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2010年1月20日 (水)

坂本龍馬の隠れ家「酢屋」へ行ってきました

 

今日は、、先日、京都に行ったお話・・・

ブームに乗っかるわけではないですが、ちょっと私用で出掛けたもので、京都の三条から四条まで、龍馬の時代に思いを馳せながら、高瀬川沿いの木屋町を散策してきました。

Dscn8688a800 現在の高瀬川

そこで、つくづく思うのは、幕末のアノ頃との景観の違い・・・

とは、言え、個人的には、あまりこだわりません。

その歴史の舞台に実際に立って、同じ空間に包まれる事こそ至福の時なので、周囲がどのように変わっていても、私にとっては行く事こそが最大の目的

でないと、史跡巡りはできません。

場合によっては○○跡という跡だらけの場合もあるわけですし、あの東大寺・大仏殿でさえ、江戸時代の建物で、聖武天皇のソレではないわけですし、京都は応仁の乱で焦土と化し、ほとんどの建物は、それ以降の物なのですから・・・。

この木屋町あたりも、ご多分にもれず、その面影を残す場所は少ないわけですが、そういう場合は、在りし日の姿を想像しながら、その変貌ぶりを楽しむのも一興です。

考えてみれば、粋なお茶屋の並ぶ通りは、その時代では最先端の繁華街だったわけで、古き良き日本を思い描くようなスローな光景ではなく、むしろ雑踏と人通りに満ちたファンキーな場所だったわけですから、そこを歩く人の気持ちの持ちようというのは、逆にコチラのほうが近いかも知れません。

いや、むしろ、それこそ京都が古の都ではなく、現役の都市である証拠とも言えるわけです。

とは言え、やっぱり歴史好きとしては、その時代の物が残っていると、ちょっとテンションが高くなるものではありますが・・・お恥ずかしい。

・・・と、そんなこんなを考えながら、三条大橋を東から西へと渡ります。

時代の流れを感じながら・・・

Suyatizu 三条大橋のたもとにあった高札場(幕府の掲示板)は、スタバの駐輪場と化し、
あの池田屋は、少し前まではパチンコ屋だったのが、歴史ブームの影響で「池田屋」と名付けられた海鮮料理屋さんに・・・

土佐藩藩邸小学校に、
坂本龍馬中岡慎太郎の最期の場所・近江屋コンビニに、

その中岡の住まいは油とり紙を売るお店になり、
古高俊太郎の隠れ家(6月5日【池田屋騒動】参照>>)料理屋さんへと変化・・・

そんな中で、唯一、当時の面影を残したまま現存するのが「酢屋」です。

Dscn8680800 酢屋

京都に来た龍馬ファンの方々が訪れる、有名なゆかりの場所となると、霊山にあるお墓か、伏見の寺田屋か・・・と言ったところですが、

お墓は、その名の通りお墓なので、龍馬が亡くなった後に建てられたもの・・・寺田屋は、残念ながら、明治以降の建築である事が公式に発表されました(1月23日参照>>)

・・・となると、「酢屋」は、まさに唯一つ現存する生存中の龍馬ゆかりの場所という事になるのでしょうが、お墓や寺田屋よりは、あまり知られていないのか、中に入ると、私1人でした。

まぁ、おかげで、係りの方の説明もゆっくりと聞く事ができ、展示物も独り占め、説明後には、私のツマラン質問にも答えていただけるというラッキーな環境での拝観となりました。

ところで、現在の私たちが描く龍馬像というのは、ほとんどが小説の世界で確定されたイメージです。

ずいぶん前のご命日の日に【坂本龍馬・暗殺の謎の謎】(2006年11月15日参照>>)と題して、チョコッと触れさせていただきましたが、龍馬は、その政治活動のほとんどを、脱藩浪士・不逞浪士の立場で行っているので、明確な行動の記録というのが、ほとんど残っていないのが現状です。

なんせ、逃げ隠れしながら暮らしているわけですから、「どこにいる」「何をしている」のが、公になるはずがないわけです。

当時は、何をやってるかわからない不逞浪士の1人だった龍馬像も、幕末が過ぎ、明治の世となり、さらに時代が進むにつれて、龍馬自身や周囲の人たちの手紙や日記などが徐々に発見され、それらの点と点をつなぎあわせて、志士の1人としての龍馬像が浮かび上がり、それを名作家と呼ばれる人たちが、見事な小説として書き上げたり、感動ドラマにしたりして、現在の龍馬像となったのです。

