朝鮮出兵~秀吉はなぜ家康を朝鮮に行かせなかったのか?
文禄二年(1593年)1月26日、文禄の役・・・いわゆる豊臣秀吉の朝鮮出兵の前半戦で、碧蹄館(ビョクジェグァン)の戦いがありました。
・・・とは言え、この戦いの経緯については、まだまだ書き足りないものの、一応、昨年の1月26日に書かせていただきましたので、ソチラ=2009年1月26日のページ>>でご覧いただくとして、本日は、この文禄の役も含め、朝鮮出兵にて渡海しなかった大物=徳川家康について書かせていただきたいと思います。
・・・・・・・・
もともと、この秀吉の朝鮮出兵の理由自体が、様々に語られ、未だ明確な答えのない謎とされる物です。
- 一介の百姓から天下人へとのし上がってもなお、おさまる事のなかった名誉欲。
- さすがの秀吉も寄る年なみには勝てず、その判断が狂った。
- 長男・鶴松の死によって冷静さを失った。
- 弟・秀長(1月22日参照>>)、続いて千利休(2月28日参照>>)というストッパーが亡くなった事で、誰も秀吉を止める事ができなかった。
- 大航海時代を迎えた世界情勢で先手を打たないと、日本や明(中国)も植民地になる可能性があった?(10月12日参照>>)
さらに、2007年3月26日のページでは、「もはや、分配が不可能となった領地の問題」ではないか?という事も書かせていただきました(3月26日参照>>)。
もちろん、これらの複数の理由が微妙にからみ合った結果という事もありますし、あるいは、まったく別の理由なのかも知れませんが、とにかく、ここで、秀吉の朝鮮出兵は決行されました。
そして、それが、結果的に負け戦になった事で、現地で先頭に立って戦った武勇に長けた武闘派の武将(加藤清正など)と、その戦いぶりを判断する監督の役回りをしていた文治派の武将(石田三成など)との間に大きな亀裂を生む事になり、後の豊臣家分裂の火種となった事も確かです(3月4日参照>>)。
そんな中で、関東からはるばる九州の名護屋まで、大量の兵とともにやって来ていたにも関わらず、実際に渡海しなかった徳川家康は、自らの兵を温存する事ができ、その後の豊臣家内の対立を利用して、その地位を高める事に成功したうえ、結果的に、その豊臣家をも滅ぼす事ができたわけです。
ここで、家康も渡海して、多大な被害を被っていたなら、そう、うまくはいかなかった可能性大なのですが・・・
ただ、この朝鮮出兵の時は、秀吉の要請によって、実際に家康も九州へ行っているわけですから、そこで、渡海の命令が出ていたなら、当然、家康は、朝鮮半島に渡らねばならず、これは、ひとえに、秀吉の命令が出なかった・・・つまり、秀吉が、家康を渡海させなかったわけで、家康が、そうしたわけではなく、むしろ、命令が出ない以上、もし半島に行きたかったとしても、勝手には行くわけにはいかないのです。
・・・で、秀吉は、なぜ、家康を渡海させなかったのか?
