僧侶の武装と堕落
治承四年(1180年)12月28日、平家による南都焼き討ちが行われ、東大寺・大仏殿などが消失しました。
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・・・という事ですが、事件の経緯については昨年の12月28日に書いておりまして、「焼き討ち」というよりは、失火だった可能性が高い事も書かせていただいたのですが(2008年12月28日【故意か?失火か?~平重衡の南都焼き討ち】を見る>>)、そもそも、武士と寺院の争いという事に関して、どうしても現代の私たちには違和感が残ります。
それは、現在の私たちにとって、「お寺さんのお坊さん」=「徳が高く非暴力」というイメージだからなのでしょうが、当時は、少し違っていたという事を知っておかねばならないのでは?・・・という事で、本日は、僧兵と寺院の武装化と、それに伴う僧の質の低下について書かせていただきたいと思います。
本日の平家による南都焼き討ちの大将だった平重衡(たいらのしげひら)、一昨日ご紹介したばかりの松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)は、あの大仏を焼いたことで、仏をも恐れぬ悪行=仏敵と称されます。
また、あの織田信長も、比叡山焼き討ちを決行した事で、魔王などと言われます。
(2006年9月12日【比叡山焼き討ち】参照>>)
(2007年9月12日【比叡山焼き討ちはなかった?】参照>>)
しかし、この当時は、寺院も武装していたという事実を抜きにした現代人の尺度では測れないのです。
それは、平安時代後期からくすぶりはじめます。
「自分の思い通りにならないのは、賀茂川の流れとサイコロの目と比叡山の僧兵」
この言葉を言ったとされるのは、第72代白河天皇(2月11日参照>>)・・・あの源頼朝に「日本一の大天狗」と言わせた第77代後白河天皇のひいおじいちゃんです。
逆に言えば、その三つ以外は思い通りになるって言っちゃう天皇も「えぇ!?Σ(゚д゚;)」って感じですが、思い通りにならない二つの自然現象に並んで、人間である僧兵が入ってるところも驚きですよね。
こうした武装する聖職者集団には、白河天皇の言葉にも出てきた比叡山の山法師、興福寺の奈良法師、園城寺の寺法師などが有名ですが、彼らが武装したのには律令制の崩壊がが大きな要因となっている事は確かでしょう。
以前、書かせていただいた土地問題です(くわしくは11月30日の記事で>>)。
奈良時代の大宝律令で定められた土地制度を、国家は維持できなくなったため、それまでは日本の土地すべてが国家の物だったのが、条件つきではあるものの「開墾した土地は自分の物にして良い」という画期的な法律=「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」が発され、寺院がこれに飛びつきます。
かつては、国家の保護を受けていた寺が、律令制の崩壊で、その国家の保護をあてにできなくなっていた所にこの法律ができたものですから、寺はこぞって新たな土地=荘園を開墾し、寺の維持を、そのお金でまかなおうとしたわけです。
上記の土地問題のページで、荘園を開墾した領主が、自らの土地を守るために、中央から派遣された皇族や貴族を棟梁(とうりょう)に担ぎ、強固な武士団を築いていったと書かせていただきましたが、それは寺とて同じ事です。
自らの荘園を守るために、僧も武装し、国司の侵入を防ごうとしたのです。
そんな僧の武装集団が僧兵・・・
・・・で、そうなると、戦いのためには一人でも多くいたほうが有利という事で、寺のほうも、大した修行もしないまま、安易に僧である事を認めて、その質もどんどん低下・・・やがては、ただの荒くれ者の集団のようになっていくのです。
たとえば室町時代の初期、第2代将軍・足利義詮(よしあきら)の時代、京都五山の第一と言われた南禅寺が、その楼門を造営するための費用を捻出しようと、勝手に関所を造って通行料を徴収したのですが、そこを園城寺の小僧が料金を払わずに通行しようとしたためにケンカとなり、小僧は殺されてしまいます。
すると、怒った園城寺側が、南禅寺の関所へ殴りこみをかけて僧・2名を殺害したにもかかわらず、その園城寺に興福寺と延暦寺が味方した事で、京都五山VS園城寺・興福寺・延暦寺の構図が出来上がり、さらにヒートアップ!
