鳥羽伏見から会津戦争へ~松平容保の決意
慶応四年(1868年)2月10日、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜が、会津藩主・松平容保に江戸城への登城を禁止しました。
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時は幕末・・・倒幕の気運高まる中、大政奉還(たいせいほうかん)(10月14日参照>>)を行って、薩摩(鹿児島県)と長州(山口県)の振り上げたこぶしを回避しようとする第15代江戸幕府将軍・徳川慶喜(よしのぶ)・・・
しかし、薩長は王政復古の大号令(12月9日参照>>)を発して、あくまで幕府を倒すつもりです。
そんな中、江戸市中でテロ行為を繰り返していた薩摩藩に対して(12月25日参照>>)、朝廷から薩摩討伐の許可を得ようと大坂城から京都へ向かう幕府の行列・・・その行列を京都へ入れるまいと立ちはだかった薩長との間で勃発したのが鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。
その鳥羽伏見の戦いの3日目・・・薩長軍では錦の御旗が掲げられて官軍となった事で士気は挙がりますが、一方の幕府軍は賊軍となった事で士気も低下(1月5日参照>>)・・・手痛い敗北を知った慶喜は、単独で大坂城を抜け出し、海路、江戸城へと戻ってしまいます(1月6日参照>>)。
この時、慶喜に従って、ともに江戸に戻った、わずか数名の付き添いの中にいた1人が、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)です。
彼は、文久二年(1862年)に京都守護職に就任・・・その後、元治元年(1864年)2月には陸軍総裁職に任ぜられ、その年の4月には再び京都守護職となり、京都の治安を守る任務に当たっていた人です。
彼の配下となっていた新撰組が、京都の町に暗躍していた多くの尊王攘夷派の志士を取り締まっていたのは、皆様もよくご存知の事・・・(6月5日【池田屋騒動】参照>>)。
ただ、今回の大坂城脱出に関しては、後に「庭でも散歩するのかと思って、(慶喜に)気軽について行ったら、どんどん城門を出てしまった」と、容保本人が語っているらしいので、おそらくは、慶喜の単独の意思であると思われます。
かくして慶喜が去った大坂城は炎上し、入城した官軍の指揮下に置かれます(1月9日参照>>)。
そして、1月12日に浜御殿に上陸したその後の慶喜は、ご存知のように、ただひたすら新政府に対する恭順な姿勢で、徳川の存続を訴える事になります(1月17日参照>>)。
一方の容保は、恭順な姿勢をとりながらも、藩内の軍制改革を行い、軍備を整え、万が一の抗戦にも備えます。
もちろん、この間に、新政府は慶喜らを朝敵として追討命令を下してします。
ただひたすら恭順な慶喜と、恭順の一方で抗戦の準備も整える容保・・・ここに、その方針の違いを感じたのか、慶応四年(1868年)2月10日、慶喜は、容保に対して、江戸城への登城を禁止したのです。
悪く言えば、トカゲのしっぽ切り・・・「慶喜が、容保を見捨てた」という事になりますが、事が重大なだけに、ここで慶喜個人を責める事は避けたいと思います。
こうして、主君・慶喜と袂を分かつ事になった容保・・・未だ雪深い奥州街道を下り、23日には会津へと帰国します。
容保と同様に朝敵とされた桑名藩主の松平定敬(さだあき・容保の弟)(7月12日参照>>)は、すでに桑名藩が、世継ぎを立てて新政府に降伏してしまっていたため、ロシア船で越後(新潟県)へと逃亡した後、陸路にて会津に入りました。
もちろん、弟だけではありません・・・鳥羽伏見の戦いを経て、東へ東へと進む新政府軍に対して、慶喜の恭順な態度に納得できない、未だ幕府を支持する者たちが、続々と会津へと入ってきます。
