峰の嵐か松風か~高倉天皇と小督の悲恋物語
治承五年(1181年)1月14日、第80代・高倉天皇が21歳の若さで崩御されました。
・・・・・・・・・・・
高倉天皇は、第77代・後白河天皇の第7皇子・・・わずか8歳での即位でした。
後白河天皇の後を継いだ第1皇子の第78代・二条天皇が、在位わずか8年で亡くなってしまい、二条天皇の皇子である第79代・六条天皇が、その後を継いだのですが、わずか4年で、今回の高倉天皇へ交代・・・
しかも、この時、先の六条天皇は、まだ5歳でした。
5歳の天皇から8歳の天皇への交代劇・・・誰が考えても、そこには、周囲の大人の意向が反映されている事はミエミエです。
すでに亡くなったとは言え、未だ政界に残る二条天皇の側近たちは、天皇自らが政治に腕を振るう天皇親政を推し進めていて、そんな彼らが擁立したのがその息子の六条天皇だったわけです。
しかし、もちろん、その天皇親政に反対する人も・・・それが、院政を行いたい後白河法皇(天皇・上皇)と平清盛。
その二人が、二条天皇派を牽制するために即位させたのが高倉天皇・・・というわけです。
さらに、即位から3年後の承安元年(1171年)には、11歳になった高倉天皇のもとに、15歳になった清盛の娘・徳子が入内・・・翌年には中宮となって、さらに治承二年(1178年)には、二人の間に待望の皇子・言仁親王(ことひとしんのう・後の安徳天皇)も誕生します。
しかし、上記の高倉天皇即位の頃には、強力タッグを組んでいた後白河法皇と清盛も、この皇子誕生の前年には、あの鹿ヶ谷(ししがだに)の陰謀(5月29日参照>>)が発覚したりして、すでに、その関係には、亀裂が生じてしました。
やがて、完全に実権を握った清盛は、治承三年(1179年)の11月に、後白河法皇の院政をストップさせて鳥羽殿に幽閉・・・(11月17日参照>>)
さらに翌年には、まだ20歳の高倉天皇を退位させて、徳子が産んだ自らの孫・言仁親王に後を継がせます。・・・わずか1歳2ヶ月の天皇・・・第81代の安徳天皇です。
親父と舅に人生振り回され続けの高倉天皇ですが、その性格は、穏やかでやさしい人だったという事なので、さぞかし、両父親の間に入って、心を痛めておられた事でしょう。
『平家物語』には、そんな高倉天皇の悲恋の物語があります。
この物語自体は、清盛の横暴さを強調するための、平家物語作者の創作である可能性が高いお話なのですが、有名な美しいお話なので、ご紹介させていただきます。
・‥…━━━☆
かの高倉天皇が、すでに亡くなっている葵の前という女性を思い続け、暗く悲しい生活を送っている事を心配した中宮・徳子は、彼女のほうから進んで、小督(こごう)という女性を、女官として天皇のもとへと差し向けます。
小督は、中納言・藤原成範(なりのり)の娘で、ものすごい美人・・・。
早速、右少将の冷泉隆房(れいぜいたかふさ)という男が、彼女に恋をして、たちまちのうちにいい関係になります。
彼は、代々、皇室の近臣として仕える家柄で、風流をたしなみ和歌も詠む、申し分ない男でしたが、ただ一つ・・・彼は、すでに妻子持ち。
もちろん、この頃の結婚は、例のごとく通い婚ですし、愛妾なども当然の時代ですから、普通はさほど問題はないのですが、この奥さんというのが、あの清盛の四女だったから、ちとマズイ・・・。
隠れ隠れ付き合っていた二人ですが、そこに、さらに大きな問題が・・・
そう、かの高倉天皇が、小督に夢中になっちゃたのです・・・美人の宿命と言えば、宿命ですが、考えて見れば、こっちも、奥さんは清盛の娘・・・。
二人の娘の婿殿のハートを射止められ、怒り心頭の清盛は、小督が生きている以上、この問題は解決しないと踏んで、小督を密かに殺害しようとまで考えます。
二人の男性からの気持ちに悩み、さらに身の危険を感じた小督は、夜にまぎれて宮中を抜け出し、どこかに身を隠してしまいます。
さて、困ったのは、恋こがれる高倉天皇のほうです。
早速、源仲国(みなもとのなかくに)というを呼び寄せ、
「嵯峨のあたりにいる片折戸(かたおりど)をつけた家にいるとの噂を聞いた・・・探してきてくれないか?」
と、頼みます。
天皇の泣きはらした姿を気の毒に思う仲国は、必死で嵯峨野一帯を探します。
片折戸の家を見つけては、「ここにいないか?」と家人に尋ねてみますが、いっこうに見つかりません。
やがて、日が暮れ、空には美しい月がかかります。
季節は秋・・・
もはや、あてもありませんが、天皇を命を受けて、手ぶらで帰る事もできません。
その時・・・
