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2010年2月 9日 (火)

日露戦争~旅順港と仁川沖・同時海戦

 

明治三十七年(1904年)2月9日、日本の連合艦隊が、仁川沖と旅順港にてロシア艦隊に砲撃しました。

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明治三十七年(1904年)2月10日に、日本からロシアへの宣戦布告という事で、以前、日露戦争に至る経緯をおおまかに書かせていただきましたが(2007年2月10日参照>>)、日本側が最後通牒(つうちょう)を手渡した御前会議が開かれたのは、その6日前の2月4日でした。

満州から撤退しないロシアに対して、日本は、満州をロシアの勢力圏と認める代わりに、朝鮮半島を日本の勢力圏を認める満韓交換論(まんかんこうかんろん)を提示してロシアとの交渉にあたりますが、ロシアはこれを拒否・・・

開戦への気運高まる中の2月4日、宮中御座所にて、大臣・元老の列席のもと開かれた御前会議で、ロシアに対する国交断絶と開戦を意味する最後通牒が、外務大臣・小村寿太郎(こむらじゅたろう)から、駐日ロシア公使・ローゼンに手渡されたのです。

この時、そのローゼンは、「国交断絶ってどういう意味?戦争するって事?」と、かなりうろたえた様子だったという事なので、おそらく、ロシアにしてみれば、まさか、アジアの東の端っこの小国が、大国・ロシアに戦いを挑んでくるとは思ってもみなかったという事かも知れません。

すでに、開戦前の軍儀にて、大まかな作戦が決定していた日本軍・・・

Nitirotizucc
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

陸軍は、第1軍が朝鮮半島を占領し、第2軍が満州南部から遼陽(りょうよう)に攻め上りロシア軍の主力部隊を撃破する。

海軍は、旅順(りょじゅん)ウラジオストックを根拠地とするロシア太平洋艦隊を撃破して、黄海と日本海の制海権を握る。

これを受けて、すでに佐世保に集結していた連合艦隊は、かの御前会議の翌日の2月5日、出航を開始します。

まずは、主力部隊が旅順に向け出撃・・・

続いて瓜生外吉(うりうそときち)率いる第4艦隊が、韓国の主著・漢城(ソウル)近くの仁川(じんせん)港へ向けて出撃します。

この時、すでに仁川港には、イギリス・フランス・イタリア・アメリカの軍艦とともに、日本の巡洋艦・千代田も停泊中・・・一方のロシアも巡洋艦のワリャーグコレーツが港内に停泊していました。

出航の翌日の2月6日、先の御前会議での最後通牒受けて戦争状態に入った日本とロシア・・・翌・7日に、千代田は、一旦、仁川港を出て、沖合いに到着した瓜生率いる艦隊と合流し、さらに翌日の8日、艦隊は仁川に向けて航行を始めます。

一方、旅順へと向かった連合艦隊・主力部隊も、8日・午前6時頃には旅順沖に到着・・・まずは、10隻の駆逐艦にて、様子を見つつ行動開始・・・

この間に仁川沖の瓜生艦隊は、小競り合いの中、陸軍部隊が仁川上陸に成功しています。

夜になって、旅順港外へ到着した駆逐艦は、日づけが変わろうとする真夜中、港内に突入して、停泊するロシア艦隊に向けて夜襲を開始・・・その日の昼には、主力部隊も合流して本格的な攻撃が行われました。

その頃には、仁川に上陸した陸軍部隊のうち第1軍の第12師団2000名余りが漢城に入ったのを先頭に、第1軍主力部隊が続々と上陸し、韓国政府との間で、駐留権獲得の交渉に入る一方で、海上の瓜生艦隊は、ロシア艦隊との戦闘に入ります。

この仁川港外での海戦では、ロシア側のワリャーグが日本側の砲撃で大破した後沈没・・・それを見たコレーツも、自ら火薬庫に火を放って自爆し、日本側の一方的な勝利となりました。

しかし、一方の旅順では、そう簡単にはいきませんでした。

なんせ、旅順港は鉄壁の要塞・・・少し、港を出てきたロシア艦隊に対し、至近距離から砲撃を加える連合艦隊ですが、その間にも旅順の要塞からは、大砲が火を吹きます。

射程距離内にいた旗艦・三笠をはじめ、多数の艦船が被害を被る中、それを承知のロシア艦隊は、港を大きく離れる事なくしばし交戦し、30分もたたないうちに港内に戻ってしまいます。

結局、その日の戦闘は日本・ロシアともに致命傷もなく終わり、それ以来、ロシア艦隊は港からピクリとも動きません。

さらに、2月14日にも連合艦隊は攻撃を仕掛けますが、ロシア側が港を出ない以上は、要塞からの攻撃を受ける事になり、日本側は手出しできません。

やむなく、連合艦隊は、狭い旅順港の入り口を閉鎖する『旅順閉塞作戦』を決行する事になるのですが、そのお話は、有名な広瀬少佐の逸話とともに、3月27日のページへどうぞ>>・・・
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