神器なし指名なし~前代未聞の後光厳天皇の即位
応安七年(文中三年・1374年)1月29日、南北朝時代の北朝・第4代の天皇である後光厳天皇が崩御されました。
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天皇が二人いて、元号が二つあって・・・と、とにかく、ややこしい南北朝時代。
そんな、ややこしい南北朝時代に、特にややこしい前代未聞の即位をした天皇が、北朝・第4代:後光厳(ごこうごん)天皇です。
その前代未聞さをわかっていただくため、少し前の時代から順を追って、駆け足で紹介させていただきます。
まずは鎌倉時代にあった兄弟間の皇位継承のため、大覚寺派と持明院派の2流に分かれた天皇家・・・幕府が間に入った話し合いの末、この先、モメないように、交代々々で皇位を継ぐ事になったのですが、第96代後醍醐(ごだいご)天皇が、倒幕を決意して笠置山に籠り(8月27日参照>>)、楠木正成(くすのきまさしげ)らとともに挙兵します。
しかし後醍醐天皇が、この元弘の変(9月28日参照>>)に失敗して捕えられた事で、一旦、光厳(こうごん)天皇へと皇位が譲られますが、その後、配流先の隠岐を脱出した後醍醐天皇は、足利尊氏・新田義貞の寝返りを得て、鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、光厳天皇を廃して、自らが政権を握り、ご存知の建武の新政を行います(6月6日参照>>)。
ところが、武士の力を得てこそ行えた政変にも関わらず、後醍醐天皇の行った新政が、あまりにも天皇中心であったため、尊氏が反発・・・湊川で正成を破り(5月25日参照>>)、入京します。
京都を制圧した尊氏は先の光厳天皇を復権した後、その弟の光明(こうみょう)天皇が北朝第2代天皇となり、光厳天皇は上皇となって院政をとります。
ここで、尊氏が室町幕府を開いた事で、比叡山の延暦寺に逃げていた後醍醐天皇は「もはや、これまで」と和睦を申し入れて、とりあえず仲直り・・・この時、後醍醐天皇は三種の神器を持って京に入り、これを光明天皇に渡します。
しかし、ほとぼり冷めた後醍醐天皇が、またまた京都を脱出し、「渡した三種の神器はニセ物だよ~ん」と、吉野の山にて朝廷を開いたため(12月21日参照>>)、ここから後醍醐天皇の南朝と、光明天皇+尊氏の北朝とに分かれます。
そして、北朝では光明天皇から光厳上皇の皇子へと皇位が譲られ、北朝第3代・崇光(すこう)天皇となります。
この間に、南朝は、後醍醐天皇が崩御して、その皇子の第97代・後村上天皇へと皇位が継承されますが、崇光天皇の即位から1年目にして、尊氏と、その弟・直義の間で凄まじい兄弟ゲンカが勃発・・・
観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)と呼ばれるこのゴタゴタで、尊氏は息子・義詮(よしあきら)とともに京都を脱出して、なんと南朝へと鞍替えします。
そして、南朝という立場で関東へと出陣し、弟・直義を倒した尊氏・・・一方、その父から、留守となった京都の守りを任されてした義詮は、後村上天皇に「俺らも南朝になったんやから和睦しようよ」と呼びかけます。
これは、あくまで、尊氏の留守の間だけの時間稼ぎの提案だったわけですが、その気になった後村上天皇は、崇光天皇を廃位して、ただ1人の天皇となり、北朝の持っていたニセ物かも知れない三種の神器も手に入れ、とりあえず一旦、南北朝は一つになります。
ところが、かりそめの平和はすぐに崩れてしまいます。
まもなく、ただ一人の天皇として京都に向かう後村上天皇の警固という名目で、完全武装して京都に進攻した南朝勢力は、京都の制圧こそ、義詮にはばまれて結局はできなかったものの、