これまでも、いくつか書いておりますが、江戸無血開城(1月23日参照>>)がなった後にも抗戦していた彰義隊(しょうぎたい)(5月15日参照>>)や遊撃隊(ゆうげきたい)(5月27日参照>>)などの生き残りも、どんどん集結していきます。
・・・が、この間にも、抗戦を回避するチャンスはいくつかあったのです。
未だ江戸無血開城がなされてもいない3月29日・・・新政府軍の奥羽鎮撫(おううちんぶ)総督に任じられた九条道孝(くじょうみちたか)は、仙台城へと入り、仙台藩主・伊達慶邦(だてよしくに)に、会津討伐を求めます。
この時の新政府は、会津と、そしてその会津と同盟を結ぶ庄内藩に対して、徹底的な処置を行う事を目指していたのです。
その要求に、やむなく、一部の兵を国境へと向かわせ、会津藩と銃撃戦など行う仙台藩でしたが、内心、それほど乗り気ではありません。
なんだかんだで、東北の諸藩は、意外と結束が固かったのです。
立場は、新政府側についていた仙台藩も、長年隣国としてよしみを通じて来た会津には、それなりの情もあり、庄内藩も含めて、何とか寛大な処置をしてもらえないものか?というのがホンネでした。
そこで、閏4月11日、東北14藩の重臣が仙台藩領の白石城(宮城県白石市)に集結し、かの容保も同意しての『会津藩救済の嘆願書』が作成され、仙台・米沢両藩から奥羽鎮撫総督府へと提出されたのです。
ところが奥羽鎮撫総督府・・・下(しも)参謀の世良修蔵(せらしゅうぞう)が、それを受け取るどころか、逆に、その嘆願書に名を連ねた東北諸藩へ、会津討伐の催促をしたのです(4月20日参照>>)。
「もはや新政府には、会津攻撃を回避する意志はない!」
会津が、守りから攻撃に転じた瞬間でした。
かくして9日後の閏4月20日・・・嘆願書を握りつぶした世良が、福島城外で仙台藩士たちに殺された(4月20日参照>>)のと同時に、田中左内(たなかさない)率いる会津部隊と、それに賛同した旧幕府軍生き残りが、奥州街道の要所・白河城を包囲します。
いよいよ会津戦争の幕が上がります・・・・が、このお話の続きは、やはり、白河口攻防戦が行われる5月1日のページでどうぞ>>
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コメント
お初です☆
幕末好きの福島県人です。
何気に立ち寄りましたが、興味深く拝見しました。
文中気になることがあったのですが、
>「庭でも散歩するのかと思って、(慶喜に)気軽について行ったら、どんどん城門を出てしまった」
これは初めて知りました。
何らかの書籍に載ってますか?
読んでみたいです。
>世良が、福島城外で会津藩士たちに殺された
これは僕の記憶が正しければ、福島、及び仙台藩士だったと思います。
投稿: からくり庵 | 2010年2月10日 (水) 18時13分
からくり庵さん、おぉ・・・ありがとうござます。
確かに仙台藩士です。
危うくこのまま見過ごすところでした。
感謝です。
ご指摘の容保の話は、青春文庫の「日本史・あの人の言い分」を参照させていただきました。
投稿: 茶々 | 2010年2月10日 (水) 19時09分
こんにちわ~、茶々様。
>『会津藩救済の嘆願書』が作成され、仙台・米沢両藩から奥羽鎮撫総督府へと提出されたのです
流石、独眼竜 伊達正宗・軍神 上杉謙信の子孫ですね。この時の様子を徳川家康が見たらビックリするでしょうね。
しかし幕末の時代、日本は集合国家だったと茶々様のブログでよく目にしますが なぜ奥羽越列藩同盟が出来たんでしょうか?しかも仙台・米沢のような大藩が進んで同盟なんて・・・やはり新政府軍を倒して『オレの天下』を夢見ていたんですかね?