これを、ラッキーと見る場合もあるようですが、もちろん、それは、結果論です。
上記の通り、結果的に朝鮮出兵が無益な負け戦となったために、多くの傷ついた武将たちの中で、無傷だった家康が、力を温存できたのです。
・・・で、ここで注意しなければならないのは、秀吉の朝鮮出兵に関する記録のほとんどが、やはり、結果論であるという事です。
秀吉は、朝鮮出兵の際に、「大陸を征服したあかつきには、時の天皇・後陽成(ごようぜい)天皇に、明(みん・中国)の皇帝になってもらい、甥で後継者の秀次を、明の関白にしてやる」と言っていたとされていますが、この言い分が、朝鮮軍&明軍の兵力を軽視した荒唐無稽な話で、多くの武将たちも、心の中では出兵には反対していた・・・なんていうのも、要は、後に書かれた記録なわけです。
もともと都合の悪い事が書かれている文献を抹消するのも、戦国のお抱え作家の常とう手段ですから・・・。
最初にあげた、朝鮮出兵の様々な理由についてもそうです。
子供を失っておかしくなったとか、歳をとって歯止めがきかなくなったとか・・・なにか、周囲が猛反対しているにも関わらず、秀吉がとち狂ったように出兵したような言い回しも、まずは敗戦ありきで書かれている可能性大なのです。
現在でも、ある話です。
何かのプロジェクトに失敗すると、「最初っから、ダメだと思ってたんだよね~」なんて言う人が、あっちからも、こっちからも登場する・・・なんて事が・・・。
しかし、終ってみれば、無謀でしか無かったと反省するような事でも、実際にプロジェクトを推進しているその時は、真剣に考えたうえ、「できるかもしれない」と思いながら挑んでいる事が多々あるはずです。
考えてもみて下さい。
当時の日本という国は、それぞれの大名が別々に治める別の国・・・秀吉は、信長から受け継いだ領地とともに、一つ一つ傘下に治めていったのです。
四国へも渡海して、九州へも渡海して・・・確かに、大陸へのその距離は、四国や九州と比べ物にはなりませんが、当時は、四国にも九州にも橋は架かっていません。
「いやいや、さすがに言葉が違う外国なんだから…」と、お思いかも知れませんが、国語の授業で共通語を習う現在でも、流暢な方言で話されるお年寄りを見ると、「外国語に聞こえる」事も多々あり・・・て事は、当時は、言葉も今ほど通じなかったわけで、ひょっとしたら、秀吉にとっての大陸は、四国や九州の延長上にあり、多くの武将たちも、皆、秀吉と同じように考えていた可能性はないでしょうか?
そう考えると、秀吉が家康を渡海させなかった理由が、見事に浮かび上がってきます。
もし、朝鮮出兵が成功していたら・・・
長期の渡海組で、その中心となったのは、豊臣秀勝(秀吉の甥で養子)、小早川秀秋(こばやかわひであき・秀吉の妻・おねの甥で養子)、宇喜多秀家(うきたひでいえ・秀吉が後見人を務めた猶子・養子並)・・・と、いずれも、秀吉に最も近い、いわば身内・・・
さらに、加藤清正や福島正則や小西行長といった秀吉子飼いの西国の大名・・・
そうです。
成功したあかつきには、彼らにド~ンと恩賞が下り、身内の大名たちの領地が軒並み多くなるのです。
東国の武将の中でも、上杉景勝や伊達政宗が渡海しているのは、やはり、秀吉から見て、今後も、味方になってくれるであろうと睨んだからにほかならないでしょう。
だから、家康には渡海の命令を出さなかった・・・もし、大陸で武功を挙げて、これ以上に、アブナイ家康の領地を増やす事なんて、させたくなかったって事なのかも・・・
家康と、もう一人、大物でありながら、秀吉が渡海させなかった人物が、あの前田利家・・・ご存知のように、彼もまた、膨大な領地を、すでに持っています。
文禄元年(1592年)3月に、朝鮮出兵のため、全国から京都に集まって来た諸大名のうちの先発隊が、九州に向けて出陣する際、その豪華絢爛な出陣行列の先頭を行ったのは前田利家隊、2番目が徳川家康隊、3番目が伊達政宗隊でした(3月17日参照>>)。
そう、家康と利家・・・この二人は秀吉にとって、「こんな大物も、俺の配下なんだゾ」と皆に自慢したい人物だった半面、これ以上大きくなってほしくなかった人物だったという事なのです。
・・・で、結果的にラッキーとも見える家康の居残りは、ラッキーでも不思議でもなく、秀吉の計画のもとに行われた、必然的な出来事という事になります。
もちろん、これもあとづけの結果論かも知れませんが・・・
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コメント
「天地人」では冒頭の1番目と3番目の説が取られました。拾(秀頼)誕生で一旦、日本に引き上げましたよね?