「そうだ!こんな月の美しい夜には、その光に誘われて法輪寺へ行かれたかも知れない」と、ワラをも掴む気持ちで、嵯峨野から桂川を渡った向こうにある法輪寺へと馬を歩かせていると、渡月橋のあたりで、かすかに琴の音が聞こえてきます。
峰のあらしか 松風か
尋ぬる人の 事の音(ね)か
おぼつかなくは 思へども
駒を早めて 行くほどに
片折戸をしたる内に
琴をぞ弾きすまされたる
控えて これを 聞きかれば
少しもまがふべうもなき
小督殿の爪音なり
夜の渡月橋・・・嵐山花灯路にて
耳をすませて、よく聞くと、確かに『思夫恋』という曲・・・
「この琴は、確かに小督の琴・・・
この月の美しい夜に、この曲を選んで奏でるとは、なんと優雅な・・・」
宮中で、何度も、小督の琴に合わせて、笛を奏でた事のある仲国が、笛を取り出してそっと吹き、戸をたたくと、琴の音がやみました・・・間違いなく小督です。
しばらくして応対に出た家人を説得して、最初は会う事さえ拒んでいた小督に、なんとか面会できた仲国・・・
小督が言うには、
「もう、ここにもいられないと思い、明日には、大原の奥に身を隠すつもりでいましたが、最後の夜となったこの月の美しい夜に、是非とも琴をせがまれて、弾いていたところでした」
との事・・・。
そんな小督に、仲国は天皇からの手紙を差し出すとともに、天皇の落ち込んだ姿、泣き泣き過ごす毎日を必死に伝え、なんとか小督を説得し、密かに、宮中の人目につかない所に住まわせ、そこに天皇が密かに通うという毎日を過ごしていました。
しかし、やはり人の噂には戸が立てられない物・・・いつしか、この事が清盛の耳に入ってしまいます。
「小督が宮中から姿を消したというのは、ウソだったのか!」
と激怒する清盛は、小督が2度と宮中へ出入りできないよう、ムリヤリ出家させ、清閑寺(じょうかんじ)へと追放したのです。
確かに、一時は尼になろうか?とも考えた小督ですが、自ら希望してなるのと、ムリヤリならされるのでは、やはり、その心情は違います。
まだ、23歳という若さで、心にそぐわない余生を送ることになってしまった彼女の心はいかばかりであったでしょうか。
そして、この事件からほどなく・・・
治承五年(1181年)1月14日、高倉天皇は21歳という若さで、この世を去ったのです。
・‥…━━━☆
先にも書かせていただいたように、この小督の一件自体は、架空の出来事だったとしても、打算渦巻く政界の中で、心優しい高倉天皇が、心痛に苦しみ、その命を縮めていったのは確かかも知れません。
.
「 源平争乱の時代」カテゴリの記事
- 平清盛の計画通り~高倉天皇から安徳天皇へ譲位(2024.02.21)
- 「平家にあらずんば人にあらず」と言った人…清盛の義弟~平時忠(2023.02.24)
- 頼朝の愛人・亀の前を襲撃~北条政子の後妻打(2019.11.10)
- 源平争乱・壇ノ浦の戦い~平知盛の最期(2017.03.24)
- 源平・屋島の戦い~弓流し(2017.02.19)
コメント
ヒストリアでは、出家は、時子がやらせたとか...
投稿: ゆうと | 2012年4月18日 (水) 18時00分
ゆうとさん、こんばんは~
まぁ、平家物語では清盛は悪役ですから…
投稿: 茶々 | 2012年4月18日 (水) 19時51分
こんにちは、茶々さん。
低気圧や便秘の影響でしょうか頭痛が酷いので寝たり起きたりです。
茶々さんは如何ですか?
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/heike/3/194.html
茶々さん、私は高倉天皇と言いますとこの話が好きです。こういう主君だと最後まで仕えたくなりますし、やはり皇室の直接の祖である帝は思いやりがあるなと思いました。その血は孫の土御門天皇を通じて北朝に受け継がれたのかなと思います。
小督の方はいたかどうか分かりませんが教養深い方だと思いますし、こういう方だと徳子も薦めただろうと思います。私も好きになりそうな方です。
尼と言いますと平家物語の関係者は尼になっている人が多いですね。それも髪を剃り落していますね。祇王祇女姉妹、仏御前、小督の方、横笛といますが、清盛の娘の徳子、重衡の妻で嫁に当たる輔子と皆髪を剃り落して寂聴みたいにスキンヘッドです。いい加減な気持ちでの出家でないと感じました。
投稿: non | 2016年12月27日 (火) 15時04分
nonさん、こんばんは~
平家物語は風雅ですね。
私も少し体調を崩しています(;д;)
投稿: 茶々 | 2016年12月28日 (水) 01時15分