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2010年1月11日 (月)

浮かぶ橘~県犬養三千代の出世物語

 

天平五年(733年)1月11日、奈良時代前期に活躍した天皇家の女官で、光明皇后の母である橘三千代が、推定68歳で、この世を去りました。

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現在、約12万はあるだろうと言われている日本人の苗字・・・

明治のはじめに「国民全員に苗字をつけなさい」との政府からのお達しによって、国民全員が苗字を名乗るようになってからは、苗字と姓の区別もなくなりましたが、もともとは、(かばね)氏・素性を表す一族の呼び方で、苗字多くなり過ぎた氏・素性を家族単位で判別するために名乗った物である事は以前も書かせていただきました。(2月13日【氏・素性と苗字の話】参照>>)

そのページにも書いたのですが、現在にも残る多くの苗字が、上記の通り、家族単位の識別のために、自らが勝手に名乗った物なわけですが、その中に源平藤橘(げんぺいとうきつ)という貴種(きしゅ)と呼ばれる姓があります。

なぜ、貴種と呼ばれるか?
それは、この4つの姓が、勝手に名乗った物ではなく、天皇から賜った姓だからです。

その中で、(みなもと)(たいら)は、ご存知のように、もともと天皇家の人・・・つまり、天皇の子供は何人もいるけど、皆を天皇家のままにしておくと人数がとんでもない事になるので、天皇の位を継ぐ可能性のある一部の人だけを皇室に残して、第2皇子や第3皇子などに、源や平の姓を与えて臣下としたのです。

そして、残りの・・・これは、天皇家ではなく、側近の豪族に与えられた姓です。

藤は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が賜った藤原という姓です。

彼は、ご存知、中大兄皇子(なかのおうえのおうじ・後の天智天皇)とともに、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺するクーデターを起こし(6月12日参照>>)大化の改新を行った人物・・・つまり、天皇家に多大な貢献をした事で、近臣の鎌足が、特別な「藤原」という姓を賜ったわけです。

・・・で、最後の(たちばな)・・・長い前置きとなりましたが、やはり天皇家に仕え、藤原ともう一つ、多大な貢献をした事で「橘」という特別な姓を賜ったのが、本日の主役・橘三千代(たちばなのみちよ)県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。

ちなみに、今回のお話とは関係ありませんが、戦国時代に、第107代・後陽成(ごようぜい)天皇から、羽柴秀吉が賜った「豊臣」という姓も賜姓です(12月19日参照>>)

・・・とは言え、この県犬養三千代さん、もともとエリートだったわけではありません。

父は県犬養東人(あがたいぬかいのあずまびと)という、従四位下という記録が残っているだけの人物で、もともと県犬養氏が、代々、天皇家の大蔵の番をする家系だったので、彼も、そのような役職についていたのでしょう。

そんな父の兄とおぼしき県犬養大伴(おおとも)という人が、あの壬申の乱の時に(10月19日参照>>)、数少ない大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)最初っからの味方であった事で、乱に勝利して実権を握った天武天皇の下で、正三位という位を貰い、この人が県犬養氏の出世頭でした。

そんな三千代ですから、結婚したのもいつの事だかわからないのですが、第30代・敏達(びたつ)天皇の4世の孫・美努(みの)との間に、長男・葛城(かつらぎ)王を天武十三年(684年)にもうけた記録が残っているので、それ以前には結婚していたという事でしょう。

ダンナである美努王という人も、皇族とは言え、4世もの孫となると、その数はメッチャ多いわけで、よほどの才能がない限り、大した出世は望めない地位だったわけで、現に、この人は、ほとんど歴史に出てきません。

しかし、このうだつの上がらないダンナのおかげで、彼女は、まず、第一歩のチャンスを掴みます。

それは、出産です。

彼女が出産したと同時期に、天皇家では軽皇子(かるのみこ)という皇子が生まれます。

この事で、彼女は、その軽皇子の乳母という地位を得たのです。
いい時に、仕込んでくれました~。

この軽皇子は、天武天皇とその皇后・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)との間に生まれた草壁皇子の息子・・・もちろん、母の鵜野讃良皇女は、この草壁皇子に皇位を継がせたかったわけですが、草壁皇子が早くに亡くなってしまったため、鵜野讃良皇女は、自らが即位して第41代・持統天皇となって、幼い軽皇子が成長するのを待ったのです。

つまり、この軽皇子は、すでに将来、天皇になる事が決まったも同然の大切な皇子だったのです。

・・・で、ここからが彼女の実力発揮!

