夢を夢見た非凡な貴公子・小笠原長行
明治二十四年(1891年)1月25日、肥前(佐賀県)唐津藩主(世嗣とも)で、末期の江戸幕府・老中として活躍した小笠原長行が70歳でこの世を去りました。
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人間、誰しも、その人生の中に、千載一遇のチャンスという物があります。
天下に手が届いた戦国の三英傑=織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などは、そのチャンスが人生の中で何度も訪れ、それを的確に自分の物にした感がありますが、普通は、そうそう、そんなチャンスが訪れる物ではなく、また、訪れても、的確につかむ事のできない物であります。
今回ご紹介する小笠原長行(おがさわらながみち)さん・・・彼も、なんとなく、その一世一代のチャンスをつかみきれなかった1人ように思います。
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文政五年(1822年)に唐津藩主・小笠原長昌(ながまさ)の長男=嫡子として生まれた長行でしたが、父が亡くなった時には、わずか2歳だったために、家臣たちの策略によって「病気で後を継げない」と幕府に報告されてしまいます。
・・・というのも、唐津藩は、長崎という重要地点をその領地としています。
2歳の幼子を藩主として立てれば、「とても治めきれないだろう」と、幕府から別の場所への転封を命令されるかも知れません。
しかし、誰もが察しがつくように、江戸時代を通じての長崎はとても儲かる場所・・・手放したくないのは誰しも同じです。
そこで、他家から養子をもらって後継ぎとし、2歳の長行の順番を後回しにしたわけです。
結果的に、長行は4人の養子の後に唐津藩を継ぐという長い回り道をする事になるのですが、逆に、その頭脳明晰さが、早くから幕府の目に止まる事となります。
嘉永六年(1853年)のペリー来航以来、混迷を極める幕府が、譜代大名に新たな人材を求め、なんと、長行は、部屋住みの身分(後継ぎでもなく独立もしてない中途半端な状態)のまま、奏者番から若年寄、そして老中格にまで大抜擢されるのです。
そして、長行が、その期待通りの才能を見せ付けてくれるのは、その後まもなく・・・文久二年(1862年)に起こった生麦事件(8月21日参照>>)での処置です。
これは、江戸から戻る途中の島津久光(薩摩藩主・島津茂久の父)の隊列を横切ったイギリス人を、無礼討ちと称して斬った事件・・・
これに激怒したイギリスが、幕府と薩摩藩に対し、謝罪と賠償金を要求するのですが、その時の幕府側の交渉を行ったのが長行・・・
「艦隊を動員して徹底的に抵抗するぞ!」と宣言する薩摩藩を尻目に、彼は、とっとと処理して、ほぼ独断で賠償金を支払ってしまいます。
これには、幕府内からも反対意見が多数ありました。
そう、時は、未だ攘夷(じょうい・外国を排除)の嵐が吹き荒れている時代です。
当の薩摩も、本気で攘夷を決行しようと考え、長州も、そして、朝廷さえも攘夷を要求し、困った第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が、しかたなく翌・文久三年(1863年)5月10日を以って攘夷を決行する約束までしちゃった時期です。
しかも、あの一橋(徳川)慶喜(よしのぶ・後の15代将軍)も、すでに開港した港の、再びの閉鎖を朝廷に約束してしまっていました。
しかし、このあとの行動を見る限り、長行だけは、「攘夷なんてできっこない」事を、すでに見抜いていたようで、それで、賠償金あっさり承諾だったのです。
文久三年(1863年)5月、先の閉港はもちろん、攘夷そのものが不可能である事を知らしめるため、長行は、官僚・水野忠徳(ただのり)や井上清直(きよなお)を誘い、幕府の様式歩兵隊の精鋭・約1600名を率いて海路大坂へ・・・
もちろん、目標は入京・・・京都に入って、不可能な無理難題を押し付けて来る朝廷内の攘夷派を一掃して、朝廷の大勢を一気にくつがえし、未だ京都に足止めされている家茂を江戸に連れ帰ろうというのです。
そう、ご存知の八月十八日の政変(8月18日参照>>)・・・この2ヶ月前に、長行は、単独で、このクーデターを決行していたのです。
ところが、この一件が、八月十八日の政変ほど知られていないのは、お察しの通り、失敗に終ったからなのですが、その経緯は・・・
枚方から、京都を目指した長行ご一行・・・淀まで来たところで、京都でこのニュースを聞いて、慌ててやって来た在京の老中や若年寄らに制止され、その説得に応じて淀に留まってしまったのです。
そんなもの、蹴散らして京都に入り、禁門を抑えて、1発ど~んとやってしまえば良かったのですが、長行は、それをしませんでした。
在京の幕臣との意志疎通がなされていなく、彼の単独であった事も致命的だったかも知れません。
もちろん、彼の単独であったかどうかも、不明と言えば不明で、この一件の責任をすべて長行になすりつけた結果、記録的に単独となっているのかも知れないのですが・・・
そして、そこには、彼の生い立ちも影響していた事でしょう。
幼すぎたゆえ、順番こそ後回しにされたとは言え、長行は藩主の息子・・・この先、登場する維新の英傑たちのように、底辺の苦渋を味わった経験はありません。
これが、下層出身の西郷隆盛や大久保利通といった人たちなら、なりふりかまわずとことん行ったかも知れませんが、坊ちゃん育ちの彼には、それができませんでした。
その間にも、本来なら幕府側であるはずの京都守護職・松平容保(かたもり)や、京都所司代・松平定敬(さだあき)も、もはや、朝廷の意向を幕府に伝える役どころと化し、淀に留められた長行は、徐々に孤立していまいます。
結局、長行は、主君である家茂によって老中を解任されてしまうのです。
かくして、長行のクーデターは終わりを告げました。
その後、許されて、慶応元年(1865年)には再び老中となり、外国御用取り扱いも兼任し、第二次長州征伐(四境戦争)では、小倉口の全軍指揮を任されますが、もはや、以前の勢いもなく・・・(7月27日参照>>)
彼は、この文久三年の5月で燃え尽きたのでしょうか・・・
・・・とは言え、後に勃発した戊辰戦争では、養父の勘当を蹴散らしてもなお、函館戦争まで参戦し、最後まで幕府への忠誠をつらぬいたというのは、彼なりの最後の意地だったのかも知れません。
そんな長行の最期は70歳・・・明治二十四年(1891年)1月25日、自宅で静かに息を引き取りました。
♪夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢
浮世は夢の 夢ならぬ夢 ♪
長行の辞世と伝えられるこの一句を見るだけで、その才能の非凡さと、千載一遇のチャンスを逃した、あの日の思いが伝わってくる気がしてなりません。
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コメント
楽しく読めました
投稿: ななし | 2014年6月16日 (月) 06時13分
ななしさん、コメントありがとうございますo(_ _)o
投稿: 茶々 | 2014年6月16日 (月) 13時46分
「新撰組」物や「勝海舟」で有名な作家の子母澤寛さんが、この人が歴史上最も好きな人らしいです。
「なんで、こんな『パッ』としない人が?」
と思ってたんですが奥の深い人物だったんですね。
投稿: 会長 | 2015年3月31日 (火) 21時15分
会長さん、こんばんは~
維新の英傑や新撰組ほどスポットじゃ当たりませんが、なかなかの人物のように思いますね。
投稿: 茶々 | 2015年4月 1日 (水) 02時02分