島津軍から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼
天正十四年(1586年)12月12日、島津の大軍の攻撃を受けた大友配下の鶴崎城を、城主名代の妙林尼が死守しました。
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羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を破り(7月25日参照>>)、四国を平定した天正十三年(1585年)・・・九州では薩摩(鹿児島県西部)の島津義久(しまづよしひさ)の勢いが増していました。
それまで、九州の最大勢力は豊後(大分県)の大友宗麟(おおともそうりん・義鎮)でしたが、天正六年(1578年)の耳川の戦い(11月12日参照>>)で義久に大敗してからは、以前の勢いもなくなり、それに乗じて肥前(佐賀県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)も勢力を伸ばしてきます。
しかし、その隆信が天正十二年(1584年)の沖田畷の戦い(3月24日参照>>)で討死すると、もはや島津の敵は大友のみ・・・義久は、九州全土を統一せんが勢いで豊後に向けて進撃を開始していたのです。
もはや、自力のみの抵抗で島津を倒せないと判断した宗麟は、四国を平定して意気あがる、かの秀吉に援助を求める事にします(4月6日参照>>)。
この先、天下統一をもくろむ秀吉にとっては、この援助要請は、まさに渡りに船・・・早速、宗麟の要請を受けた秀吉は、その天正十三年(1585年)の10月、大友と島津の間に入って和睦の提案をしますが、その条件が・・・
「薩摩・大隅(鹿児島県東部)・日向(宮崎県)のすべてと肥後(熊本県)・豊前(ぶぜん・福岡県東部)のうち半分を島津の領地とし、残りは、大友を含む他の大名(秀吉配下の)のものとする」
という物だったため、島津側にとっては納得し難く、義久は、この和睦提案を拒否し、再び豊後への進攻を開始します。
中でも、天正十四年(1586年)7月27日には、島津に攻められた大友配下の筑前岩屋城で、全員討死するという壮絶な攻防戦となりました(7月27日参照>>)。
かくして、九州の平定に本腰を入れる事になった秀吉は、まずは、9月18日に高松城主・仙石秀久(せんごくひでひさ)(9月18日参照>>)を、先鋒の軍監として豊後・府内に着陣させ、いよいよ・・・
しかし、11月25日に勃発した戸次川の戦いでは、平定したばかりの四国勢の足並みが揃わず・・・(11月25日参照>>)。
そんな中、援助を頼んだ宗麟も、さすがに秀吉にまかせっきりとはいきませんから、自らの本城・臼杵(うすき)城に配下の武将を招集し、本拠地を死守する作戦へと出ます。
一方の島津は、主力が秀吉配下の大軍と交戦する中、大友の支城を次々と落す作戦です。
そんな支城の一つが、本日の舞台=鶴崎(つるさき)城です。
この頃の鶴崎城の城主は吉岡紀増(のります・統増)・・・彼は、父・吉岡鑑興が一連の島津との交戦中に戦死し、敵討ちとも言える今回の戦いに闘志を燃やす若き武将で、主君・宗麟の求めに応じて、すでに臼杵城へと出張中。
つまり、城主はお留守という事です。
上記のように、本拠地・臼杵城を死守するために配下の諸将を招集・・・と書けば聞こえは良いですが、言いかえれば、残りの支城は、見捨てられた事になります。
なんせ、主軸となるべき城主が、主だった城兵を連れてかの本拠地へ行ってしまっているわけですから・・・
そうして、残ったのは、女子供と百姓兵・・・
若き城主から留守を預かるのは、その紀増の母(もしくは祖母)である吉岡妙林尼(みょうりんに・妙麟尼)・・・彼女は、ここで女城主として見事な働きをするのです。
・・・とは言え、彼女の記録はほどんと残っておらず、『大友興廃記(おおともこうはいき)』『豊薩軍記(ほうさつぐんき)』などの戦記にわずかに残るだけ・・・その表記も城主・吉岡紀増の母・妙林尼だったり、城主・吉岡統増(むねます)の祖母・妙麟尼だったり・・・なので、先ほどから2種類の表記をさせていただいていますが、母なら30歳代、祖母なら50歳代という事で、そのエピソードも年齢に見合うように微妙に違うようなのですが、何とか、うまく取りまとめてご紹介していきたいと思います。
ちなみに、余談ではありますが、2009年2月11日に放送された『日本史サスペンス劇場』での再現ドラマでは、『大友興廃記』の妙林尼さんを描いたとみえ、ちょっと色っぽい感じで島津兵を惑わす若き未亡人という設定となっていました(老女よりは若いほうがドラマとしては絵になります)。
