無血開城の影で幻となった勝海舟の二つのシナリオ
慶応四年(1868年)1月23日、鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府が、今後の方針を決定する作戦会議が開かれました。
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慶応四年(1868年)の1月3日に勃発した鳥羽伏見戦い(1月3日参照>>)も、1月5日には、戦場に錦の御旗が掲げられ(1月5日参照>>)、官軍となった薩長の士気は挙がり、逆に、賊軍となった幕府の士気は低下・・・
さらに、翌・1月6日に、幕府軍の大将である将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大坂城を単独で脱出した事で、幕府の敗北が決定的となります(1月6日参照>>)。
やがて、その勢いのまま、東海道と東山道の二手に分かれて東上する官軍・・・
それを、幕府軍が迎え撃ったと言えば、あの元新撰組の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)の勝沼戦争(3月6日参照>>)くらい・・・
それも、近藤が出遅れて戦場に間に合わず、官軍のほぼ完全勝利に終っていますから、官軍は、戦いらしい戦いをほとんどする事なく、江戸へと迫ったわけです。
しかも、すでに3月6日の駿府城・着陣の時点で、来たる3月15日の江戸総攻撃も決定していました。
結局、その総攻撃寸前の3月13日と14日の2日間に渡って行われた東征大総督府・参謀の西郷隆盛と、幕府陸軍・総裁の勝海舟の歴史的会談によって、翌・3月15日の総攻撃中止が決定し(3月14日参照>>)、やがて江戸城の無血開城となるわけですが・・・
この間、薩摩から徳川家へと嫁いでいたあの天璋院(てんしょういん)篤姫が、徳川家存続を願う手紙を西郷に送ったり(2008年4月11日参照>>)、14代将軍・徳川家茂(いえもち)の奥さんとなった孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)が、朝廷との和解に奔走したり(1月17日参照>>)と、とにかく、徳川家存続のために、ただ、ひたすら恭順な態度でいたわけです。
・・・とは言え、さすがに最初の最初から、幕府はこの方針だったわけではありません。
大坂城で戦線離脱したとは言え、慶喜も幕府の将軍・・・もし、本気で戦うなら、手助けしようという外国勢力もあり、再起をはかろうと思えば、充分に可能である事も承知でした。
・・・で、今後の幕府の進むべき道を話し合う作戦会議が行われたのが慶応四年(1868年)1月23日だったのです。
まずは、幕府海軍の持つ艦隊を駿河湾に集結させてから、清見関(きよみがせき・静岡市清水区)周辺に、少数のおとりの兵を展開させます。
やって来た東征軍に、そこで、わざと負けてみせると、勢いに乗じた東征軍は、大軍を繰り出してくるに違いない。
そこで、大軍を待ち構え、海上の軍艦から一気に砲撃を開始・・・海岸沿いに密集した集団を大砲が狙い撃ちするというわけです。
次に、一旦、壊滅状態となったその東征軍を尻目に、艦隊は大坂湾へ移動・・・ここで、西の薩摩や長州、東の東征軍との連絡を絶つべく京都を孤立させれば、幕府の勝利は間違いないというシナリオです。
しかし、この勝の案には「ただし・・・」という付録がついていました。
そうなれば、当然、新政府はイギリスに助けを求めるに違いなく、外国を巻き込んだ大戦になる可能性がある・・・
そうです。
先ほど、「慶喜がその気になれば、手助けしようという外国勢力もある」と書かせていただきましたが、幕府を支援しようと慶喜に近づいていた、その外国勢力というのはフランス。
逆に、新政府に味方しようとしていたのが、イギリスだったのです。
内乱による国の乱れ・・・そこに乗じて介入する外国勢力。
この勝の意見を採用するかしないかは、もちろん将軍である慶喜にゆだねられるわけですが、この外国勢力・介入は、慶喜が最も回避したいシナリオでした。
やがて、この日の会議から半月ほどが過ぎた2月11日、慶喜は一世一代の決断をします。
「戦いが長引いて泥沼化すれば、中国の二の舞となり、この国は崩壊して万民を苦しめる事になるのは明白・・・そのような罪を重ねて、天が許すわけがない」
無抵抗な恭順を貫き通すという幕府の姿勢が決定した瞬間でした。
この慶喜の宣言を聞いた幕臣たちは、皆、涙を流し、速やかに解散したと言います。
かくして翌・12日、慶喜は江戸城を後にして上野・寛永寺に入り、以後、自ら、謹慎生活に・・・。
そして、篤姫や和宮など、使えるコネはすべて使って、戦う意志がない事をアピールしていくわけですが、その慶喜の意志を汲んで、勝も、江戸城無血開城に向けての条件を固めるべく、西郷のもとに、山岡鉄舟(てっしゅう)を派遣(2007年4月11日参照>>)するのです。