そんな龍馬が、暗殺のちょっと前まで滞在していたのが「酢屋」・・・

ここは、享保六年(1721年)から続く材木屋さんで、現在の当主は10代目・酢屋嘉兵衛さん・・・現在も、材木ひとすじで、1階は木製の小物類などを販売するお店となっていて、2階が、龍馬関連の展示ギャラリーとなっています(拝観:500円)。

幕末当時は、6代目が当主を務めておられましたが、その頃は、大坂から伏見・京都へと通じる高瀬川の輸送権を与えられていたので、運送業もこなしておられました。

Takasegawameizi4800 明治時代の高瀬川

ちなみに高瀬川は、物資の輸送を船で行うために造られた人工の川で、川の要所々々に船入という入江が設置され、そこに船を泊めて荷物を上げるようになっていました。

Fynadamari5a900zu 酢屋の目の前には、五之船入というのがあり、当時は、現在ある駐車場(写真の真ん中の建物)の所が、その荷上げの場所となっていたのです。

志士たちが語る新しい世の中に理解を示す6代目から、酢屋の2階を借りた龍馬は、ここに海援隊の京都本部を置き、龍馬のほかにも、陸奥宗光(むつむねみつ)長岡謙吉など、数多くの隊士が、ここ酢屋に投宿していました。

故郷の姉・乙女さんに宛てた慶応三年(1867年)6月24日づけの龍馬の手紙では、「今、酢屋というところでお世話になってま~す」と書かれている事から、暗殺される少し前までは、龍馬は酢屋にいたのだろうとされています。

ちなみに、ここで才谷梅太郎と名乗っていた龍馬が、2階の出格子から、船入に向けてピストルの試し撃ちをしていたというエピソードも残っています。

そんな酢屋さんの建物は、現役でお商売されている以上、もちろん、修復もされていますが、天井の梁の部分が、見事に当時のまま残されており、「龍馬も夜寝るときには、この天井を見たのかなぁ」とつくづく・・・(やっぱミーハーか?(゚ー゚;

昭和八年の修復の時には、その天井裏に隠すように置かれていた『海援隊日記』なる物が発見され、そこには、龍馬暗殺の犯人に関する情報集めに、残された隊士たちが奔走する様子が、細かく書かれているのだとか・・・

実は、その暗殺の後、天満屋事件(12月7日参照>>)を引き起こす陸奥が、その襲撃計画を練ったのも、この酢屋の2階・・・維新後に、酢屋を訪れた陸奥が、感激の涙を流したという話もうなずけますねぇ。

そんな『海援隊日記』は、普段は非公開なれど、毎年、龍馬さんのご命日の11月15日から2週間ほどの間だけ公開されるとの事なので、要チェックですぞ。

ただし、酢屋さんの2階ギャラリーは水曜定休なので注意してくださいね。

せっかくのブームなのですから、
「メディアの作ったブームになんか乗るか!」
なんて肩肘はらずに、これキッカケで訪れながらも、本当の龍馬の素顔に触れてみるのも良いかも知れませんよ。

酢屋以外の周辺史跡も含めて、木屋町・祇園から清水までを幕末目線で散策するコースを、本家のHP:京阪奈ぶらり歴史散歩にupしていますのでよろしかったら【木屋町・祇園~ねねの道・幕末篇】へどうぞ>>
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コメント

こんんちわ~、茶々様。
私も京都は好きで以前は毎年 訪れていました(見たいものがいっぱいなので)
平安時代の人物になりきり・・・足利 義満になりきり・・・徳川 家康になりきり・・・もちろん坂本 龍馬も!そんな私を彼女は白い目で見ていましたが
┐(´д`)┌ヤレヤレ
酢屋さん、知らなかった・・・。しかも2Fにギャラリーもあるなんて・・・。次回 伺いたいと思います!

投稿: DAI | 2010年1月20日 (水) 13時35分

DAIさん、こんにちは~

はい!
私も、いつもなりきってます(*゚ー゚*)

二条城のうぐいすばりは、かなり徳川慶喜になりきれましたし、石しかない飛鳥板葺宮でさえも蘇我入鹿(←そっちかい!)になりきって、斬られてきましたから・・・

酢屋もかなり、なりきれます。
今度、ぜひ、どうぞ。

投稿: 茶々 | 2010年1月20日 (水) 14時22分

茶々さん、お久しぶりです。

大河の龍馬伝が始まりましたね。

3回全部見ましたが、何か展開が早いような気がします。
もう少し、土佐での乙女さんとのやり取り
を見たいような気がするのですが。

酢屋の存在は知りませんでした。
今度、京都に行く機会があったら、行きたいですね。

寺田屋が明治以降に建てられたというのは
何かのニュースで聞いたのですが・・・。
寺田屋に行った事がありますが、確か柱には
龍馬襲撃のときの柱の刀傷や、おりょうが
襲撃のときに入っていたお風呂も見たのですが、あれは全て明治以降なのですか・・・。
ちょっと、ショックです。