・・・と、話を鶴崎城・攻防戦に戻しましょう。
11月に入って、そんな鶴崎城に、「まもなく島津の軍が攻めて来る」という情報が入ってきます。
上記の通り、もはや、女子供と百姓兵のみの城となってしまった鶴崎城の運命は風前の灯火・・・
かの岩屋城のように徹底的に戦って散るか、あっさりと城を明け渡して降伏するか・・・
この時の妙林尼さん・・・鎖ハチマキをキリリと締め、着込みの上に羽織を着用し、薙刀をを手に徹底籠城の構えを見せます。
まずは、城の回りに張りめぐらされた堀をさらに深く掘りなおし、堀と掘の間に張りめぐらした柵の周囲には落とし穴を多数掘り、その上を平地に見えるようにカモフラージュし、そのすぐ先にはありったけの銃を並べて、準備万端、敵を待ちます。
このてきぱきとしたリーダーシップに、城を守る皆々は、大いに士気を高めたと言います。
やがて、11月下旬・・・約3000の島津の大軍が鶴崎城を囲みます。
率いるのは、伊集院久宣(いじゅういんひさのり)、野村文綱(のむらふみつな)、白浜重政(しらはましげまさ)ら、いずれも島津の精鋭たちです。
ただ、彼らはあまりに精鋭すぎた・・・数々の激戦をこなして来た彼らにとっては、鶴崎城は、見るからに守りに薄い小城で、張りめぐらされたチャチな柵も、尼城主による、にわかごしらえのミエミエの防御に見えてしまったのです。
しかし、もちろん、これは妙林尼の作戦・・・「チャッチイ柵なんか防御になるか!」と、それを突き破って突進して来てくれる事が狙いなのですから・・・ホンモノの仕掛けは、その周りにある平地に見える落とし穴・・・。
かくして、まさに戸次川での秀吉軍が、島津に完敗する天正十四年(1586年)12月12日、一方の島津の軍勢は、鶴崎城に総攻撃を開始したのです。
案の定、一度の攻撃で一気にカタをつけようと、何の作戦もないまま、島津の大軍は柵を壊しながら突進していきます。
しかし、柵を壊した向こうには落とし穴・・・大軍であればあるほど、次から次へと人馬は落とし穴へドサドサと落ちて身動きがとれません。
やっとの思いで落とし穴から這い出ると、そこには、待ち構えていた鉄砲の嵐・・・至近距離からの攻撃なので、半分素人の百姓兵でも見事に命中させる事ができ、島津軍は多くの死傷者を出してしまいました。
後日、落とし穴作戦にしてやられた島津軍は、今度は、人の前に牛馬を走らせ、穴の所在を確かめながら、ニジリニジリと進んでいく作戦に切り替えます。
しかし、今度は、穴には落ちないものの、動きが相当遅いために鉄砲で狙いやすく、またもや、その餌食となってしまいました。
このような攻防戦が16回ほど繰り返されたと言いますが、城側は、その都度、島津兵を撤退へと追い込み、島津側は死傷者が増えるばかりです。
・・・とは言え、鶴崎城は小さな城・・・その兵糧も弾薬も、そんなに多く蓄えているわけではありませんから、籠城戦も時間の問題です。
未だ、秀吉の大軍が、この近くに来ているという知らせもない以上、このままでは、皆、討死の前に飢え死にしてしまいます。
そこで、妙林尼は、やむなく、和睦を提案・・・一方の島津側も、もはや力攻めで城を落す事は難しいと考えていましたから、すんなりと城を明け渡してさえくれるなら・・・と、その命を奪う事なく和睦に応じました。
こうして、女城主のもと善戦した鶴崎城は落城・・・妙林尼らは城を後にし、その後に、島津勢が入城を果たします。
しかし、実はこれ・・・妙林尼の時間稼ぎ・・・
そう、彼女は、秀吉軍の到着を待っていたのです。
それまでは、落城しようが和睦をしようが、何とかして命ながらえ、時が来たら、起死回生の作戦を決行するつもりでいたのです。
後に、秀吉が絶賛する彼女の作戦・・・ですが、その後日談は、やはり、それが決行される3月8日に書かせていただきましたので【島津軍から鶴崎城を奪回!女城主・吉岡妙林尼】>>へどうぞo(_ _)oペコッ
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コメント
3月8日が待ち遠しいです。
この、ジラし上手。
投稿: ことかね | 2009年12月12日 (土) 12時21分
おいも、待ち遠しかです
投稿: 維新入道 | 2009年12月12日 (土) 13時44分
ことかねさん、m(. ̄  ̄.)mス・スイマセーン
本当なら、翌日に続きを書くべきなのでしょうが、一応「今日は何の日」と銘打っているので、日づけがはっきりしている事柄は、やはり、その日に書いたほうが良いかと・・・
投稿: 茶々 | 2009年12月12日 (土) 18時13分
維新入道さん、ジラして申し訳ないっすo(_ _)o