・・・とは言え、さすがは勝さん・・・万が一、3月15日の江戸総攻撃を回避できない時を想定しての対策も練っていました。
幕府が事前に得た情報によれば、3月15日、東征軍は江戸市中に火を放ち、自ら背水の陣を敷いて、江戸城へまっしぐらに攻めかかる作戦であるというのです。
ならば・・・と勝が考えた作戦は・・・
向こうが火を放つというなら、東征軍が江戸市中に入る前に、こちらが火を放ち、東征軍の進撃を防ごう・・・そのために、火消しの頭や任侠の親分などを集めて、万が一の時は、火をつける事を事前に頼んでいたのです。
しかし、それだけだと、東征軍が火を放ったのも同じ・・・結局は、江戸市民を巻き込んでしまいますから、もし、その作戦が決行されるときには、房総沖にありったけの船を集めておいて、出火と同時に、その船を江戸川へと入らせ、逃げ遅れた難民を救出する手はずも整えていました。
上記のように、この東征軍の江戸総攻撃の中止が決定したのは、前日の西郷と勝の会談での出来事ですから、当然、前日までには、これらの準備は、完了していた事になります。
財政難の幕府にとって、この準備は、かなりの出費だったようですが、これは、勝さんお得意のハッタリ・パフォーマンスでもありました。
向こうの江戸総攻撃の作戦がコチラにわかるという事は、コチラの準備も向こうに知られる可能性もある・・・いや、むしろ、これだけの準備をして会見に挑んでいる事を知らしめて、会談を有利に進めようと考えたようです。
結果的に、江戸は火の海にならずに済んだわけですから、この出費は無駄ではなかったという事なのかも知れません。
無抵抗を決断する前の幕府勝利のシナリオ・・・
江戸総攻撃を想定した迎撃のシナリオ・・・
ともに実現されず、幻となった勝海舟の二つのシナリオですが、それこそが、江戸城無血開城という、他に例を見ない政権交代を実現させたのです。
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コメント
火消しの頭、新門辰五郎 ですね。
大河ドラマ‘慶喜’では、堺正章さんがその役をやっていました。そして、その奥さん役は、今はなき大原麗子さん。
お江戸の危機に‘ヨッシャー !’と、威勢よく、自分達の命もかえりみずに働こうとする、その心意気って、いいですよね。
ドラマの時の大原麗子さんの着ていた着物の粋だったことが、私の瞼の奥には焼き付いていますよ。
東京の人間は冷たい と、よく云いますが、昔の‘江戸っ子’は、熱くて、気風も良かった。
江戸、否、国を思う気持ちは関東の人間にも勝るとも劣らぬものがあった、ということです。賊軍という言い方は 言い掛かり と云うか、言い過ぎ と云うか、
とにかく、徳川の世は、これにていっかんのおしまい、となったということですね。
投稿: 重用の節句を祝う | 2010年1月23日 (土) 12時27分
重用の節句を祝うさんも言っていましたが、
辰五郎の様な火消しの親分は、「江戸市中の防災隊(班)長」として、大車輪の働きをしました。
偶然ですが、寅年に「勝海舟」、「徳川慶喜」、「龍馬伝」と言った幕末作品がなぜか集中します。
大原麗子さんの突然の訃報には驚きました。あの作品が、大原さんの「事実上の(NHKでの)遺作」になるとは…。
投稿: えびすこ | 2010年1月23日 (土) 13時49分
英断でしたね~ これは~
昔大河ドラマで、ブリューネが
「勝さん、なぜ?なぜですか」って叫んでいたシーンが思い出されます。
私にとって、印象深いシーンです。
投稿: 山は緑 | 2010年1月23日 (土) 14時59分
重用の節句を祝うさん、こんにちは~
おっしゃる通り、「を組」の新門辰五郎や内藤新宿・田中組といった侠客の方々ですね。
今回の場合は、幸いな事に幻に終ったので、その活躍も特別視される事もなかったのでしょうが、やはり個人的に大好きな辰五郎一番の活躍は、昨年書かせていただいた、慶喜の馬印運搬の一件ではないかと思います。
話題が出たついでに、1月8日の【徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎】も見ていただけるとウレシイです。
JINの中村敦夫さんの辰五郎も良かったですね。
投稿: 茶々 | 2010年1月23日 (土) 15時09分
えびすこさん、こんにちは~
>寅年に「勝海舟」、「徳川慶喜」、「龍馬伝」と言った幕末作品がなぜか集中
そうなんですか?
あっ・・・でも最近は、幕末と戦国のくりかえしのような・・・
おそらく、視聴率が良いんでしょうね~幕末と戦国が・・・
投稿: 茶々 | 2010年1月23日 (土) 15時14分
山は緑さん、こんにちは~
>昔大河ドラマで、ブリューネが・・・
そうなんですか?
残念ながら、その作品を、私は見てないみたいです~
ブリューネは、この後、榎本らと五稜郭まで行きますから、やっぱ、ヤル気満々だったんでしょうかね?