投稿: DAI | 2010年2月11日 (木) 00時40分
DAIさん、こんにちは~
勝手な思い込みかも知れませんが、「結束して新政府軍を倒し・・・」というよりは、隣国として見放せなかったような気がします。
仙台・米沢両藩に仲介を依頼した容保は、「削封と謹慎で謝罪が認められるなら降伏する」と言っているのに、それを受け取らなかったのは新政府のほう・・・
また、いずれ書かせていただきたいと思っているのですが、この時、江戸で戦いを回避するために奔走していた1人の会津藩士は、話し合いのために大総督府へ出向き、そのまま捕らえられて幽閉されてしまっています。
このような新政府の徹底した態度を目の当たりにして、結束するしかなかったような気もします。
投稿: 茶々 | 2010年2月11日 (木) 09時35分
再びお邪魔します。
「日本史・あの人の言い分」、ヤフオクにたまたまあったので落札しました。
到着したら読んでみます。
捕らえられたのは公用方の広沢安任ですね。
所で列藩同盟、西軍の横柄な態度や根っからの佐幕姿勢、そして隣国への同情など色々あると思うけど、僕は個人的に厳しい気候の中にある東北諸藩の風情、そして筋道のような気がします。
投稿: からくり庵 | 2010年2月11日 (木) 12時02分
からくり庵さん、再度のコメントありがとうございます。
>捕らえられたのは・・・
そうです、広沢さんです。
またどこかで書く機会があれば・・・と思っています。
確かに、一言では言えない様々な要因が絡んでいて、その中には東北に生きる人々の気質のような物もあったのではないか?と思います。
投稿: 茶々 | 2010年2月11日 (木) 12時29分
再来年の大河ドラマはこのあたりを詳しく取り上げますね。
「八重の桜」の番組制作が決まって3か月になろうとしていますが、地元・会津若松市や東北地域から「歓迎する声」を聞いていないんです。地元の反応がよくわからない(サプライズの感もあるので)んですが、新聞投稿欄では「楽しみです」との意見を見ます。
東北出身俳優などからも同様の声がないんですが、まだ地震の事(後始末)で精いっぱいの感じでしょうか?
投稿: えびすこ | 2011年9月14日 (水) 12時33分
えびすこさん、こんばんは~
今年の「江」がねぇ(;ω;)
ネット上では、
「あんな大河なら誘致したくない」
なんて声まであるそうで…
来年の巻き返し次第で盛り上がるんじゃないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2011年9月14日 (水) 23時55分
13年の大河ドラマは元々は男性が主人公だったらしいです。
八重の桜で「綾瀬さん起用発表」の前には、宮崎あおいさんの主役起用もうわさされていました。ただ朝日新聞の先行記事を読んだ人しか予想していませんが。もう1回宮崎あおいさんにも大河ドラマの主役の機会があると思います。
大河ドラマには「視聴率が低くなった作品に出た若手の俳優はその後に大物になる」(高視聴率の場合は主役にしか目が向かないからか?)と言う傾向があります。俳優が心がける事は「大河ドラマの役のイメージ、評判・反響を一旦忘れる事(瑛太くん曰く)」らしいです。
主役経験者ではない俳優の中には、「若い時に大河の~に出てたんですか?」とよく聞かれる人もいます。
上野さんや向井くんたちが、来年以降行うであろう活動に焦点を置いています。さすがに何年も「江」の事を引きずらないと思います。大物になれば将来、彼らの「今年の失態」を口にする人がいなくなると思います。口にしても失態ではなく、若い時代の思い出としての話題でしょう。
北大路欣也さんは「竜馬がゆく」の失態をかき消しましたね。
ただ、大河ドラマは歌舞伎役者の娘さんはなぜか主役になれないんですよね。
投稿: えびすこ | 2011年9月15日 (木) 10時26分
えびすこさん、こんにちは~
そう言えば、大河ドラマは歌舞伎役者さんがよく出はりますが、娘さんは出はりませんね~
投稿: 茶々 | 2011年9月15日 (木) 17時10分
茶々さま こんにちは。
いつも楽しく拝見しています。ありがとうございます。
昨日2/10放送の大河「八重の桜」六話では、会津藩が京都守護職を引き受ける内容でしたね。
その中で家老の西郷頼母が
「いざとなったら幕府はトカゲのしっぽのように会津を切り捨てるだろう」というようなセリフがありましたが、まさにそれが慶応4年2月10日の容保江戸城登城禁止ですよね。
なんか奇しくもというか・・・感慨深いです。
しかし容保役の綾野剛さんの[容保感]がハンパない!
投稿: きょちゃ | 2013年2月11日 (月) 14時58分
きょちゃさん、こんにちは~
ホント!奇しくも2月10日の放送でしたね。
綾野剛さんも「見事なハマリ役」との評判が高いようです。
ドラマもいよいよ動乱の渦に入っていくようで、楽しみですね。
投稿: 茶々 | 2013年2月11日 (月) 17時03分