やるね!良寛~70歳のラブソング
天保二年(1831年)1月6日、曹洞宗の僧で歌人・書家でもあった良寛が74歳で亡くなりました。
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良寛(りょうかん)さんと言えば、小さい頃、学校の図書室にあった絵本で見た、子供たちと一緒に手毬(てまり)をついているおじいちゃん僧の姿しか思い浮かびませんねぇ。
ある時、村の子供たちとかくれんぼをしていて、良寛は田んぼにうまく隠れた・・・
ところが、そのうちに夕方になって、子供たちは次々と家に・・・もちろん、鬼だった子も・・・
翌朝早く、田んぼにやって来た農夫が、良寛を見つけて驚くと、
「し~~、そんなに大声を出したら、見つかってしまう」
と、言ったのだとか。
また、ある時は、自らが住む、庵の床下からタケノコが生えて来ると
「かわいそうに」
と、床に穴を開け、それが成長して屋根にまで伸びると、今度は屋根に穴を開けた・・・なんて、
しかし、こんな浮世離れした雰囲気で子供たちと遊んでいるだけで、後世に名を残すとは、とても思えないわけで・・・
「いったい何をした人なんだろう?」
今更ながらではありますが、考えてみました・・・
良寛は越後(新潟県)出雲崎の名主の子として生まれ、18歳の時に、隠居した父の後を継いで名主見習いとなりますが、間もなく逃げるように家を出て、そのまま尼瀬の光照寺へ飛び込み、出家してしまいます。
その後、その光照寺を訪れた国仙(こくせん)和尚に憧れて弟子となり、和尚とともに、瀬戸内は備中(岡山県)の玉島にある円通寺にて11年間を過ごします。
・・・と言っても、11年間、ずっと円通寺に滞在していわけではなく、諸国行脚(あんぎゃ)が禅僧の修行の一つでもあるわけですから、あくまで円通寺が基点という事で、どちらかと言えば、中国・四国や京都など、旅をして過ごす事のほうが多かったようです。
そんなある日、旅先で、恩師である国仙和尚が危篤であるとの知らせを聞き、とるものもとりあえず、円通寺へと急ぎ戻ります。
和尚は病に倒れ、確かに弱々しく見えましたが、元気に良寛を迎えてくれ、円通寺の境内に草庵を建て、そこに住むようにと、詩を送ったのです。
♪良(りょう)や愚の如く 道転(うた)た寛(ひろ)し
騰々任運(とうとうにんうん) 誰が見るを得ん
為に附す 山形爛藤(さんぎょうらんとう)の杖
到(いた)る処(ところ)壁間午睡(へきかんごすい)の閑(かん)♪
「良寛よ、お前はアホに見えるけど、その道(悟り)は広い。
その、物事にこだわらず、すべてを自然に任せる境地は、ワシ以外にはわからんやろなぁ。
せやから、ワシ愛用の杖を与える。
どこに行こうとも、この杖を壁に立てかけて昼寝でもしとったらえぇがな」
この詩とともに、良寛は和尚から印可(いんか)を受けます。
印可とは、悟りを開いた事の証明というか許可というか・・・とにかく、ここで和尚の弟子から、一人前の禅僧と認めてもらったわけです。
良寛、32歳の時でした。
冒頭に書かせていただいたように、良寛は僧であるとともに、歌人でもあり書家でもあり、その作品は高い評価を受けています。
しかし、それに酔って贅沢な暮らしをするのではなく、小さな庵を基点に諸国を歩き、自然になすがままに生きる・・・
そもそも、彼が18歳で出家した理由も、名主という封建社会の一員となる事に耐えられなかったからではないか?と言われています。
江戸時代の名主とは、その縦社会の権力機構の末端を荷う政治家といった感じ・・・上の者に抑えられ、こびへつらいながら、下の者からは容赦なく税徴を収する
良寛の生涯を見る限り、そのような事ができる人ではなかったでしょう。
彼が、ともに遊んだ子供たちは、言わば底辺にいる貧しい村の子供たち・・・そんな子供たちに笑顔を与え、ともに暮らす究極のスローライフ・・・
書家として名を馳せた後も、高名な人物からの書の依頼は断っておきながら、子供たちから「この凧の字を書いて~~」とせがまれると、喜んで書いたと言います。
国仙和尚だけが見抜いた良寛の魅力は、何もないところに何かがあるすばらしさ・・・。
印可を受けた後、円通寺を離れて、またまた諸国行脚の旅に出た後、故郷に戻って、小さな庵で暮らしていた57歳のある日、良寛は漢詩を書きつけます。
♪花無心招蝶
蝶無心尋花
花開時蝶来
蝶来時花開♪
「花は無心に蝶を招き
蝶は無心に花を尋ねる
花が開く時に蝶は来て
蝶が尋ねる時に花が開く」
これこそが良寛の生き方なのでしょう。
やがて、その三年後、良寛のもとにしなやかな蝶が迷い込んで来ます。
奥村マスという武士の娘で、18歳で医者に嫁いだものの、五年で離縁され、その傷心の中で出家して、貞心尼と号す尼僧となっていた女性でしたが、30歳の時に、良寛の評判を聞き、弟子になりたいと庵を訪ねて来たのです。
たまたま旅に出て留守をしていた良寛に、手土産として持参した手づくりの手毬と和歌を残して、一旦帰ります。
♪これぞこの ほとけの道に 遊びつつ
つくやつきせぬ みのりなるらむ ♪
旅先で、この噂を聞いた良寛も、「和歌を詠む尼僧など、いくらでもいる」と、さして興味を持たなかったのですが、庵に戻って実物を見るなり、気が変わります。
♪つきて見よ ひふみよいむなや ここのとを
とをとおさめて またはじまるを ♪
♪つきてみよ♪=「来なよ!」
どうやら、良寛さん、一発で恋に落ちたようです。
時に良寛70歳・・・月の美しい夜に、初めて会った2人は・・・
♪君にかく あい見ることの うれしさも
まださめやらぬ 夢かとぞおもふ ♪貞心尼
♪ゆめの世に かつもどろみて 夢をまた
かたるも夢よ それがまにまに ♪良寛
おいおい!スローライフは?(゚Д゚)
いやいや、蝶が舞い込んで来た時は、いつでも花開くのですから、これが自然という物なのかも知れません。
さらに、貞心尼が諸国行脚に出ていて、長く会えない時などは
♪君やわする 道やかくくる このごろは
まてどくらせど 音づれもなき ♪良寛
なんて、情熱的~~ヽ(´▽`)/
もはや、良寛の恋の花も開きっぱなし!
しかし、残念ながら、この恋は、わずか四年で幕を閉じます。
天保二年(1831年)1月6日、良寛は74歳の生涯を閉じるのです。
もちろん、最期は貞心尼に看取られて・・・
貞心尼さんを、「老いた良寛を惑わせた、とんでもない女狐」なんて、考え方もあるようですが、今日のところは、良寛さんが、70歳にして初めて夢見た淡い恋として、ハッピーエンドで終らせてあげたいです。
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