光厳上皇・光明上皇・崇光上皇そして、皇太子に決まっていた直仁親王までを、南朝の本拠地である賀名生(あのう)へと連れ去ってしまったのです(3月24日参照>>)。
慌てたのは、父・尊氏から、すでに将軍職を譲られて第2代将軍となっていた義詮・・・。
そうです・・・これで、北朝には天皇がいない事になってしまったわけです。
さらに、困った事には、上記のように、代々の上皇も連れ去られてしまっています。
実は、天皇というのは、先代の天皇が次代の天皇を指名するというのが慣わし・・・天皇が争乱に巻き込まれて都落ちしたりした特別の場合であっても、上皇・・・つまり、天皇経験者が指名する事になっていて、これが崩された事は、ほとんどありません。
平家とともに都落ちし、三種の神器を持ったまま壇ノ浦で散ったあの安徳天皇の時も、後白河法皇が孫の後鳥羽天皇を指名しています。
この時でさえ、三種の神器が揃わなかった事で、「異例の即位」と言われたほどですが、今回は三種の神器も無ければ、指名する上皇・法皇もいないわけです。
もちろん、これは、朝廷を立てて幕府を開いているという北朝の大義名分を奪ってしまおうという南朝の作戦でした。
さぁ、どうする?義詮・・・武家政権と言えど、天皇なしでは、室町幕府の正統性は保てません。
そこで、義詮は、やむなく、崇光上皇の弟で、すでに仏門に入る準備をしていた弥仁(いやひと・みつひと)王を呼び寄せ、さらに、今は亡き後伏見上皇の妃であった広義門院(こうぎもんいん)に指名をお願い・・・弥仁王の即位には賛成するも、自らが上皇の代理を務める事を拒む広義門院でしたが、そこを押し切る義詮。
もちろん、女院の命による即位も前例がないもの・・・この強引な即位には、北朝・公卿の間からも反対が起こりますが、義詮は、後継ぎがいなくなった時、群臣たちによって越前(福井県)から迎えられた天皇=継体(けいたい)天皇を持ち出して、「これが先例だ!」として、正平七年・文和元年(1352年)8月27日、即位を強行したのです。
継体天皇とは第26代の天皇・・・あの伝説まるだしの武烈天皇の次の天皇ですよ( ̄○ ̄;)!(2月7日参照>>)
どんだけ古い前例なんだ?って感じですが、この前代未聞の即位をしたのが、後光厳天皇なのです。
しかも、即位しても、まだまだ、安定は得られませんでした。
康安元年(正平十六年・1361年)に、楠木正儀(まさのり)・細川清氏(きようじ)ら南朝軍が大挙して京都に進攻した時には、義詮とともに近江へ逃げたり・・・(12月7日参照>>)
この時は、わずか4歳だったあの足利義満(12月30日参照>>)は、京都の建仁寺にかくまわれたりしましたが、その義満が第3代将軍を継ぐ頃には、南朝の勢力も衰えはじめ、やっと室町幕府も安定します。
学問を好み、和歌や琵琶も得意だったという後光厳天皇も、その頃には、やっとこさ、心落ち着けて、自ら絵筆をとって草木や鳥獣を描き、それに歌を添えて楽しんだという事です。
・・・とは言え、応安四年(建徳二年・1371年)には、息子の後円融(ごえんゆう)天皇(4月26日参照>>)に皇位を譲り、院政をしきましたが、その即位には、すでに京都に戻っていた崇光上皇に皇子との後継者争いなども微妙にあり、はたして本当に心が休まったかどうか・・・
そして、その皇位継承から3年後の応安七年(文中三年・1374年)1月29日、天然痘にかかり、37歳という若さでこの世を去りました。
『新千載(しんせんざい)和歌集』には、
♪なおざりに 思ふ故かと 立ち帰り
治まらぬ世を 心にぞ問う ♪
と、自らの政治姿勢を反省するような後光厳天皇の歌が収められていますが、
「いえいえ、あなたのせいだけではありませんよ!自分を責めないで!」
と言ってさしあげたいくらい、周囲の動乱に巻き込まれた後光厳天皇の生涯でした。
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