家康が「内地」に留まったのは、ケチだったから(来るべき「大戦」に備えて、財を消費したくなかった)とも言われています。
もう1つは少し前に与えられたばかりの、新本拠地・江戸城の大改修と、「城下町開発」の構想・建設に、気が向いていたからではないかとも。でも朝鮮出兵期間中は一時中断しています。一応、九州にいたので。
家康より若い政宗の方が秀吉には危険に感じた(寿命で先が長い)と思うんです。表向き「配下」に収まっても、天下人の野望があったので、その気なら黙っていても上記の2人が死んだら、天下掌握のチャンスはあったと思いますね。
投稿: えびすこ | 2010年1月26日 (火) 10時53分
えびすこさん、こんにちは~
>「天地人」では冒頭の1番目と3番目の説が・・・
そうですね。
でも、個人的には3番はないように思います。
秀頼が生まれても、結局、慶長の役もやってますから・・・
果たして、もし秀吉が家康を渡海させたかったのなら、秀吉が出した渡海命令を家康のケチで断れたのかどうか微妙ですが、政宗の歳が若いのは、ちょっとくらい気がかりだったかも知れませんね。
ただ、同じような年齢の景勝や輝元や秀家が、なんだかんだで豊臣についている事を考えれば、政宗も味方だと思ってたかも知れませんよ。
投稿: 茶々 | 2010年1月26日 (火) 11時17分
茶々さん、こんばんは!
今回の内容は思わずうなりました。
私は家康が自分から固辞していたと思ってました。
狸の家康から見たら、どれだけの犠牲が出るか分からない朝鮮出兵は辞めた方が特かなと思ってました。でも、秀吉から見ると一番力をそぎたい家康を出兵させない手はないでよすよね。
それにこの時、連戦連勝の秀吉が朝鮮、明に
負けるなんて考えもしなかったでしょうね。
まさに、茶々さんの御説は納得します。
狸は強運ですね。
そういえば
お江は上野樹里に決まりましたね。
こうなると、残りの二姉妹も同年代ですかね。
宮崎あおいはすごく化けた気はしますが
上野樹里はどうなんでしょうか?
投稿: シンリュウ | 2010年1月26日 (火) 18時27分
な~るほど~。「家康にいい思いをさせたくなかった」すごく説得力あります。やっぱああいう立場から天下人になったんですから、爺さんになっても冷静さは失ってないと思いますよ。日本全国掌握したら次は海外へってちょっと前のミュージシャンのようですが、ごく自然な感覚なんじゃないでしょうかね。失敗したから「ほら見ろ、言わんこっちゃない、もう、年寄りの戯言なんだから。ちょっとおかしくなってたんでしょ」って言われちゃったんじゃ…家康をこれ以上強大にしてはいかん!というのも天下人にふさわしい冷静な判断力だし。秀吉って人はやはり歴史上希有な面白い人物だなぁと改めて思いました。いつも目から鱗の内容でためになります。面白いし。毎日力いっぱいクリックしてますよ~。
投稿: Hiromin | 2010年1月26日 (火) 21時17分
シンリュウさん、こんばんは~
>私は家康が自分から固辞していたと思ってました。
もちろん、今日のお話は、あくまで推測ですので、その可能性も充分あります。
ただ、記録として残す場合、失敗した出兵に対して、「ウチの殿様は、最初から出兵はムダだと思っていて、もっと先の事を見抜いていたんだよね~」てな感じで書くとカッコイイ~ってなるのではないかと・・・
>お江は上野樹里に決まりましたね。
そうなんですか!
