茶々 | 2009年12月 2日 (水) 12時14分

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