正平二十二年(貞治六年・1367年)12月には将軍・義詮が亡くなり、一旦、落ち着きますが、すぐまた翌年、南禅寺の僧が・・・
「延暦寺の坊主は猿や!人のようで、人でない(ベンベン)」
(↑延暦寺の鎮守の日吉神社の使いが猿なので)
とか
「園城寺の坊主は三井のガマ蛙!生き物の中で、一番アホ!」
(↑園城寺の別称が三井寺なので)
とかの暴言を吐いた事で再燃・・・
怒った延暦寺が、お得意の御輿を担いで入京する騒ぎにまでなり、さらに京中の禅寺や朝廷・幕府を巻き込んで大モメにモメた後、結局、お互いに険悪なムードを維持したままの状態が長く続く事に・・・(6月26日参照>>)
失礼ながら、なんか低レベルな争いです~。
しかし、戦国の頃は、さらにエスカレートしています。
あの本願寺の蓮如(れんにょ)が、延暦寺の弾圧によって大谷廟を焼かれて北陸へと行くハメになったのは有名なお話(7月27日参照>>)・・・これは、一つの宗教から見れば、他の宗教は邪教=敵で、「邪教を信じる者は排除しなければならない」というのが当時の常識だからです。
天文五年(1536年)には、やはり延暦寺の僧兵が、日蓮宗のお寺を取り囲み、中に人がいるまま火を放って焼き殺すという天文法華(てんぶんほっけ)の乱なんて事件(7月27日参照>>)もありました。
しかも、これ、1ヶ所ではなく、京都内のお寺21ヶ所でやっちゃってますから、その殺戮たるやハンパじゃありません。
また、僧の質の低下という点では、高野聖(こうやひじり)と呼ばれた修行僧らも見逃せません。
高野聖というのは、高野山の僧が全国をめぐり歩き、高野山の由来などの話を人々に聞かせながら勧進(かんじん・寄付集め)をする修行僧の事ですが、開祖の空海がそうであったように、各地の家々にお願いして泊めてもらう宿借(やどかり)という特権がありました。
しかし、室町時代の後期には、それを悪用して、衣類や雑貨を入れた篭を持ち歩き、入った家で物を売る呉服聖(ごふくひじり)や商聖(あきないひじり)が多発・・・中には、若い奥さんに夜這いをかける売聖(まいす)なんて僧もいたのだとか・・・
また、彼らが、「高野山で祈祷した時の護摩(ごま)の灰だ」といつわって、変な燃えカスを押し売りまがいで売りつけた事から、命を取るような強盗ではなく、サイフなどの懐中物をスルといった小悪党の事を「護摩の灰」と呼んだ←これが「ゴマの灰の語源」なんて事もまことしやかに囁かれています(諸説ありますが・・・)。
・・・と、以上、現在のお寺さんやお坊さんとは、ずいぶんと違います。
もちろん、これ以外に、最も重大な、政治への介入という事がありましたから、時代の権力者は、彼らを野放しにしておく事はできなかったという事なのでしょうね。
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コメント
茶々さん こんにちは!
開祖はこんなことするために教えを広めたんじゃないでしょうに、それを悪用する人たちが現れて・・・ウチの真宗王国もそのくちで 守護を滅ぼしちゃうわ悪人正機説を悪用して盗賊まがいのことするわ滅茶苦茶やってましたから、そりゃあ蓮如さんにも見放されますよ。圧力団体だから時の権力者からすればうっとおしい存在でしょうね。ある意味、僧という立場を利用した大悪党ですから。一番荒んじゃいけない人達のはずなのに。
これと同時期に西洋では宗教改革が起きていたというのは面白いですね。
投稿: ryou | 2009年12月28日 (月) 09時37分
ryouさん、こんにちは~
そうですね~
確かに、日蓮なんかは「念仏無間」=「念仏を唱える宗教では無間地獄に落ちるだけ」なんて言葉を残してますから、自分とこの宗教以外は邪教だと思ってはいたでしょうけど、だからといって「武力で徹底的に潰せ」と思ってたかどうかは微妙ですもんね。
おっしゃる通り、現に蓮如は「行き過ぎ」と感じていたようですからね。
やはり、質の悪い僧によって、その理念もあらぬ方向へ行ってしまったって感じですね。
投稿: 茶々 | 2009年12月28日 (月) 10時50分