形なき未来への遺産~佐野常民の博愛精神
明治三十五年(1902年)12月7日、日本赤十字社の創始者として知られる佐野常民が80歳の生涯を終えました。
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佐野常民(つねたみ)は、文政五年(1822年)に、佐賀藩士・下村充贇(みつよし)の五男として肥前国佐賀郡に生まれました。
12歳の時に、藩医だった佐野常微(つねあき)の養子となって佐野の姓を名乗り、その後、藩の命令で江戸や京都・大坂で遊学します。
あの緒方洪庵(こうあん)の適塾で学んだ時は、大村益次郎をはじめとする将来の大物との交流も篤かったのだとか・・・
この間、養父の事もあって医学を中心に学ぶ常民でしたが、同時に物理学や化学も学びつつ、嘉永六年(1853年)には、佐賀に戻って佐賀藩精錬方主任となります。
そこで、蒸気船や蒸気機関車の模型制作などを行いながら、幕府が長崎に設立した海軍伝習所では、航海術や造艦、砲術なども習得していき、文久三年(1863年)には、日本初の蒸気船・凌風丸(りょうふうまる)を完成させたと言いますから、そのマルチな才能は限界を知らず・・・といった感じですね~
この間に藩主・鍋島直正に海軍の必要性を説き、自ら海軍所の責任者となって三重津海軍所も創設しています。
やがて、慶応三年(1867年)に開催されたパリ万博に、佐賀藩が出展していた関係から、佐賀藩団長として万国博覧会に派遣された常民は、そこで、人生を変える二つの物と出会います。
一つは、産業を発展させる万国博覧会そのもの・・・そして、もう一つは、その会場でスイス人・アンリー・デュナンが提唱した赤十字社の活動でした。
やがて、明治維新となった後、海軍の知識をかわれて兵部省(ひょうぶしょう)に入った常民は、日本海軍の近代化に尽力する・・・はずでしたが、薩長中心の政府首脳との関係が、必ずしも良好でなかった彼は、志半ばで別の世界へ飛び込む事になります。
明治五年(1872年)には、日本の産業近代化をめざして湯島聖堂にて日本初の博覧会を開催したり、その翌年には、多数の技術者を率いてウィーン博覧会へとおもむき、最先端の技術を見学する貴重な体験をしたり・・・
彼の体験は、膨大な報告書として記録され、日本産業の近代化への指針となりました。
一方で、この頃から士族の叛乱が立て続けに勃発します。
常民と同郷の江藤新平が起した佐賀の乱(2月16日参照>>)。
旧熊本藩士による神風連の乱(10月24日参照>>)。
福岡で起こった秋月の乱(10月27日参照>>)。
前原一誠の萩の乱(10月28日参照>>)。
そして、ご存知、西郷隆盛の西南戦争(1月30日参照>>)。
かつて目指した医術の世界・・・
パリで聞いた赤十字の精神・・・
常民は、戦場で敵味方の区別なく看護する救護組織の必要性を訴え、博愛社という組織の設立を政府に提出しますが、その理念を理解できない政府首脳陣は、その嘆願を却下・・・
やむなく、常民は、同じ志を持つ大給恒(おぎゅうゆずる)とともに、自ら戦場となった熊本へと向かい、征討軍総督の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)への直訴を決行したのです。
そんな彼らの熱意と精神に胸を打たれた親王は、なんと!中央に確認する事なく、その場で、即、許可をしてくれました。
博愛社=後の日本赤十字社の誕生です。
その後、日本赤十字社の初代・社長に就任した常民は、日本を万国赤十字条約に加盟させ、その保険衛生と人道福祉が、欧米にもひけをとらない近代的なものである事を、世界に示しました。
国内では、磐梯山噴火災害や濃尾大地震に災害救援を派遣し、日清戦争の時には、病院船を発案&建造して戦時の救援活動にも尽力・・・明治二十三年(1890年)のオスマン帝国海軍のエルトゥールル号遭難事件(9月16日参照>>)でも救護隊を派遣して、その精神が揺るぎない事を証明してみせます。
やがて、明治三十五年(1902年)10月に開かれた日本赤十字社の創業25周年式典の席で、常民は、最高の栄誉である名誉社員に推薦されました。
彼にとって、名誉社員の栄誉は確かにうれしい事であったかも知れませんが、ひょっとしたら、そんな事よりも、初めは誰も理解してくてなかった博愛の精神が、こうして多くの人に浸透し、盛大な式典を催す事ができるまでに成長した事のほうに喜びを感じていたのかも知れません。
集まった人々を目の当たりにして、自らの役目が終った・・・
そう、感じたのでしょうか?
式典から、わずか2ヵ月後の明治三十五年(1902年)12月7日、常民は東京の自宅で、静かに、その生涯を閉じました。
そして、彼の遺志を受け継いだ日本赤十字社は、未だ、記憶に新しい2004年のスマトラ島沖地震、2005年のパキスタン北部地震などで、被災者の救護活動や復興支援に尽力し、今現在も活躍を続けています。
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コメント
お久しぶりです。維新でございます。昔、火城と言う小説を読んで、この方の事を知りました。当時、最先端の技術を持っていた肥前。今の佐賀県は…涙で前が見えない。
投稿: 維新入道 | 2009年12月 7日 (月) 11時57分
維新入道さん、こんばんは~
戊辰戦争には遅ればせの参戦ながら、「薩長土肥」として名を連ねられるのも、その勝利に肥前の最先端技術が大いに貢献したからですもんね。
今の佐賀県は・・・
福岡と長崎に挟まれつつも、なかなかのモンだと思いますよ~
投稿: 茶々 | 2009年12月 7日 (月) 23時19分