その日を楽しみにしていただけるとありがたいです・・・よろしくお願いします
投稿: 茶々 | 2009年12月12日 (土) 18時15分
こんばんは、
そうなんですか。かなり尼というよりも女将軍という感じですね。中世の欧州にもこういう人がいるのですよ。結構近代まではこういう女将軍はよく見かけました。
ところで12月12日は明日ですが、その日に私の好きなジェニファーコネリーも生まれました。私より二つ上の46歳です。彼女もおとなしく見えるのでこの尼さんみたいになめてかかりますが、実際は金星みたいに見かけと違い怖いです。どうもそういう人と縁があるのは私です。ヴィーナスも怒らせたら怖いです。頭が良いのも女神も尼さんも女優もそうなので変に共通点があるなと思います。
投稿: non | 2016年12月11日 (日) 17時08分
nonさん、こんばんは~
戦国時代の姫は、両家の同盟のためや、あるいは逆のスパイの意味などでの、いわゆる政略結婚が普通で、その役目が変われば、次から次へと別の家に嫁ぐ事も珍しく無かったので、「殿様が亡くなって尼になる」というのは、「もう再婚しません」「再婚せずに旦那さんの菩提を弔う」という意味なんです。
なので、現代の私たちが思う出家とは少々意味合いが違います。
逆に殿様が死んでも出家しない場合は、次の同盟のための再婚があるかも…という事を意味します。
浅井長政が死んだ後にお市の方が柴田勝家に嫁いだみたいに…
お市の方の場合、浅井が裏切っていますので、その後、浅井家が絶えようが存続しようが、織田との同盟は破棄されてるので、長政が亡くなってもお市の方がご主人=浅井家の菩提を弔うという風にはなりませんから。
ですから、同盟関係が続く=役わりが変わらない場合には「尼になってもう再婚しません」となるわけですが、その場合は「独身を貫いて婚家を守る」という事なので、戦国時代の場合は、妙林尼さんのような方はけっこういるんです。
ここまで見事にやってのけた例は少ないですが…
投稿: 茶々 | 2016年12月12日 (月) 00時58分
茶々さん、こんばんは。
未亡人に関して再婚が緩いのは日本と思います。西欧ではあまりないです。特に中世以降は殆ど禁止されていますし近代日本を見ますと西欧のコピーですので尼と言いますと西欧の修道女と同じイメージが今の日本では強い感じがします。
でも西欧でも僧兵に近いのはありましてドイツ騎士団なんか西欧の僧兵と言えると思います。
まあ世界政治が専門にしている私からしますと日本と同じ歴史を持つ国はないなと思いました。城攻めで苦戦するのはどの国でもそうですが、不思議なのは大坂の陣まで大砲を使ったのが見かけないのと弩、投石器、櫓みたいな攻城車を日本が持とうとしないのです。主な国でこういうのが無いのも日本ぐらいです。不思議な国家だとつくづく思います。それと城を明け渡した時にだまし討ちもしないのも日本の良き文化だと思いました。マサダみたいな集団自決も日本では見たことが無いですね。世界の奇跡と思ったりします。
投稿: non | 2016年12月12日 (月) 19時09分
nonさん、こんばんは~
ザビエルも、「日本人は結婚する女性に対して純潔を求めず、女性が何度結婚していても、次の結婚に影響を及ぼす事は無い」てな感じで驚いてます。
これが変わるのは、江戸時代に入って儒教を重んじるようになってからですね。
私も、(自分の国だからというのもありますが)日本は世界の奇跡だと思います。
小耳に挟んだ情報によると、日本人のDNAの中にやさしさが組み込まれているらしいですよ。
日本人の半分はやさしさでできていますww(o^-^o)
投稿: 茶々 | 2016年12月13日 (火) 03時08分
茶々さん、こんにちは。
寒いですね。大阪は如何ですか?
縄文時代は殺人がほぼゼロらしいです。それくらいに日本人はお互いに敬意を示していて台湾からカムチャッカまでお互いに緩やかな国家を作っていたようですがその血が濃いのかなと思います。
ところで日本の山城は落とすのは難しいそうですね。西欧人が旅順をあんなに早く落としたので吃驚していましたが、確かマルローが調べたと思いますが日本の城を落とすのは本当に難しく西欧の城よりも困難なのと住民をすぐに避難させ、武士だけで守っていて、人質が出来ない。それを短期間で落とすのは凄すぎるのと講和交渉が上手いと言っていました。これも優しさかなと思いました。
投稿: non | 2016年12月17日 (土) 13時17分
nonさん、こんばんは~
「日本の城は堅固で、それでいて美しい」
と海外でも評判のようですね。
うれしいです。
投稿: 茶々 | 2016年12月18日 (日) 18時52分