世界最大の陵墓の主?~仁徳天皇
仁徳天皇八十七年(399年?)1月16日、第16代・仁徳天皇が83歳で崩御されました。
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仁徳天皇と言えば、まず思い出すのは、あの大きな御陵・・・。
大阪は堺市にある百舌鳥古墳群の中にある一番大きな大山古墳・・・全長480m高さ35m、築造には、のべ180万人以上の人が関わったとされる世界一の古墳が、仁徳天皇陵だとされています。
・・・とは、言え、お察しの通り、仁徳天皇は、未だ神話の世界から脱したばかりの頃の天皇ですので、1代前の第15代応神天皇との同一人物説もあり、真実のほどは、定かではありませんが、とりあえずは、このブログには、ほぼ初登場という事なので、記紀を基本に、一般的に知られている仁徳天皇像をご紹介させていただきたいと思います。
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第15代応神天皇が亡くなった後、後継者となるのは、やはり、皇太子の兎道稚郎子(うじのわきつらこ)が順当なところでした。
しかし、彼には兄がいる・・・この兄は、幼い時から聡明で、しかも、かなりのイケメン、さらに、ここまで、弟を補佐しながら、見事に国事をこなしてきた経歴もあります。
なので、兎道稚郎子は、是非とも、その兄に皇位についてもらいたいと申し出るのです。
その兄というのが、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと・後の仁徳天皇)でした。
しかし、大鷦鷯尊は大鷦鷯尊で、「父の決めた事に従うのが道理」と言って、弟の申し出を断り続けます。
ところが、お互いに譲り合っている間に、もう一人の兄(おそらく、この人が長男)の大山守命(おおやまもりのみこと)が、弟である皇太子を殺害して、皇位を奪い取ろうと計画します。
事前に、この計画を知った二人は、ともに協力して、迫り来る大山守命を迎撃し、見事!討ち取りました。
しかし、それでも、お互いに皇位を譲り合っていたところ、三年目にして兎道稚郎子が自殺・・・やむなく、残った大鷦鷯尊が、西暦313年頃の1月3日、第16代・仁徳天皇として即位したのです。
★高津宮の宮殿があったとされる高津宮(こうづぐう)
高津宮のくわしいい場所は、姉妹サイト=京阪奈ぶらり歴史散歩の上町台地のページへ>>
即位した仁徳天皇は、難波(なにわ)の高津宮(たかつのみや)に都を遷しますが、その宮殿には、上塗りもなく、飾りつけもなく、屋根の茅さえもきちんと切りそろえられていなかったそうです。
これは、それらを整備するためには、また人手を狩りださねばならず、そうなると農地の耕作や、機織りをしている人民の手をわずらわす事になるので、天皇が、私的な事で、人民を召集する事を避けたためなのだとか・・・
そして、即位から4年経ったある日、仁徳天皇が高殿に登って、国を一望すると、各民家から煙が上がっていない・・・天皇は心を痛めます。
なんせ、これまで、神功皇后の三韓征伐(9月5日参照>>)の出兵にはじまり、先代の応神天皇の時代には、大陸との交流が頻繁に行われ、確かに多くの大陸文化が日本に渡来はしましたが、そのぶん、財政は苦しい物となり、庶民の生活も困窮していて、もはや、焚くお米にも困っていたのです。
「都の近くでさえ、こんな状況なら、おそらく地方はもっと大変だろう」
そこで、仁徳天皇は、向こう三年の課税を停止し、庶民の苦しみを和らげようと考えました。
もちろん、困窮しているのは天皇家も同じですから、天皇は、その日から、着ている物は破れるまで着用し、履いてる物は擦り切れるまで履き、宮殿の屋根や垣根が壊れても修理もせず、雨漏りし放題、星空見え放題の生活を送ります。
やがて、三年後、再び高殿に登って、庶民の暮らしぶりを眺めると、家々のあちこちから、ゆうげのための煙が上がっています。
それを見た天皇は、
「民のかまどは賑わいにけり」
と、大いに喜んだのです。
国力が回復し、安定してくると、生産力を高めるべく、天皇は、土木工事に力を入れます。
毎度毎度大暴れする淀川の氾濫を防ぐため、日本最古の土木工事と言われる茨田堤(まんだのつつみ)(6月25日参照>>)を造ったり、肥沃な大地にするための排水路(堀江)を造ったり、さらに、当時は、未だ大きな入江となっていた大坂湾の周辺の流通促進のため、日本最古の橋=猪甘津橋(いかいつのはし・後の鶴橋)(6月18日参照>>)も造りました。
そして、前天皇の時代には、貢物を贈って交流をしてきていた新羅(しらぎ)が、貢物を惰ったために起こった紛争では、竹葉瀬(たけはせ)と田道(たじ)という兄弟を遠征させて、新羅軍を破ったとも・・・
また、中国の歴史書『宋書(そうしょ)』には、5世紀頃の倭王として、5人の日本の王らしき人物が登場しますが、現在のところ、その中の讃(さん・賛)という人物が、仁徳天皇の事と考えられており、中国と盛んに交流していた事もうかがえます。
記紀では、そんな仁徳天皇を、困窮した者を救い、病む者を見舞い、身寄りのない者に恵みを与えたため、国はよく治まり、古事記では83歳とされる、その死に際して、国民は何日も目をはらして泣いたと記しています。
・・・と、このまま読めば、「こんな名君は他にない」ってほどの名君で、とても、そのまま信じられる物ではありませんが、仁徳天皇が造ったかどうかはともかく、現実に茨田堤とおぼしき史跡は残り、猪甘津橋は鶴の橋と名を変え、大正時代まで存在していました。
記紀神話は、戦前に天皇賛美のプロパガンダとして使用されたために、戦後は、その反動で一転「作り話」と称されるようになりました。
そのため、仁徳天皇と聞いても、あの大きな古墳を思い出すだけの乏しい印象となってしまっています。
しかし、そこには、堤や橋や堀江の大事業を行った伝説の王が確かにいて、8世紀の人々は、その大いなる王に仁徳という名をおくったという歴史があります。
すべてが、作り話と一蹴してしまう前に、古代の人々が後世に伝えようとした、その心情を思いつつ、日本建国の壮大な叙事詩に浸ってみるのも一興かも知れません。
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コメント
反日・中国朝鮮礼讃の日教組の教育では、あの大きな陵墓さえ…権威を誇示するために、民の貧窮も省みず使役した結果の産物で古代の封建主義が残した負の遺産てな考えになるんでしょうね。
投稿: マー君 | 2010年1月16日 (土) 11時41分
誰の陵墓かは、学術的な発掘調査をすればハッキリすると思いますが、宮内庁が許可を出しませんからね。
投稿: たま | 2010年1月16日 (土) 12時08分
マー君さん、こんにちは~
あのピラミッド建設のように、皆がすすんで参加したような記録か何かが発見されてくれるとウレシイんですけどね~
投稿: 茶々 | 2010年1月16日 (土) 13時01分
たまさん、こんにちは~
最近は、宮内庁も、陵墓の視察などに、少し柔軟な姿勢をとってくださるようになりましたから、何か、新たな発見があると良いですね。
投稿: 茶々 | 2010年1月16日 (土) 13時03分