織田信長をも魅了した松永久秀の築城センス
天正元年(元亀四年・1573年)12月26日、足利義昭の呼びかけに応じて、織田信長包囲網に加わっていた松永久秀が降伏し、多聞城を信長に明け渡しました。
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この松永久秀(まつながひさひで)という人・・・その生涯で、2度・信長に降伏し、2度・刃を交えています。
最初は、織田信長が、第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した時・・・
この時は、敵対するというよりは、すぐさま恭順な態度を示し、名器と言われる作物(つくも・九十九)茄子の茶入れを差し出して、むしろ信長に気に入られ、義昭の家臣という居場所を確保しています。
その後、信長に2度叛旗をひるがえし、その2度目の叛乱で壮絶な爆死を遂げた事は、そのご命日の日に書かせていただきました(2007年10月10日参照>>)。
しかし、この最期の時も、信長は、「お前の持ってる平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜を譲ってくれたら、今回の謀反を許してあげる」と、魔王と噂される信長さんとは思えない寛大な態度で接してします。
この「お前の持ってる茶釜をくれたら・・・」という交換条件は、それだけ信長がその茶釜が欲しかったとも言えますし、それだけ、久秀が価値のある人物だったともとれますが、最初の段階での信長が、「(謀反の)理由があったら聞くし、望みがあるんやったら言うてみぃ」と言ってるところから察して、私は後者・・・久秀にそれだけの価値があったのだと思っています。
そんな久秀が、最初と最期の中間・・・一度目に起した謀反が、今回の多聞城の一件です。
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そもそも、「乱世の梟雄(きょうゆう)」と呼ばれ、13代将軍の足利義輝(よしてる)を三好三人衆とともに殺害し、主君の三好長慶(ながよし)を毒殺し(これには諸説あり)(5月9日参照>>)、その後、仲間割れした三好三人衆との戦いで東大寺の大仏殿を灰にしてしまう(2018年10月10日参照>>)・・・その破天荒な暴れっぷりは、対岸の火事である後世の戦国ファンから見れば実に小気味いい。
こうして、京を掌握していた久秀の前に現れたのが信長・・・しかし、ここは、無理に反発する事なく、上記の通り、その傘下に入る事にします。
これまでの久秀の行動からすれば、実におとなしい応対ですが、ここは、「そのチャンスをうかがっていた」というところかも知れません。
まもなく、義昭と信長の間に亀裂が生じ始める中(1月23日参照>>)、義昭の呼びかけに応じて、越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)、近江(滋賀県)の浅井長政(あざいながまさ)・越後(新潟県)の上杉謙信、甲斐(山梨県)の武田信玄・・・やがては、石山本願寺も参加しての信長包囲網が形成されますが、それでも、まだ、信長の配下として石山本願寺戦に参戦していた久秀・・・。
しかし、元亀四年(1573年)3月、ついに義昭の誘いに応じて同盟を結び、さらに、あの三好三人衆とも仲直りし、信長包囲網の一角に加わる事になります。
これには、信玄の上洛も追い風になったのかも知れません。
「あの大物が上洛したなら、さすがの信長も・・・」という空気が、一瞬でも流れた事でしょう。
ところが、西へ進軍していた信玄は、この年の1月の野田城攻防戦(1月11日参照>>)を最後に甲斐へと戻ってしまいます(ご存知のように病に倒れ、4月に亡くなります)。
さらに7月には、信長からの攻撃を受けて義昭が京を追放され(7月18日参照>>)、8月には、やはり信長の前に浅井・朝倉が倒れ(浅井:8月27日参照>>)・(朝倉:8月20日参照>>)、11月には、婚姻関係を結んでいた三好義継が河内若江城で敗死する(11月16日参照>>)に至って、ついに天正元年(元亀四年・1573年)12月26日、信長に降伏し、籠っていた多聞城を明け渡したのです(2017年12月26日参照>>)。
・・・で、この後は、信長の家臣である佐久間信盛の配下となって働くわけですが・・・そうです、やっぱり、ここでも、信長は謀反を起した久秀を許しているわけです。
あの信長が、ここまで寛大な処置をとるという事が、久秀の魅力のレベルアップに一役買っているわけですが、そこまで、信長を魅了した彼の魅力というのは、何だったんでしょう?
それは・・・センス!
