武勇の八幡太郎義家が冷遇されたワケは?
康平六年(1063年)2月27日、前九年の役で安倍貞任を破った源義家が出羽守に任ぜられました。
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源義家(みなもとのよしいえ)は、藤原道長の四天王と呼ばれた河内源氏の祖・源頼信(よりのぶ)の長男・頼義(よりよし)の息子として長暦三年(1039年)に生まれます。
母は、上野介(こうずけのすけ)を務めた平直方(なおかた)の娘で、頼義の武勇に惚れこんだ直方が、「ぜひ!わが娘を・・・」と望んだ結婚だったようです。
7歳になった義家は、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう・八幡市)で元服し、以後、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)と呼ばれます。
そんな義家が、父について東北の地にやって来たのがいつの事なのかは定かではありませんが、前九年の役が勃発してから数年後の天喜五年(1057年)の黄海(きのみ)の戦いに出陣している事から、少なくともその頃・・・19歳くらいの時には、父のもとで奮戦していたようです。
義家の父・頼義は、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が平安のはじめに、阿弖流為(あてるい)の軍勢を破って以来(11月5日参照>>)、平定したとは言えど、何かと不穏な空気が拭えない東国に、都から派遣されてきた陸奥守(むつのかみ)でした。
・・・で、当時の最大勢力であった安倍一族とのモメ事を発端に始まった前九年の役では、亡き父・安倍頼時(あべのよりとき)の後を継いで奮戦する安倍貞任(さだとう)と義家による、和歌の伝説なども生まれつつも(9月17日参照>>)、衣川の戦いで敗れた安倍一族は、ここで滅亡する事となります。
戦いに勝利して帰京を果たした父・頼義は伊予守(いよのかみ)に任ぜられ、続いて康平六年(1063年)2月27日、息子・義家も出羽守(でわのかみ)に任ぜられたのです。
しかし、本来なら、父を継承する陸奥守・鎮守将軍の座が欲しかった義家・・・
不満を漏らしたからなのか?
それとも、義家自身が希望したのか?
とにかく、出羽守から越中守(えっちゅうのかみ)となった義家・・・このため、父も子も、東北から離れる事となり、彼らのいなくなった東北の地は、前九年の役で頼義らに協力した清原氏の清原武則(きよはらたけのり)が鎮守将軍に抜擢されたのです。
その後、父・頼義は承保二年(1075年)に88歳の長寿を真っ当し、家督を継いだ義家は、しばらくの間、公家や貴族のガードマンという地味な仕事についてます。
やがて、再び義家が東北の地にやって来るのは永保三年(1083年)9月・・・45歳の時でした。
やっと念願の陸奥守兼鎮守将軍に任ぜられたのです。
あの安倍一族を破ってから20年・・・義家がずっと望んでいたからなのか?
何となく不穏な空気が流れ始めた東北の地に、朝廷が警戒したのか?
その予想通り、まもなく、かの清原氏同志の内紛が始まります。
これが後三年の役と呼ばれる戦い(11月14日参照>>)。
この清原氏同志の内紛を何とか収めようと、清原清衡(きよひら)に味方して、義弟の清原家衡(いえひら)を倒した義家でしたが、この個人的とも言えるお家騒動に、都から派遣されている鎮守将軍が介入した事に朝廷は激怒・・・義家は陸奥守を解任され、京へと戻されます。
しかも、新たな荘園を持つ事も禁止という冷たい処置を受けてしまいます。
やがて承徳二年(1098年)・・・60歳を越えた義家に、ようやく少しの光が差します。
やっとこさ、正四位下(しょうしいのげ)を賜り、武士として初めて院昇殿(いんしょうでん・上皇のいる院御所の殿上に行ける事)が許されました。
もちろん、彼の数々の武勇が報われたわけですが、それでも公家の中には、「武勇は認めるけど、昇殿まで許さなくっても・・・」と不満も漏らす者も多くいました。
「命賭けて頑張ってんのに、なんで???」
実は、将軍という名を聞いて「おぉ・・・(*゚▽゚)ノ」と憧れのまなざしとなるのは、後に、源頼朝→足利尊氏→徳川家康と、武家の棟梁がその名を継いで、はじめて名誉の代名詞となったわけで、その(昇殿を許された)最初の人である義家は、彼ら子孫から見て、「武家の棟梁・八幡太郎の流れを汲む・・・」と、自慢の対象となりますが、その八幡太郎自身は、未だ、貴族から見て、差別感の拭えない従者に過ぎなかったのです。
それは、昨年の最後の日=12月31日に書かせていただいた「軍事=悪(ケガレ)」という考え方からです(12月31日参照>>)。
後に、義家が亡くなった時にも、「屋敷から鬼が出てきて連れて行ったんだ」とか、「あれだけ人を殺したんだから、きっと地獄に落ちるよね」などと公家たちが噂しあってたのだとか・・・。
しかし、結果的に義家に官位を与え、昇殿を許したのは、彼ら武士の持つ武力への恐れとともに、その武力があるからこそ自分たちの身が守られている事を、朝廷も気づいていたからに他ならないのです。
軍事はケガレなのか?
正義の鉄槌なのか?
おそらく、これは永遠に答えにたどり着く事のない難問なのかもしれませんが、誕生以来、ずっと、このように、公家から冷遇されていた武士・・・
それを、見事に払拭したのが、八幡太郎から数えて4代目の、あの頼朝・・・彼は、幕府という、「もはや独立国?」と言っても過言ではないくらいの、まったく新しい政権・制度を作りあげて、武士を、その労力に見合う正統な地位に押し上げたわけです。
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