投稿: 茶々 | 2010年1月23日 (土) 15時17分
こんにちわ~、茶々様。
私、徳川慶喜はあまり好きではありませんでした。鳥羽・伏見の戦いが始まったのにすぐに大阪から船にのってトンズラ・・・。以後、幕府軍(彰義隊・会津・東北・信越諸国)が戦っているのに何をやってたんだろうというふうにしか思っていませんでした。しかし、
>戦いが長引いて泥沼化すれば、中国の二の舞となり、この国は崩壊して万民を苦しめる事になるのは明白
・・・つらい決断だっと思います。
しかし慶喜の決断は正解かどうかは誰にもわかりませんが信念のある彼なりの最良の道だったんですかね(ρ_;)
話は今日の主役からそれてすみませんでした。
投稿: DAI | 2010年1月23日 (土) 18時35分
よくもまぁこれだけの危機を回避できたものだ。どうして欧米の植民地にならずにすんだんだろう、と不思議でした。名もなき人から歴史上の人物まで、私利私欲でなくただただ日本のために何が最良かを、命がけで考え行動してくれた人達のおかげですね。蒙古襲来、ペリー来航、太平洋戦争、日本の三大危機でしょうか?しかし、先の大戦に負けた後遺症はじわじわとゆっくり日本を覆っているような気もしますが、百年前、千年前、二千前、さらに昔の日本人の気概を受け継ぎ、次代に伝えていくことはきっとできると信じてます。
投稿: Hiromin | 2010年1月23日 (土) 21時31分
DAIさん、こんばんは~
>・・・つらい決断だっと思います。
その通りだと思います。
その後の歴史を知っている者から見れば、あーだ、こーだと賛否両論言えますが、先が見えない状況のご当人としては、大変な決断だっただろうと思います。
投稿: 茶々 | 2010年1月24日 (日) 00時53分
Hirominさん、こんばんは~
幕末の動乱の中で欧米列強の植民地にならずにすんだ事は奇跡に近いと思いますが、そこには、慶喜をはじめ、その事を最優先に回避しようとした人たちの努力があったのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2010年1月24日 (日) 00時58分
茶々さん こんにちは!
最近幕府側、特に勝さんの記事多いのは勝さんファンの私としてはうれしいです!
慶喜さんたちがもし本当に日本と江戸の民のことを考えての決断だったとしたら、まさに名君ですね。慶喜さんのこと結構好きな私なのでちょっと贔屓気味に見ているだけかもしれませんが(笑)
こういう決断が出来る人が太平洋戦争時にもっと中枢にたくさんいれば・・・まあ分かりませんけどね(笑)
投稿: ryou | 2010年1月25日 (月) 12時29分
ryouさん、こんにちは~
幕末は、ホント!
ベストなタイミングでナイスな人が登場して、見事な展開に持っていってくれますよね~。
勝てば官軍で、どうしても幕府側が悪く描かれがちですが、その時代を生きた人々は、どちらの立場の人も、真剣に日本の未来を考えていたと思います。
投稿: 茶々 | 2010年1月25日 (月) 13時11分
「龍馬伝」を見ている人からこんなクレームを聞きました。
「土佐の郷士は帯刀していない」。えっ?
仮にも武士身分である郷士が実際には帯刀していない?龍馬の写真を見ると帯刀していますが…。
「郷士は高知城に登城できなかった」と言うのは知っていますが。
本当なんでしょうか?私は信じがたいんです。
投稿: えびすこ | 2010年1月25日 (月) 14時34分
えびすこさん、おはようございます。
クレームを出されるという事は、確かな文献をお持ちという事なのでしょうね。
見てみたいです。
投稿: 茶々 | 2010年1月26日 (火) 10時07分
江戸についてのしっかりした本で読んだんですが
官軍が江戸に近づいた時、江戸から逃げる
者が続出、勝はこれをいいことに家屋敷を買い叩いた。
無血開城にはこの「そろばん」づくの結果で、これを知ってた慶嬉は後々まで彼を嫌ったというのですが、これ
本当の話ですか>?
投稿: 勝海舟のうわさ | 2011年1月25日 (火) 11時35分
勝海舟のうわささん、こんにちは~
さぁ、どうなんでしょうね~
江戸についてのしっかりした本というのが、どの文献なのかはわかりませんが、このあたりの多くの出来事のもととなっている「氷川清話」でも、かなり勝さんのハッタリが入ってますから…
でも、本人曰く、とても用意周到で先見の目のある人ですから、転んでもタダでは起きない作戦を練っていた可能性も大きいですね。
投稿: 茶々 | 2011年1月25日 (火) 15時23分
題名など忘れてしまったのですが東京に江戸の
歴史をたどるような内容のもので、その点では
かなり内容の高いものでした。まあ上野だか
慶喜の墓だかを説明するついでに上記の話を
ついでに載せてたんですが。実はせこいやつだった、と。
もし本当なら勝家はいまも大金持ちのはずですが
森ビルは聞いても勝ビルなんて聞きませんねえ
投稿: フォロー | 2011年1月25日 (火) 16時01分
フォローさん、こんばんは~
丹波哲郎さんのお父さんかおじいさんが東京の一等地をたくさん所有してたって話は聞いた事がありますが、おっしゃる通り、勝さんは聞きませんね。
投稿: 茶々 | 2011年1月26日 (水) 01時30分