上野樹里ちゃん・・・若手の女優さんの中では、ピカ一の演技派なので期待大ですね~
ファンのかたには悪いんですが、あの初音になるんじゃないか?とドキドキしてたもんで・・・
投稿: 茶々 | 2010年1月27日 (水) 03時56分
Hirominさん、ありがとうございます。
確かに、後世の人間から見ると「あの中国相手に・・・」と無謀な出兵のように思いますが、意外と「いける!」って思ってたんじゃないかと・・・
>ちょっと前のミュージシャンのようで・・・
いい例えですね~
確かに、ドリカムもウタダも「いける!」と思って行ったでしょうからね。
投稿: 茶々 | 2010年1月27日 (水) 04時12分
私は、戦国時代(や、幕末期)については、強い関心がなくて、知識も有る方ではなく、朝鮮出兵のメンバーに家康が入っていない云々の話しも、こちらで、初めて知るに及びましたが、
関東と関西、と云うことばがあるように、日本列島には、静岡か長野の辺りに東西を分断する目に見えない境界線がありますよね ?。
私は関東の人間で、例えば何処かへ遠征しようと考えたとして、その時、頭に浮かぶのは 北海道 です ・ ・、
又、平家の都落ち というのは、西へ西へと行きました、
そのように、この日本に住む人間には、東(~北)へ進もうとする者と、西方へ進もうとする者、その二者がいるのではないか と、これは実は、私が かねがね思っていることなのですが、
それで、秀吉は西向きで、家康は東向きだった、ー ー のだと、私は思うんです。
そして、この時の朝鮮出兵は、号令を掛けたのが秀吉でも、号令に合わせるかどうかは、夫々各自、自由選択の状態だったのではないでしょうか ?。
投稿: 重用の節句を祝う | 2010年1月27日 (水) 10時52分
重用の節句を祝うさん、こんにちは~
>日本に住む人間には、東(~北)へ進もうとする者と、西方へ進もうとする者、その二者がいるのではないか
確かに、それはあると思います。
関ヶ原の戦いが、経済で言えば、米(東日本)対銀(西日本)の戦いと称されるくらい、東と西の文化は違いますからね。
ただ、この場合はどうでしょう?
すでに家康は兵を率いて、本土最前線の名護屋まで来ちゃってますから、武装して上洛し、他の大名とともに列をなして京都を出陣>>している時点で、その後に秀吉から渡海の命令が出たら断れなかったのではないかとも思います。
投稿: 茶々 | 2010年1月27日 (水) 11時49分
初めまして。あまりに「目から鱗」だったのでコメントさせていただきます。
今回の「家康が渡海しなかった訳」は、非常に説得力がありますね。そして結果的に渡海しなかった事で他の大名より図抜けたのだとすれば、家康は運がよかったんですね。いや、これも結果論で、情況を冷静に判断して、不利な情況も有利に導く頭の良さゆえに自然に図抜けたと見るべきなんでしょうか。
家康は悪く描かれがちですが、遺訓を読むと、「これを心がけていた人ならば人望は高かろう」と思います。秀吉亡き後、人望も権力も高かった家康がトップに立ったのは、本人の意志以上に、周囲が望んだ事だったのかもしれませんね。
投稿: たまこ | 2010年1月27日 (水) 14時52分
たまこさん、はじめまして、コメントありがとうございます。
もちろん、この時の秀吉の思惑、直後の秀吉の死を、見事にラッキーに転じたのは家康の力量ですから、やはり、家康もスゴイと思います。
投稿: 茶々 | 2010年1月27日 (水) 19時03分
茶々さん こんにちは!
いますもんね~全部上のせいにする人!死人にくちなしっていうやつですね。
モンゴルも大陸全土支配しようとしてた節ありましたから秀吉の考えも別段ぶっ壊れた考えでもないですものね。上記の幾つかの理由とかもひっくるめて一石二鳥(結局二兎追うものは一兎も得ずになっちゃいましたが)と考えてたんでしょうか。攻められる側からしてみればはた迷惑以外の何者でもないですが・・・
投稿: ryou | 2010年1月30日 (土) 16時59分
ryouさん、こんばんは~
当時の記録ってほとんどが家臣か、殿様おかかえの作家(記録係)が書いた文献ですから、家康に限らず、どの大名だって、負け戦となった合戦には「ウチの殿様だけは最初から反対していたんだ」と書くと思います。
家臣の給料も作家のギャラも殿様が払ってるんですから、ねつ造なんて意識ではなく、CMのような感覚だったでしょうね。
・・・で、結局は、滅亡した豊臣のせいみないな感じになるのではないかと・・・
投稿: 茶々 | 2010年1月30日 (土) 22時44分
そういえば北海道大の過去問に毛利輝元の「俺は反対だったんだけどさ~」文が出題されてました。「へえ~」と思って読んでましたが、まさにコレなんですね^^なんてタイムリーな!
