なぜ?どうして?大坂は「天下の台所」になったのか?
本日は、なぜ、大阪=大坂が、「天下の台所」と呼ばれるようになったのか?というお話です。
・・・・・・・・・・・
昨日の明暦の大火のお話の中で、江戸の町は・・・
「あの徳川家康が優秀なブレーン・天海とともに、見事な都市計画で造り上げた城下町・・・」
という事を書かせていただいたところ、
いつも、コメントをくださるDAIさんから、
「しかし、商品の取引市場は大阪?江戸近郊に作らず なぜに大阪なんですかね?京都に近いから?それでも大阪で売買したものを江戸に更に運ぶ・・・。2度手間で西と東で戦いが起こった時に食料の確保が・・・なんて考えてしまうんですが・・・」(1月18日のコメント参照>>)
というコメントをいただき、
その事については、以前から、記事として書いてみたいと思っておりましたので、コメント欄ではなく、こうして、一つのページとして書かせていただく事にしました。
・・・とは言え、この「天下の台所」という言葉自体は、江戸が政治都市だったのに対して、大坂が経済都市であった事を、わかりやすく表現しているのであって、本当に江戸時代を通じて、大坂が「天下の台所」という表現をされていたかどうかは、定かではありません。
ただ、天保十三年(1842年)の『諸色取締之儀ニ付奉伺候書付』という書面に、「世俗諸国の台所と相唱・・・」と出てきますので、少なくとも、その頃には・・・
・・・という事で、本日の内容は「なぜ?天下の台所と呼ばれたのか?」というよりは、「江戸に幕府がありながら、なぜ?大坂が経済都市だったのか?」という内容になりますが、しばらくお付き合いくださいませ。
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・・・で、その一番の要因は、やはり、すでに豊臣時代に、大坂が経済の中心としての機能を身につけていた事にあると思います。
以前、大坂の町割について書かせていただきましたが、そのページで述べたように、町の大きさこそ、江戸時代にグンと大きくなったとは言え、現在でも、なんとなく、その境界線がわかってしまうくらい、豊臣時代の町が、残っているのが大阪です(9月8日参照>>)。
それは、豊臣秀吉が築いたとされる太閤下水が、この平成の世でも一部機能している事からも、わかります。
(★太閤下水については、本家HP:京阪奈ぶらり歴史散歩の太閤下水のページへ>>別窓で開きます)
豊臣を滅ぼし、その大坂城を徹底的に破壊して、まったく新しい城に造り替えた徳川家康も、その町並みには、ほとんど手をつけず、豊臣時代の町の外側に、徳川の大坂の町を造ったという感じだったのではないでしょうか?
豊臣時代に、すでに諸大名の米の保管用倉庫=蔵屋敷が建ち、物資の集散の場所として機能していた大坂・・・
これを、江戸で幕府を開いたのだから江戸に・・・と移動できなかったのには、さらに、当時の税徴収のシステムを考えまければなりません。
当時の税の徴収方法・・・それは、年貢です。
そう、地元の農民から徴収するのは、お米であって、現金ではない・・・つまり、各地の殿様は、自分とこの領地から徴収した年貢米を、お金に換える必要があったわけです。
・・・かと言って、自分とこの領地内の商人で、藩の年貢のすべてを現金に換えてくれるような大商人はいないわけです。
もちろん、江戸にも・・・幕府だって、お米を換金しないとやっていけないのです。
政治の機能が遷ったと言っても、都市機能のすべてが、江戸に移転するわけではありませんから、当時、すでに、大坂・堂島にあった米市場は、そのまま、大坂にあったし、年貢を現金に換えてくれるような大商人は、未だ大坂にいるわけで、彼らが、その本拠地を、江戸に移転するかしないかは、彼らの心次第です。
もちろん、先に書いたように、大名や旗本の蔵屋敷も、江戸に幕府が開かれた時点で、すでに大坂にありましたし・・・
ここで、それらの年貢米や物資の流通機能がオソマツな物だったら、ひょっとしたら、豪商は徐々に、江戸に移転し、それとともに、大名の蔵屋敷も、移転したのかも知れませんが、ここで、もう一つの重要な要因・・・海運の発達があげられます。
元和五年(1619年)、堺の商人が、紀州(和歌山県)の船を使って、江戸へ物資を運んだ事にはじまるとされる菱垣廻船(ひしがきかいせん・貨物船の事)・・・
