龍馬もまねた~横井小楠の明治維新のシナリオ
明治二年(1869年)1月5日、幕末の儒学者で、越前(福井県)にて藩政顧問となり、後に明治新政府の参与として活躍した横井小楠が暗殺されました。
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横井小楠(よこいしょうなん)・・・幕末好きの方なら、おそらくご存知の重要人物ですが、一般的には、あんまり、そのお名前を聞かないですね~。
しかし、この小楠さんは、あの勝海舟が、西郷隆盛とともに「天下で恐ろしい2人」として、その名前を挙げた人物・・・
さらに、坂本龍馬の言葉として有名な「日本を洗濯する」という事を彼に教え説いたのも、この小楠さん・・・そう聞くと、が然、どんな人物だったのか?、興味が沸いてきますねぇ。
今回の主役・横井小楠は、文化六年(1809年)に肥後・熊本藩士の次男として生まれました。
その家系は、桓武平氏の流れを汲み、鎌倉時代の執権として事実上天下を掌握した、あの北条氏の末裔・・・なので、本名は平時存(たいらのときひろ)で、北条平四郎時存とも言われますが、今回は横井小楠さんのお名前で呼ばせていただきます。
幼い頃から秀才の誉れ高かった小楠は、江戸に遊学する機会を与えられますが、お酒がらみの喧嘩で帰郷・・・その後、朱子学を学ぶための私塾を開いて、学政一致(学問と政治の一致)・経世安民(民のための政治)を唱えて幕政を批判しますが、熊本藩では、彼の思想がまったく受け入れられず、近畿や北陸などを渡り歩きました。
そして、越前(福井県)にて、後に、彼が、理想の上司と仰ぐ事になる福井藩主・松平春嶽(しゅんがく・慶永)と出会います。
熊本では、相手にされなかった小楠の論理は、福井では、むしろ重用され、福井藩から頼まれて、藩校創設の指針となる「学校問答書」なども書き送っていますし、藩政の指導役となって生糸の大量輸出も成功させました。
その土台となったのが、万延元年(1860年)に、小楠自身が著した『国是三論(こくぜさんろん)』・・・経世救民・殖産興業・通商交易などによる民富論的富国策=つまり、産業の発達を促進し、交易によって富を得て、民衆が裕福になってこそ国も繁栄するという事を説いた物で、坂本龍馬の「船中八策」や、維新後の「五箇条の御誓文」(3月14日参照>>)の基礎にもなった名著です。
やがて、それは、参勤交代制度の廃止・人材簡抜(かんばつ・選りすぐり)・海軍建設・通商貿易の奨励などをうたった『国是七条』に・・・
さらに、国益の確定・正しい生活様式・善悪を見抜く自由な言論の保証・学校の振興・士民への慈愛などが含まれた『国是十二条』に発展していきますが、その基本精神が、「武士は商人となって領民のための公僕(民衆に仕える)の役割となるべきである」という小楠の考えにあったため、見ようによっては、武士の身分や特権を否定する物として、一部の武士から反感を買う事になります。
そこで、起こってしまったのが、文久二年(1862年)の小楠暗殺未遂事件です。
その時、友人との酒宴の真っ最中だった小楠は、刺客に襲撃され、慌てて、刀を置いたまま命からがら逃げ出しますが、この事が、「武士の魂を捨てた」として非難ゴウゴウ・・・熊本藩から士籍剥奪処分となってしまいます。
武士の特権もさることながら、まだまだ、武士道精神もまかり通っていた頃なんですねぇ・・・つくづく、熊本に縁のない人だヮ。
武士でなくなった小楠の生活は困窮を極め、6人の家族を抱えて借金取りに追われる毎日・・・しかし、そんな彼を救ったのも、小楠を恩師と仰ぐ、かの春嶽でした。
春嶽は、小楠の生活費を心配して援助するだけでなく、熊本藩主に手紙を書いて、小楠の士籍復帰を嘆願したりもしてくれますが、当の熊本では法と先例を盾に拒否され、逆に、「熊本に戻れば士道忘却の罪で死刑になるゾ」と言われ、身の安全が保証されるまで小楠を保護する事を決意するのでした。
そんな小楠が龍馬に出会ったのは、この頃・・・元治元年(1864年)から翌年にかけてです。
上記のように、生活に困窮していた小楠に、勝海舟からの贈り物を届けるために、訪問し、時世について語り合ったと言います。
この時、冒頭に書かせていただいた「日本を洗濯」の思いを説いた他にも、当時、海軍塾塾頭となって、自信満々イケイケムードだった龍馬に「乱臣賊子(らんしんぞくし)となるなかれ」=「調子に乗りすぎて危険分子とみなされないようにね」と注意を促しています。