まあ失敗しちゃった以上豊臣のせいっていうのもあながち間違ってない・・・のかな
投稿: ryou | 2010年1月31日 (日) 09時03分
ryouさん、こんにちは~
>そういえば北海道大の・・・
へぇ~、そうなんですか・・・
やっぱ、おかかえの作家や家臣は、殿様の失敗を書き残したりしませんもんね~
まぁ、朝鮮出兵の最高責任者は、豊臣秀吉なので、「その責任をとる」という意味では、悪く書かれても仕方ないと思います。
投稿: 茶々 | 2010年1月31日 (日) 18時09分
「秀吉はなぜ家康を朝鮮に行かせなかったのか?」を読ませて頂きました。
管理人様の洞察力は鋭いですね。秀吉は当然勝てると思って出兵しているわけですから、戦(いくさ)に勝てば恩賞を与えなければなりません。家康に対してすでに200万石以上を与えていた秀吉にしてみれば、「これ以上家康に力を与えたくない」と考えたのは自然なことかも知れません。
ドラマでは「秀吉が家康に遠慮した」と描かれることが多く、私も家康の力が大きいから当然そうだと思っていました。管理人様のアナリスト張りの推理力には脱帽です。
投稿: 真央ちゃんガンバレ! | 2010年2月11日 (木) 21時13分
真央ちゃんガンバレ!さん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
秀吉は、「明や朝鮮に勝つ」と言っても、全土で戦いを繰り広げて、根絶やしにするわけではなく、利家や家康や政宗や長宗我部を傘下におさめたように、明のトップ、朝鮮のトップを服従させようと考えていたのでしょうから、やっぱ、勝てると思っていたでしょうね。
投稿: 茶々 | 2010年2月11日 (木) 23時45分
管理人様。こんにちは。
バンクーバーオリンピック終わりました。
真央ちゃんダメでした。銀メダルに終わりました。残念です。
投稿: 真央ちゃんガンバレ! | 2010年3月 3日 (水) 21時50分
真央ちゃんガンバレ!さん、こんばんは~
銀メダルでもスゴイと思いますよ。
まだまだ、もっともっといい選手になる真央ちゃんですから、金は次にとっておいたほうが良いのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2010年3月 4日 (木) 01時05分
コンバンワ うちゃと申します
私のような中途半端に歴史を知ったかぶった人間がコメントなんておこがましいとは思ったのですが…この説は憶測と言い切れないものがありますねぇ(--;)
ただ…更に私個人の憶測(妄想?)を重ねるとしたら、この朝鮮出兵に大いに賛成したのは…四国中国、九州勢かなと思います。九州勢は琉球を支配下に置いたことと同じように独自に交易ルートを作ることくらい考えただろうし、四国中国(特に四国?)は独立でも考えていたりして。
東北勢(特に伊達)は秀吉としてはまだ手元に置いておいた方がいいと判断したのか、それとも高が知れていると思っていたのか…。
しかしこれだと秀吉の『天下統一』仕切れていない感が…如実に現れているようにも見えますねぇ(--;)
投稿: うちゃ | 2012年2月 7日 (火) 22時32分
九州勢というより島津ですね;失礼致しました。
投稿: うちゃ | 2012年2月 7日 (火) 22時37分
うちゃさん、こんばんは~
憶測になるのは仕方がないですね。
都合の悪い史料は徳川が末梢してるでしょうし、出兵した張本人が亡くなった負け戦に、「自分は賛成していた」と書き残す武将はいませんから…
ブログにも度々書いておりますが、「秀吉の天下統一はできていた」と個人的には思っています。