先見の明というか流行の先取りというか・・・それが、彼はバツグンだったのです。
まずは、先ほどから登場している茶道具です。
最初の作物茄子の茶入れを貰った信長は、久秀に「大和一国・切り取り次第」というお墨付きを与えていますが、これは、「自分で攻め取ったところは勝手に治めちゃっていいよ」という事・・・それほど、信長にとって魅力のある品だったわけです。
久秀は、信長より24歳年上・・・信長から見ればオヤジの年齢です。
息子が、親父のコレクションを欲しがる・・・これは、ひとえに、そのセンスが良いからです。
昔、親父が若い頃にはいていたジーンズも、センスが悪ければただのボロ・・・しかし、それが、今もなお人気の品なら、デニムの古着=アンティークとしての価値があり、息子も欲しいと思うのでは?
そんな久秀のセンスは築城にも発揮されています。
今回、歴史の舞台となった多聞城・・・ここを訪れたルイス・フロイスの記録によれば・・・
見上げるほどの高さの数階の建物(天守)があり、漆黒の瓦に真っ白な壁と西洋風の窓格子を設けた外国では見た事のないような立派な建造物だったと・・・。
白い壁は、石灰に砂を混ぜるのではなく、紙を混ぜていたようで、特に、その白さが強調される造りだったようです。
その内部の壁には歴史物語が描かれ、光り輝く真鍮(しんちゅう)の柱には、菊の花が彫刻され、見事な庭園を備えていたのだとか・・・
さらに、城下を歩けば、、「今できたばかりなのではないか?」と思わせるほどの、清潔で白く輝く道が続き、まるで天国のようだったと・・・。
このフロイスの感想・・・何かを思い描きませんか?
そうです。
まるで、信長の安土城の感想を思い浮かべますが、実は、信長の築城は、久秀の技術を生かした設計・・・これこそが、一番の魅力なのです。
今も、全国各地の城に残る多聞櫓(たもんやぐら)という建物・・・以前、このブログでは、大阪城の多聞櫓の特別公開に行った時のお話も書かせていただきましたが(11月2日参照>>)、この多聞櫓が、この名前で呼ばれるには、久秀の多聞城に造られた久秀デザインの櫓だからなのです。
守りに強く、見た目に美しく・・・この多聞城にあった櫓を、ことのほか気に入った信長が、自らの築城に採用し、さらに、その良さを実感した大名たちが、自らの城にも採用して全国的に広がったのです。
フロイスの記録を見る限りでは、おそらく、天守閣を最初に造ったのも久秀・・・
謀反を起しても寛大な措置・・・信長にとって、久秀のセンスは、殺すに惜しい魅力的なものだったという事なのでしょう。
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コメント
こんにちわ~、茶々様。
でたぁ~『松永久秀』戦国の蝶々(バタフライ)!
三好からヒラリ、信長からヒラリ・・・でも最後はその目利きが鈍ったんでしょうか?毛利・石山本願寺軍団がそんなに良いと思ったんですかね?それともやっぱり信長が嫌いだったのかな?
まぁ今となっては知る由もありませんが信長が2度も裏切りを許した松永久秀・・・茶々様はそのセンスと言っていますが、ちょっと言葉は違いますが信長の理想だったんですかね?『下剋上』『茶などの教養』『築城センス』
投稿: DAI | 2009年12月27日 (日) 11時29分
DAIさん、こんにちは~
センスというか・・・
信長にとって「カッコイイおやじ」だったんでしょうね。
ロックシンガーから見たYAZAWAみたいな?
投稿: 茶々 | 2009年12月27日 (日) 12時04分
茶々さん こんばんは!
松永久秀さん色々謀反伝説多いですけど結構文化人な面とか民に善政敷いた面とかがありますよね。だからこそただのチンピラ武将(笑)扱いされないのかも。いまだに人々を魅了し続けている松永さんて、ホントどんな人だったんでしょうね 私はなんとなくチョイ悪親父みたいなイメージを持ってます(チョイ悪なんてレベルじゃないですが)
投稿: ryou | 2009年12月27日 (日) 19時51分
ryouさん、こんばんは~
ホント・・・
チョイ悪ではなく、大悪オヤジですが、いい人では生き抜いていけない戦国では、やはりカッコイイ親父だったのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2009年12月28日 (月) 01時22分