逆に、龍馬のほうは、小楠に「大久保利通らの芝居をゆっくり見ててください・・・そして、利通らが行き詰ったらアドバイスをお願いします」と言ったのだとか・・・
ただ、ご存知のように、この時の小楠の思想に感銘を受けて「船中八策」を考案した龍馬も、乱臣賊子のほうは、うまくいかなかったようですね。
やがて、維新を迎えた小楠は、新政府に参与を命じられます。
この時の参与のメンバーは・・・
木戸孝允(たかよし)=長州
小松帯刀(たてわき)=薩摩
大久保利通=薩摩
広沢真臣(さねおみ)=長州
後藤象二郎=土佐
福岡孝弟(たかちか)=土佐
副島種臣(そえじまたねおみ)=肥前(佐賀)
由利公正(ゆりこうせい)=越前
維新に功績のあった薩長土肥(さっちょうどひ)と、龍馬の推薦のあった由利(4月28日参照>>)に混じって、士籍を剥奪された肥後人の小楠・・・しかも、まわりは親子ほど歳の違う参与たちですから、還暦を迎えたばかりの彼も、さぞかし腕が鳴った事でしょう。
もちろん、資本主義の世の中になっても、小楠の「経国安民」の精神は変わりません。
「良心を以って事にあたる」
「民のために公僕になれ」
しかし、新たな国際国家を目指すための、歴史や伝統の見直しとともに、欧米化を推進した彼の手法は、キリスト教への加担による国の否定=開国を進めてキリスト教化していると受け取られ、またもや反感を買う事に・・・
かくして明治二年(1869年)1月5日、参内の帰り道の京都にて、十津川郷士らの手によって、小楠は暗殺されます。
後の裁判が大混乱となってしまったため、結局は、先の反感を持った勢力と実行犯のつながりには不明の点が多く、事件自体も後味の悪い物になってしまうのが残念ですが・・・。
それにしても、幕末・維新の頃は、龍馬をはじめ「この人がもっと生きていたら・・・」と思う死に出会いますが、この小楠さんの死も、その一つ。
維新のシナリオを描き、議会政治の基礎を作り、国民のための政治を目指した横井小楠・・・小手先ではないスケールの大きな国単位の改革は、スケールの大きな人物によって成し遂げられるもの。
国民が裕福になってこそ、国は繁栄する・・・今こそ、小楠のような政治家が求められているような気がします。
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コメント
初めまして。
熊本に住んでいますので小楠の事は少し触れたことがありますが、すごく詳しく知っておられますね。
毎年2月には小楠の死を悼んで四時軒で供養祭が開かれるようです。
投稿: みや | 2010年1月 5日 (火) 17時31分
みやさん、はじままして~
小楠のページ、覗かせていただきました。
さすがは熊本県のおかた・・・くわしいです。
私塾の跡地には記念館があると聞きましたが、やはり、小楠さんは、地元では有名なかたなのですね。
いい情報をありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2010年1月 5日 (火) 18時40分
>国民が裕福になってこそ、国は繁栄する・・・今こそ、小楠のような政治家が求められているような気がします。
まさに歴史は繰り返す、ですね。戦後の日本はそんな感じだったのかな・・・今年も広い視野に立った茶々様のブログが楽しみです。本年もどうぞよろしく。そのうち福山龍馬のことも書いてください。しかしどうも天地人以来突っ込み癖がついてしまった私・・平常心で見なくては。
投稿: Hiromin | 2010年1月 5日 (火) 21時12分
Hirominさん、こんばんは~
今年もよろしくお願いします。
そうですね~
機会があったら福山龍馬の事も書いてみたいです。
「坂の上の雲」も視聴させていただきましたが、なかなかデキのいい作品なので、今の段階では、感動してツッコミ所が見つかりませんでした。
今となっては、天地人・・・おもしろかったです。
まさに、心に残る愛すべき作品となりました。
投稿: 茶々 | 2010年1月 5日 (火) 23時46分
素晴らしいブログを読ませていただきありがとうございます。
これからも更新頑張ってください。
投稿: うっかりであいまい | 2010年1月19日 (火) 15時49分
うっかりであいまいさん、コメントありがとうございましたo(_ _)o
これからもよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2010年1月19日 (火) 16時01分