このブログでも、以前、あの豊臣秀吉(10月17日参照>>)、そして坂本龍馬(11月15日参照>>)、まれに見る「人たらし」である事を書かせていただきましたが、おそらくは、この三千代さんも、歴史に残る人たらしだったのではないかと思います。

「人たらし」とは、人を騙すというのではなく、その話術と雰囲気で、いつの間にやら相手を自分のペースに引き込み、いつの間にやら味方につけてしまうといった感じのものです。

この時代の史料が少ないため、彼女の細かなエピソードがわからず、秀吉や龍馬のように目だちませんが、その出世ぶりを見る限り、かなりの腕前だと思いますねぇ。

彼女は、乳母という立場で、ものの見事に周囲の女性たちの信頼を獲得していくのです。

上記の通り、軽皇子の即位のために、中継ぎとして踏ん張ったのが女帝・持統天皇・・・その後は、もちろん成長した軽皇子が、第42代・文武(もんむ)天皇として即位しますが、彼が25歳という若さで亡くなってしまうため、その息子・(おびと)皇子が成長するまで、文武の母が第43代・元明天皇として、さらに、その皇女が第44代元正天皇(11月17日参照>>)として中継ぎ即位します。

つまり、それだけ、文武天皇の周囲の皇族は、女性が多くいたわけですが、女は女同志とばかりに、三千代は彼女らのハートをがっちりとキャッチして、乳母として養育係としての地位を不動の物としていったのです。

さらに、この期間・・・夫・美努王との間に作為(さい)牟漏(むろ)女王という男女2人の子供をもうけておきながら、いつの間にやら、うだつの上がらない夫を捨て、出世の見込める政界のキレ者と深い仲になるのです。

Fuziwaranofuhito600at それが、あの藤原不比等(ふひと)・・・。

もちろん、この頃は、結婚と言っても、今のように同じ屋根の下に暮らすという物ではなく、夫が妻のもとへ通う「通い婚」ですから、夫から見れば、「通ってる間だけが夫婦」で、妻から見れば、「明日、通って来なくなれば、その関係も終るかも・・・」という不安定な物なので、たとえ、美努王と不比等がかぶってる期間があったとしても、今ほど「不倫」「不倫」と騒ぐような物ではなかったのです(1月27日参照>>)

自らの娘を天皇に嫁がせたいため、皇室に信頼の篤い三千代と接近する不比等、うだつの上がらない夫に見切りをつけて、上り調子の政治家と一緒になりたい三千代・・・

以前、不比等さんのご命日にも書かせていただいたように(8月3日参照>>)、二人の恋は、もはや、何もかも忘れて突進していくような若い恋ではなく、自らの立場と利害関係を見据えた大人の恋だったのです。

しかも、またまたグッドタイミングで彼女は子供を出産します。

それは、その不比等の娘・宮子が、三千代の尽力もあって、見事、文武天皇夫人となり出産した先の首皇子・・・その首皇子の誕生と同じ頃に、不比等との娘・安宿媛(あすかべひめ)を出産して、またまた、乳母兼養育係の座をゲット!

この出産から、7年後の和銅元年(708年)には、時の天皇・元明天皇の大嘗祭(おおにえのまつり・即位した天皇が初めて行う新嘗祭)新嘗祭については11月23日参照>>)の時、酒宴の席で、三千代は天皇から「天皇の命を受け、昼夜を忘れて何代にも渡って、よく働いてくれました」との言葉とともに、杯に浮く橘を賜りました。

「橘は植物の中でも最高で人にも好かれる。
枝は冬に負けずに繁栄し、葉はしぼむ事がない。
実は珠玉のように光り、金銀とともにあっても美しい・・・汝の姓を、橘の宿禰
(すくね)と改めよ

この日から三千代は、橘三千代と呼ばれる事になります。

やがて、16歳になった首皇子は、その安宿媛をお妃に迎え、24歳で天皇に即位します。

それが、第45代・聖武天皇・・・母が皇室出身ではない初めての天皇です。

そして、皇后となったのは他ならぬ安宿媛=光明皇后・・・彼女も、皇室出身ではない初めての皇后です。

三千代から見れば、亡き夫の孫が天皇になり、実の娘が皇后になる・・・見事な出世です。

もちろん、彼女には、光明皇后以外にも、先の身努王との間に生まれた子供もいるわけですが、この子供たちの出世のバックアップも怠りません。

まずは、娘の牟漏女王を、不比等の息子の1人・後に北家と呼ばれる事になる房前(ふささき)に嫁がせています。

平安時代に、藤原全盛の時代を築く藤原道長は、この北家の人なので、ある意味天下取ったゾ~!って感じですね。

こうして、人たらしの肝っ玉母さんは、子供たちの出世を見守りながら、天平五年(733年)1月11日当時としては大往生の年齢で、この世を去ります。

おそらくは、自らの波乱万丈の人生を振り返るとともに、子供たちの永遠の幸せを願って、逝かれた事でありましょうが、残念ながらも、この後、亡き夫の藤原の子供たちと、自らの橘の姓を継いだ子供たちとの間で、壮絶な政権争いが起こるとは・・・世の中、皮肉なものですが、そのお話は、2007年7月4日【闇に消えた橘奈良麻呂の乱】でどうぞ>>
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コメント

この記事の真ん中の部分が、今ちょうど発売されている「天上の虹」の第21巻の内容と一致するのですが、ご覧になりました?
もしご存知でなければ、コミックをお読みになるとわかります。
橘三千代の命日が21巻の発売日直後になるとは何ともタイムリー?

投稿: えびすこ | 2010年1月12日 (火) 16時50分

えびすこさん、こんばんは~

申し訳ありません。
コミックや小説などのフィクションは、自分の描いている人物像とは異なる事が多いため、あまり読まないので、ご紹介の本も知りません。

また、機会があれば挑戦してみます。

投稿: 茶々 | 2010年1月13日 (水) 01時12分

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