むしろ、それは大阪の陣のあの日まで続いていたと…家康の将軍宣下=江戸幕府誕生みたいな感覚を、教科書から外して欲しいと思っているくらいですから
投稿: 茶々 | 2012年2月 8日 (水) 02時44分
またまた失礼致します。うちゃです。
確かに、徳川家康と前田利家…
方や最大対抗勢力。方や組織のナンバー2
秀吉にとって信用と警戒の扱いに色々困る二人だったのでしょうが…少々疑問がありまして。
徳川家康は先程も言ったように、味方にすれば頼もしく、敵に回せば恐ろしい相手なのは周知の事実ですし、後の徳川幕府の創始者ですから、秀吉が何かと気を遣ったのは判りますが…
盟友とまで言われた前田利家をそこまで警戒した理由がイマイチ判らないのです。
確かに利家にも蒲生氏郷を始めとしたファンのような存在もいましたし、秀吉亡き後の天下人候補に名を上げられた方なのだから、一廉の人物だったのでしょうが…秀吉亡き後の天下争奪において、とてもではありませんが家康に太刀打ちできる程の力を有していたとは思えません。実際家康の、大名同士の無断の婚姻などを始めとした掟破りを傍観しているしか出来なかったし、家康に言い包められて密談しかけたこと(伏見城で?)もありましたし。(この辺の知識が曖昧でスミマセン!)利家死後、前田家はあっさり徳川に正室まつを人質にして屈しています。だから私個人としては所詮、豊臣(下手すれば秀吉個人)ありきの存在だったと言う、割と失礼なイメージを抱いています。
それとも単純に家康と利家の立ち位置の違いからなのでしょうか?
投稿: うちゃ | 2012年2月 8日 (水) 19時00分
うちゃさん、こんばんは~
それこそ、あくまで憶測ですが、警戒していたというよりは、「(朝鮮出兵の時点で)今以上の領地を与えたくなかった」という感じだと思います。
生前の秀吉が、人物として1番警戒していたのは、たぶん如水でしょう。
あと、まつの江戸入りに関しては、私は、「前田家が屈した」というのとは少し違う見方をしております。
長くなるので、いずれかの関連の日にブログに書かせていただくつもりでいながら、未だに書けてないんですが…
いずれにしても、前田家などの大名も含めて、秀吉亡き後から、大坂の陣までの豊臣と徳川の関係については、江戸時代の幕府によってかなり書きかえられている可能性があると感じていますが、いかんせん、負け組の史料は、なかなか残ってませんのでね。
投稿: 茶々 | 2012年2月 9日 (木) 00時12分
私は渡海した後、連合軍が明軍を蹴散らし朝鮮半島を支配したところで家康が寝返って、退路を塞ぎ親豊臣派の大名たちを人質に取ってしまうのを恐れた気がします。
その後、江戸に在国している武将と連携して秀吉をハサミウチにしてきたら、あっという間に家康の天下で、大陸の領地もついてくるという
前田利家を渡海させなかったのは単なる監視役、九州まで出陣させたのも領国から遠く切り離すことで家康を動きにくくする策だったと思います。
秀吉はよく考えていると思います。まあ、それでも家康は結局成功しちゃいましたが。。
投稿: ほよよんほよよん | 2014年10月18日 (土) 21時22分
ほよよんほよよんさん、こんばんは~
なるほど…ハサミウチですか。。。
連合軍同士でゴチャゴチャやってる間に、明軍の反撃があるような気がしないでも無いですが…
ま、結局、後まで生き残った家康の勝ちでしょうが…
投稿: 茶々 | 2014年10月19日 (日) 04時55分
家康個人に配慮した説は多く見ますが、それとは違った面白い角度からの推察だと思います。
ですが、こういう見方もできないでしょうか。家康と利家の共通点。年寄りになると過去に例がないことを極端に恐れます。