寛永年間(1624年~1643年)には、大坂・北浜の商人が江戸にて問屋=つまり、江戸出張所を造り、その航路も定期航路として、見事に大坂⇔江戸間を結んでいたのです。
しかも、その間、寛永十六年(1639年)の、百万石を有する大手換金藩=加賀藩を皮切りに始まった北前船のルートは、さらに寛文十二年(1672年)には西廻りの航路として確立され、ますます大坂が流通の拠点となったのです。
同時期の幕府の様子を見てみると・・・
関ヶ原に勝利した家康が、征夷大将軍になったのは慶長八年(1603年)。
その後を継いだ二代目将軍・徳川秀忠が豊臣を倒した大坂夏の陣が元和元年(1615年)・・・ここで、武家諸法度や禁中並公家諸法度などの法整備をします(4月16日参照>>)。
やがて、3代目将軍・徳川家光のもとで、五人組制度がはじまるのは元和九年(1623年)で、さらに、参勤交代の制度が定まるのが寛永十二年(1635年)です。
ここで、やっと政治的な基礎が固まったと思いきや、2年後の寛永十四年(1637年)には、島原の乱(10月25日参照>>)が勃発し、「幕府、大丈夫?」という風が吹いたりなんかします。
この大坂&江戸の出来事の流れを見る限りでは、幕府が江戸での政治的基盤を固める前に、商人が大坂で経済の基盤を固めてしまったというのが現状ではないでしょうか?
一旦、固まった物は、よほど不便な事がない限り移動しません・・・まして、海運の発達で、江戸⇔大坂が気軽に行き来できていたのですから・・・
それでも、初めのうちは、各大名の蔵屋敷の物資を管理する蔵元は、各藩の役人が派遣されて行っていたのですが、やはり武士は商いベタ・・・いつしか、商売に慣れている商人に頼むようになり、町人蔵元と呼ばれる彼らによって、蔵の中の物資の保管や、出納の管理がされるようになります。
中之島に架かる淀屋橋の名前のもととなった、ご存知の豪商・淀屋は、この町人蔵元となって、莫大な財産を築く事になります。
また、米の売却代金を保管して藩への出納や送金を行う掛屋、蔵の米を、役人の代理人となって受け取って売却する札差(ふださし)なども登場します。
もちろん、総責任者は各藩の留守居役がこなしますが、藩に損害を与えない限りは、その資金をを自由に運営する事ができたほど、任されていたのですから、町人蔵元や掛屋は、そのウデ次第で多大な利益を挙げる事ができたわけです。
ただし、江戸時代を通じて、蔵屋敷は、大坂だけではなく、江戸にもあり、長崎にもあり、大津や敦賀といった交通の要衝にも置かれていました。
しかし、やはり、大金が動くのは大坂・・・こうして、大坂は「天下の台所」となった?という事なのではないでしょうか?
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コメント
こんにちわ~、茶々様。
フムフム・・・なるほど。
しかし幕末の頃なら武士の経済が困窮して商人の勢いが強いので「あの~、江戸に経済拠点を置きたいんだけど・・・」なんてことは難しいとは思いますが、江戸幕府が出来た頃なら言えたんじゃないんですかね?すでに商人の力が強かったという事なんですかね?大阪湾はたしかに西日本から物資を集め経済拠点になる要素を含んでいると思います。しかし東京湾も東日本の経済拠点になる要素は十分あったと思いますが・・・。家康さんでも商人にガツンと言えなかったんですかね・・・。いつの時代も政治家でも金持ちには頭が上がらないんですかね?
投稿: DAI | 2010年1月19日 (火) 13時46分
DAIさん、こんにちは~
本文にも書いた通り、蔵屋敷は江戸にもありましたしが、おそらく、その量は、大阪商人にとって出張所で事足りる感じだったんじゃないでしょうか。
蝦夷地の昆布が北前船で運ばれ、大坂に先に到着していた事から、大阪のだしはコンブになって、東京のだしはカツオになったとされているくらいですから、西廻りの航路の便利さがハンパなかったって事もあると思います。
堺の商人は、信長の時代からお金持ってますし、秀吉は、その堺の商人を大量に大坂に移転させたりしましたが、江戸時代は、その大坂も幕府直轄地なので、あえて、江戸に誘致する必要がなかったのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2010年1月19日 (火) 15時44分