死守はしたけれど…慶長の役・蔚山城攻防戦
慶長二年(1597年)12月22日、豊臣秀吉の朝鮮出兵の後半戦=慶長の役にて、蔚山城に籠城する日本軍に明・朝鮮の連合軍が総攻撃を仕掛けました。
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様々な説あれど、その真意が未だに計り難い豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・(3月26日参照>>)
長期に渡る戦乱の世を終らせた秀吉は、大陸へと思いを馳せ、アジア諸国に入貢(にゅうこう・貢物を持って挨拶に来い)を促す手紙を出しますが、当然の事ながら、明(みん・中国)も朝鮮もそんな要求を受け入れるわけにはいきません。
大陸との窓口となって奔走する小西行長と宗義智(そうよしとも)でしたが、結局、秀吉は文禄元年(1592年)4月13日、計15万を越える大軍を釜山(プサン)に上陸させたのです(4月13日参照>>)・・・文禄の役の勃発です。
しかし、緒戦こそ勝利したものの、しだいに戦況は泥沼化・・・碧蹄館(ビョクジェグァン)では、なんとか勝利するも、もはや戦う気力も体力もなく、和睦交渉をすすめていた行長によって、何とか講和使節団の日本訪問をとりつけ、文禄の役は終結を迎えました(1月26日参照>>)。
しかし、いくら使節がやってきても、はなから、相手を服属させる事が目的の秀吉との交渉がうまく行くわけもなく、結局、慶長二年(1597年)7月、再び、日本軍の渡海が開始されるのです。
2度目の朝鮮出兵=慶長の役です。
今回は、「唐入り(明への進攻)」を目標とした文禄の役と違い、あくまで朝鮮半島南部の主要道路の確保・・・渡海&遠征しての合戦の困難さを、前回で充分に理解したうえでの作戦でした。
今回も緒戦は日本軍が勝利し、明・朝鮮連合軍を漢城(ハンソン)郊外まで撤退させますが、かねてからの作戦通り、それ以上北上する事はなく、南部の鎮定に終始します。
やがて11月に入って、日本軍は蔚山(ウルサン)に築城を開始します。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
ここは、釜山(プサン)から慶州(キョンジュ)へと通じる交通の要所・・・しかも、南側に太和江(テファガン)が走り、すぐそばに船を着ける事ができます。
なんせ、日本側の補給路は、船の道しかないのですから・・・
あの加藤清正が縄張り(設計)を担当し、毛利秀元や浅野幸長も加わり、工事は急ピッチで進められていきます。
一方の明・朝鮮連合軍・・・日本軍が半島南部の守りに集中している事、築城に多数の兵が動員されている事、さらに、日本軍のリーダー的存在である清正の城という事も踏まえ、この蔚山城が完成する前に攻略する作戦に出ます。
リーダー的・清正の城が完成前に占拠されたとなれば、日本軍にかなりの心理的ダメージを与えられますから・・・。
12月7日、漢城から蔚山に向けて南下する明・朝鮮連合軍・・・かくして慶長二年(1597年)12月22日、南側の川の方向を除いての3方を囲んだ5万7000が、総攻撃を開始したのです。
執拗な攻撃に、内側へと追い込まれる城兵・・・運悪く、蔚山を留守にしていた清正は、慌てて7里(約28km)の道をひた走り、なんとか城に戻りますが、未だ未完成の城には、兵糧すら運び込まれてはいません。
しかも、この真冬・・・朝鮮半島の厳しい寒さに、餓死者&凍死者が続出する中、やむなく、清正は開城を模索しはじめます。
もう、後がない!!
と、諦めかきた時・・・
蔚山の西方に、かの秀元・黒田長政・鍋島直茂らが、1万5000の兵を率いて到着・・・援軍の参戦に士気あがる籠城組・・・
敵の援軍の到着を知った明・朝鮮連合軍は、戦いが長引いては退路が断たれかねないと、年が明けた1月4日、最後の総攻撃を仕掛けますが、籠城組は、なんとか防ぎきります。
なかなか落ちない蔚山城に見切りをつけた連合軍は、まもなく、連合軍は包囲を解いて撤退を開始・・・そこへ、襲い掛かるのは毛利・黒田・鍋島隊。
撤退戦が最も難しいのは、日本も大陸も同じ事・・・ここで、2万以上の死者を出しながらも、なんとか撤退した明・朝鮮連合軍でしたが、一方の日本軍も、それをさらに追いかける気力もなく、攻防戦は、これにて終了・・・
この後、1月25日付けで、秀元ら13名の武将が、石田三成らの奉行に「戦線の縮小」を願い出ているところから見ても、いかに、過酷な戦いであったかがうかがえます。
しかし、春はまだ遠い・・・いえ、春を越えてもまだ続く遠征は、現地に派遣された武将だけでなく、日本に残る秀吉に、そして、豊臣家をも過酷な渦の中へと巻き込んで行く事になりますが、そのお話は、以前、書かせていただいた慶長の役のまとめ的な記事・11月20日のページの後半部分でどうぞ>>
それにしても・・・
戦国の世の手に汗握る合戦は、いつも勇猛な武将たちの姿を思い描きながら、自分自身もワクワクしつつブログを書いているのですが、どうも、この文禄・慶長の役だけは、あまりにも過酷で悲惨で、頭に思い描く映像が悲しすぎるなぁ・・・
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コメント
すごく毎回面白い記事を読ませていただいています。私は韓国に大学院の勉強で住んでいたことがあるのですが、慶長文禄の役だけはどうしてこんなことを豊臣秀吉がしたのか?本当に理解できません。ウルサン城は行ってみる勝ちがあると思いますよ。近くて遠い国、韓国からでした。あ、ちなみに大阪育ちの日本人です。
投稿: minoru | 2010年12月22日 (水) 15時32分
minoruさん、こんばんは~
>どうしてこんなことを豊臣秀吉がしたのか?
そうですね~
でも、私個人的には、世間で言われているような荒唐無稽な戦いだとも思っていません。
その頃、すでにヨーロッパの強国は、東南アジアへの進出を開始していましたが、秀吉の一矢によって、その勢いが日本にまで来なかったのでは?てな事を考えています。
もちろん、100%正しいとも思いませんが…
投稿: 茶々 | 2010年12月22日 (水) 21時15分
秀吉って暴君ですよね…(¬з¬)
家臣達が可哀想です(ρ_;)
投稿: | 2013年3月10日 (日) 06時31分
こんにちは~
そうですね。
この戦いの悲惨な結果を知ってる後世の私たちから見れば、秀吉の暴走に家臣たちが巻き込まれた感を感じる事も致し方無いかも知れませんが、実際に参戦した武将たちは、意外に「勝てる」と思って頑張っていたかも…
秀吉のコレが無かったら、スペインに占領されていたかも知れませんし、秀吉がもうチョイ長生きしてくれていたら、戦後も変わっていたかも…
投稿: 茶々 | 2013年3月10日 (日) 14時34分