子飼いや景勝、政宗といった血気盛んな若者が自ら進んで渡ろうとする。なら年寄りは形だけでも兵を出してくれと名護屋で留まらせる。この方が筋が通らないでしょうかね。
投稿: 年寄りと若者 | 2015年12月28日 (月) 23時51分
年寄りと若者さん、こんばんは~
それも理由の一つではあるかも知れません。
なかなかうまく進まない展開に、秀吉自らが渡海すると言い出した時に、「もうお歳なんですから…」と周囲に止められたなんて話も残ってるようですから、周囲も秀吉自身にも「歳」という事は関係はあったと思います。
ただ…私としては、
利家は、なんだかんだで織田時代からの友人ですので、そこまででは無かったかも知れませんが、家康に対する秀吉の警戒は、かなりの物だったと思っております。
以前、大坂城と伏見城の役割>>のページにも書かせていただきましたが、秀吉は、家康を伏見城に入らせた後、その城下には西国大名を、自らが居る大坂城下に東国大名を住まわせる=家康分断作戦や、
西国大名のみに文禄堤>>を構築させて、イザという時は淀川を決壊させて東からの敵を防ぐ作戦も考えていましたから…
なので、様々な要因があるとは思いますが、1番大きかったのは家康への警戒だったのでは無いか?と…
まぁ、結局は、秀吉亡き後の関ヶ原のドサクサで家康が大坂城に入っちゃう事で、秀吉の作戦は崩れてしまいますが…
投稿: 茶々 | 2015年12月29日 (火) 01時52分
秀吉が家康を渡海させる事はありえない
家康は豊臣政権の大老。
それは大会社の社長が社長職を放り投げ
現場仕事をするような物だ。
重要な兵站武器資材の調達の手配指示
運搬の指示をしなければ
戦争遂行自体不可能。名古屋に連れて来た
大量の兵も前線に兵站を送る為
そこから九州まで次々と運送
とても渡海する暇も無かっただろう。
当時は航海技術も未熟 馬か徒歩の陸送。
戦場で農産物を作るのは不可能。
投稿: うんちゃ | 2016年1月30日 (土) 02時21分
うんちゃさん、こんばんは~
歴史へのアプローチで「ありえない」とか、「100%こうだ」とか断定する事は、なかなかに難しいと思いますよ。
未だ生きてる人がいる太平洋戦争の事でさえ、立場や見方によって意見が食い違うのが歴史ですから…
なので今回は、あくまで「私はそう思う」という個人的な推理によるお話をさせていただきますが…
うんちゃさんは
>大会社の社長が社長職を放り投げ現場仕事をするような物…
とおっしゃってますが、社長であろうが会長であろうが、事あらば現場仕事をせねばならないのが、戦国大名の「出陣する」という事ではないか?と…
大将が現場に行くからこそ兵士の士気も上がるという物で、むしろ、それこそが戦国社長の職務なのでは?
関ヶ原にしろ、大坂の陣にしろ、家康は現場に行ってますし、逆に事務的な事や後方支援の方を、留守役や部下に任せるんじゃないかと思います。
秀吉も政務を秀次に任せて現場に来てますしね。
それに、今回の家康は、すでに徳川軍の大将として出陣して兵とともに名護屋まで来てます。
この名護屋は、愛知県の名古屋ではなく、朝鮮出兵のために秀吉が構築した現在の佐賀県唐津市の名護屋城の事で、日本国内の最前線かつ大本営…そこから先はもう海なんですし…
武器や兵士・兵糧などの唐津までの輸送が大変なのは、渡海した大名たち含めて、参戦した大名みんな同じですから、「渡海する暇が無い」の理由で、家康スルーとなるような事は無いような気がします。
ちなみに名護屋から先=大陸へ渡るための輸送係(船手衆)は九鬼嘉隆・藤堂高虎・脇坂安治らの担当だったと思います。
投稿: 茶々 | 2016年1月30日 (土) 04時23分