投稿: シンリュウ | 2010年1月20日 (水) 19時46分

今の坂本龍馬や斎藤道三のイメージは、創作も含めほとんど司馬遼太郎が創った物ですからね。
有名作家次第で偉人の人気は随分変わるもんだとつくづく思います。
誰にせよもっとちゃんと知ろうと思ってくれる人がいると良いのですが。
所詮、小説、大河ドラマ止まり…。
酢屋って初めて知りました。意外に河原町通りの近くだったんですね。

投稿: 花曜 | 2010年1月20日 (水) 21時10分

シンリュウさん、こんばんは~

「龍馬伝」・・・
確かに、子供時代がメチャメチャ短かったですね。

あれだけ、乙女さんとの絆が深い龍馬ですから、もう少し姉弟のエピソードがあってもよさげですが、それこそ、これまでのドラマのイメージであって、今回は、少し違う感じに描かれるのかも知れませんね。

寺田屋は、以前から、「鳥羽伏見の戦いで燃えたはず」と噂されていましたが、一昨年でしたか・・・京都市の鑑定結果が出てしまいましたね~残念です。

投稿: 茶々 | 2010年1月20日 (水) 23時40分

花曜さん、こんばんは~

説明してくださった係りの方も、展示されている龍馬の写真を見ながら「ホンモノの龍馬の事を知ってもらいたい」とおっしゃっていました。
やはり、小説のイメージがあまりに強い事を心配されているようです。

酢屋さんは、「材木屋」としてはともかく、「龍馬ゆかりの地」としての宣伝活動は、ほとんどされていないそうなので、やはり、ご存じない方が多いようです。

投稿: 茶々 | 2010年1月20日 (水) 23時46分

茶々さん、こんにちは!

高瀬川沿い=木屋町通沿いは幕末・維新好きにとってはたまらない場所ですよね( ̄▽ ̄)

ところで…僕もうっかりしてましたが、四之船入・五之船入の石碑ってあったんですね。三之船入までは確認して写真にも収めてましたが、気付かなかったぁー( ̄▽ ̄)

投稿: 御堂 | 2010年1月21日 (木) 17時12分

御堂さん、こんばんは~

>高瀬川沿い=木屋町通沿いは幕末・維新好きにとってはたまらない場所・・・

そうですね。
夜の木屋町は、飲みすけにはたまらない場所ですが・・・(爆)

写真にあるように、酢屋さんへ曲がり角の所が五之船入で、おっしゃる通り石碑もありました。

投稿: 茶々 | 2010年1月21日 (木) 20時49分

茶々さんへ

>夜の木屋町は、飲みすけにはたまらない場所ですが・・・(爆)

それはもう…身をもって体験してますのでよぉーく分かります(笑)

あんまりひどくって、酔っ払っちゃって寝ころんじゃった集団が道路を通せんぼしちゃうのも名物ですしね!!(爆)

投稿: 御堂 | 2010年1月21日 (木) 22時24分

御堂さん、こんばんは~

>それはもう…身をもって

私の友人も、真夜中の木屋町でエライ目に遭ってしまい・・・
今では笑い話ですが、話を聞いた直後は、ちょっと怖かったです(^o^;)

投稿: 茶々 | 2010年1月22日 (金) 03時44分

「Yahoo!リサーチ」で興味深い調査が実施しております。
テーマは「あなたが好きな“龍馬”は誰?」
過去30年間で大河ドラマなど(ていねいに登場作品名も記載)で坂本龍馬を演じた俳優が、1人ずつ選択肢で記載(「その他」もあり)されています。
22日13時現在、意外な中間結果となっています。
今月31日まで実施してます。先ほど「1票」入れました。
結果は2月初めに判明予定。

投稿: えびすこ | 2010年1月22日 (金) 13時08分

えびすこさん、こんにちは~


えっ?((・(ェ)・;))
意外ですか?

放送中にも、ブログに書かせていただきましたが、私は、ダントツでこの方だと思いますが・・・

投稿: 茶々 | 2010年1月22日 (金) 13時28分

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