平治の乱~清盛の天皇救出劇
平治元年(1159年)12月25日、平治の乱で内裏に幽閉されていた二条天皇が、六波羅へ脱出しました。
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すでに、昨年の勃発の日に、一連の流れを書かせていただいている平治の乱ですが(2008年12月9日のページを見る>>)、乱を起こした最初の段階で政権を握った藤原信頼(のぶより)と源義朝(よしとも)が、わずか半月ほどで、平清盛に倒されてしまう、最も重要なキーポイントが、この二条天皇の脱出です。
この日、二条天皇と、その父の後白河上皇を清盛が確保した事で、清盛側が官軍となり、一気に形勢逆転となるわけですが、それにしても、なぜ、信頼は、大事な大事な天皇と上皇に逃げられてしまったのか?
そこには、複雑な人間関係が絡んでいるようです。
そもそもは、保元の乱に勝利して、保元新制なる新制を発令した第77代・後白河天皇・・・この改革を、実際に立案して推し進めたのが、当代随一の学者と言われた執政・信西(しんぜい・藤原(高階)通憲))という人物で、後白河天皇の乳母の夫だった事から側近として重用された人でした。
その保元新制の主要部分が、全国の荘園を規制して、天皇の支配下置こうとする荘園整理だったので、それを強行するためには武力も必要という事で、信西は平家一門を重用していたのです。
そんなこんなの保元三年(1158年)、後白河天皇が退位・・・上皇となって院政を行い、息子の第78代・二条天皇が即位します。
これは、その二条天皇の養母だった美福門院(びふくもんいん・藤原得子)という女性が信西に迫って実現したもので、この女性は、今は亡き第74代・鳥羽天皇の皇后で、第76代・近衛天皇の母という立場の人なのです。
当時も多くの荘園を相続していて政財的にも力を持つ人・・・しかも、信西は、鳥羽天皇の側近でもあった人ですので、この2人のつながりもなかなか強いものでした。
ただ、この時、16歳で皇位を継いだ二条天皇は、政治にも強い関心を持っており、どちらかと言えば、自らが政治をしたい・・・で、当然ながら、父の院政がうっとおしく、徐々に対立していきます。
そうなると、先の近衛天皇の急死を受けて、中継ぎ的立場で即位した後白河上皇にとって院政を推し進めるのが、美福門院と親しい信西だけでは、いたって不安・・・という事で後白河上皇が、大抜擢したのが、寵愛する信頼だったのです。
後白河上皇の力を得て、急速に出世し、信西と肩を並べる実力者となった信頼ですが、そんな彼が、いつしか信西と反目するようになり、その武力として頼ったのが義朝でした。
かくして、朝廷内には、二条天皇派と院政派という対立とともに、信頼派と信西派という対立も生まれ、それらが複雑に絡み合います。
その中での清盛の立場は・・・確かに、信西は、平家一門の武力を頼りにし、厚遇していましたが、清盛のほうは、信西の息子にも、信頼の息子にも娘を嫁がせており、この段階では中立の立場をとっていたのです。
・・・で、そんな中の平治元年(1159年)の12月9日、清盛が熊野詣に出かけた留守中に、信頼と義朝は、天皇と上皇を幽閉し、信西の首を取るというクーデター=平治の乱を決行したのです(12月15日参照>>)。
ただ、幽閉と言っても、天皇のいる場所に上皇を連れてきた・・・しかも、そこには美福門院の息のかかった人物が関与していたともされ、このクーデター自体に、二条天皇派が関わっていた可能性大で、つまりは、この時点では、二条天皇は信頼の味方だったかも知れないのです。
ところが、このクーデターの一報を聞いて、あわてて熊野から帰ってきた清盛の天皇救出作戦の手引きをするのも、二条天皇派の人物・・・
確かに、信西を倒して政権を掌握した信頼が、臨時除目(じもく・任官の儀式)を行って、自らが近衛大将に、義朝を播磨守(はりまのかみ)に任じたりした時、太政大臣の藤原伊通(これみち)が、
「人を多く殺した者が官位を貰うなら、三条殿の井戸にも官位を授けねば・・・」
(最初に三条殿を攻めた時、多くの女性がそこの井戸に飛び込んで死んだとされているので・・・)
てな、皮肉を言ったとも言われ、ここらあたりで、反信西だった朝廷の人たちが、逆に、反信頼・反義朝に変わっていったとも考えられますが、もともと、二条天皇派にとっては、信西が死んさえくれたら、その後はどうでも良かったという事なのかも知れません。
とにもかくにも、平治元年(1159年)12月25日、清盛は、まずは、娘婿となっていた信頼の息子・信親(のぶちか)に護衛をつけて、信頼のもとへ送ります。
その一方で、二条天皇派の藤原惟方(これかた)の義兄弟である藤原尹明(ただあき)に、女性用の車を用意させ、そこに二条天皇を乗せ、闇にまぎれて放火し、騒ぎに乗じて連れ出すよう指示します。
さらに、信頼には名簿(みょうぶ)を提出・・・この名簿というのは、本人の官位や姓名を記した名札の事で、「差し出したあなたに服従します」という意味が込められている物でした。
これに対して信頼は、
「重ね重ね、アリガトね!」
と、大喜び「です。
「息子も無事返してくれて名簿も提出してくれて」・・・つまり、信頼は清盛を完全に味方だと思っていて、まったく疑っていなかったのです。
しかし、清盛の計画通り、二条天皇は脱出して六波羅邸へと入り、さらに仁和寺へ・・・
やがて、後白河上皇も、美福門院も、六波羅邸に合流すると、さきの関白・藤原忠通(ただみち)など、公卿・殿上人のすべてが六波羅に大集合・・・これで清盛が官軍となり、信頼と義朝は孤立し、彼らの運命は、ここで決定的となってしまったのです。
なんだか、清盛の1人勝ち・・・信頼は踊らされた感も拭えないですが、まだまだ異説もあり、謎多き平治の乱です。
平治の乱の結末については、
●冒頭にもリンクした藤原信頼中心の平治の乱>>
●源義朝中心の平治の乱(義朝の最期)>>
●義朝の長男=悪源太義平の平治の乱>>
●捕えられた義朝の嫡男=源頼朝>>
など、それぞれのページをご参照くださいm(_ _)m
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コメント
「平家物語」では上皇・天皇父子は女装して脱出したとありますね。平治の乱は「内輪もめ」がいくつかからんでます。850年も前の話なので丁寧に説明しないと、視聴者には理解が難しそうですね。来週にも12年作品のタイトルの発表と原作(脚本)決定があるでしょうね。
来年もそうですが、再来年も主人公が子沢山の人です。ネット上で指摘されたこの10年くらいの、「大河主人公少子化傾向」を是正するような人選かな?と思います。
投稿: えびすこ | 2010年7月31日 (土) 08時51分
えびすこさん、こんばんは~
お返事が遅くなりました~o(_ _)o
>大河主人公少子化傾向」を是正するような人選…、
なるほど、そう言えば少なかったですね。
「NHKもドラマで少子化対策に一役買う」って感じなんでしょうかねww
投稿: 茶々 | 2010年8月 1日 (日) 23時06分