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2009年12月16日 (水)

夜討ちの大将・塙団右衛門in大坂冬の陣

 

慶長十九年(1614年)12月16日、大坂冬の陣において、豊臣方の塙団右衛門が徳川方の蜂須賀至鎮隊に夜討ちをかけ侍大将の中村右近を討ち取りました

・・・・・・・・・・

征夷大将軍の宣旨を受け、もはや天下を掌握した徳川家康の唯一の気がかりは、豊臣秀吉の遺児・秀頼の動向・・・

すでに、全国の諸大名は家康への臣従を誓ってはいるものの、未だ豊臣恩顧の気持ちも少なからず・・・いつ何どき、成長した秀吉の忘れ形見を担いで反対勢力になるか・・・

そんな目の上のタンコブをぶっ潰すべく、豊臣家が建設中の方広寺の鐘にイチャモンをつけて(7月21日参照>>)大坂冬の陣を勃発させた家康・・・

緒戦の野戦では、大坂城を取り囲むように、豊臣方が構築していた各所の砦を次々と落として勝利した徳川方でしたが(11月26日参照>>)、12月4日の真田丸の攻防戦で多くの犠牲者を出し、初の敗北を味わいます(12月4日参照>>)

翌・5日の谷町口での戦いでも戦果をあげる事ができなかった事で、自軍の士気の衰えを感じた家康は、このままの数にモノを言わせた強攻策では、難攻不落の大坂城を落せないと判断し、戦略の転換を模索しはじめます。

徳川方から大坂城に向かってトンネルを掘り始める一方で、この戦いのために用意した約300挺の大筒(大砲・石火矢)を設置して、昼夜を問わず延々と砲撃を続けたのです。

もちろん、トンネルが、このまますんなりと大坂城まで通じるなどとは思っていませんし、大筒も未だ命中率の低い鉄の固まりを飛ばすだけのシロモノですから、それで敵をやっつけるというものではなく、徐々に迫るトンネルの先端と、連日連夜に響き渡る轟音で相手を心理的に追い込む作戦です。

そんなこんなの慶長十九年(1614年)12月16日、草木も眠る丑三つ時、船場(せんば・大阪市中央区)に陣取る徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)への襲撃をもくろむ男・・・豊臣方の援将・塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)です。

団右衛門は尾張(愛知県西部)葉栗(はくり・愛知県一宮市)生まれの実在の武将ですが、後に『立川文庫』でもてはやされて、そのスーパーヒーロー伝説数知れずの史実&創作の入り乱れた人物です。

同じく、多くの講談本で少年読者のヒーローとなる薄田隼人(すすきだはやと)かも知れない岩見重太郎の仇討ち伝説(9月20日参照>>)にも、後藤又兵衛とともにバッチリ登場しています。

もともと織田信長に仕えてした団右衛門でしたが、その酒癖の悪さから織田家を追われ、その後、秀吉の直臣で賤ヶ岳七本槍(4月21日参照>>)に数えられた加藤嘉明(よしあき)に仕官し、足軽を率いる鉄砲大将にまでなっていました。

しかし、関ヶ原の合戦の時に主君・嘉明の命令に背いての単独行動でこっぴどく叱られた事から、自ら・・・
「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」
(ついとどまらずこうなんのやすい たかくてんをとぶいちかんおう)
「こんなキッタナイ水に留まってられるかい!俺は空高く飛ぶ自由なカモメなんや!」
という、旧・ソ連テレシコワばりの言葉を叩きつけて出奔・・・浪人暮らしの末、今回の大坂の陣に参戦していたのです。

(おそらく、このあたりが、『立川文庫』のヒーローに抜擢されるゆえんなのでしょうが、この一件に関しては、このページの末尾にリンクした夏の陣のページでどうぞm(_ _)m)

ほんでもって、ここに来て徳川方の士気の低下を見て取った団右衛門・・・自らが選抜した部下80人に命じて蜂須賀至鎮の陣を襲わせ、敵将の中村右近重勝(なかむらうこんしげかつ)以下・三十数名の首を盗り、見事、夜襲を勝利に終らせました。

おもしろいのは、この時の団右衛門・本人の動向・・・

自らは、城門口の橋の上に床几(しょうぎ・武将が戦場などで座る折りたたみイスみたいなヤツです)出して、どっしりと座り、(き・合図の旗)を手に持ったまま、まったく動かなかったのだとか・・・

気になった友人が、
「槍をひっさげて、思うままに合戦するのが男っちゅーもんやろ!」
と指摘すると、団右衛門は
「俺はまだ48歳・・・まだまだ充分に動けるけど、昔、あの嘉明のアホに叱責された事がくやしいてタマランのや!
一回だけでも、アイツに俺が采配を振ってる大将っぽい姿を見せてやりたいと思とったんや。
願いが叶って満足満足・・・次の戦からは、槍をふるって最前線で戦うで~~」

と言ったのです。

それを裏付けるかのように、配下の80人には、「夜討ちの大将 塙団右衛門」と書かれた木札を持たせて、戦場の途中々々でバラまかせていたようなのですが、結果的に、その宣伝効果はバッチリと決まり、「夜討ちの大将 塙団右衛門」の名は、一気に広まったのです。

ただ、残念ながら、団右衛門の真のターゲットである嘉明は、その豊臣恩顧のつながりが家康に警戒され、この冬の陣では、江戸城の留守居役を命じられていたため、現地にはいませんでした。

まぁ、その代わりに嘉明の息子・明成(あきなり)が従軍していたので、その噂は耳に入ったとは思いますが・・・

こんな感じで、「してやったり」の団右衛門と、豊臣方ではありましたが、この同じ16日に、その後の展開を大きく変える一大事が起こります。

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大阪城の北側・桜之宮公園から眺める大阪城天守閣・・・今は陸続きとなっている備前島だと、この半分くらいの距離になります

大坂城の北方、700mの位置にあった淀川の中洲・備前島に設置されていた徳川方の大筒から放たれた一発が、見事に大坂城・天守閣に命中したのです。

もちろん、先に書かせていただいたように、狙ったというよりは、のべつまくなしに発射していたうちの一発が、たまたま本当に当たっちゃったという感じですが、その一発は柱を撃ち抜いて天守は大きく傾きます

もちろん、その傾きと同時に豊臣方の姿勢も大きく傾き・・・

となるのですが、そのお話は、偽りの和睦が締結する12月19日に書かせていただいた【大坂冬の陣・講和成立】にてどうぞ>>>

大坂夏の陣での塙団右衛門の活躍は4月29日の【私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦いin大坂夏の陣】のページでどうぞ>>
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コメント

こんにちわ、茶々様!
塙団右衛門直之・・・良いですね~。
大雑把な豪傑という感じがもろに出ていますね!
戦いの途中に木札をバラ撒くって「どんだけ加藤嘉明さんを見返したいんだよ」って笑ってしまいますが、そんなだから講壇話になるんですね!
良いキャラですね~!

投稿: DAI | 2009年12月16日 (水) 14時38分

DAIさん、こんばんは~

ホント、良いキャラクターです。
戦国は、こういう豪快な人が活躍してくれるので楽しいですね。

投稿: 茶々 | 2009年12月16日 (水) 20時40分

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