本当に極悪人?観応の擾乱に散った高師直
正平六年(観応二年・1351年)2月26日、南朝に降った足利直義に打出浜の戦いで敗れた高師直らが、護送中に謀殺されました。
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ちょっと前までは、『足利尊氏像』として教科書に載っていたおなじみの肖像画・・・
今では、誰かわからないため『騎馬武者像』として掲載されているようですが、どうやら最近では、この肖像画の主が、高師直(こうのもろなお)であろうというのが有力なようです。
源氏の棟梁・八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の末裔とも言われる高(こう)氏の1人として生まれた高師直は、あの足利尊氏(あしかがたかうじ)の側近として、その名を挙げます。
その後、ともに鎌倉幕府を倒した後醍醐(ごだいご)天皇と決別した尊氏(12月11日参照>>)とともに南北朝を戦い、室町幕府のもとで新たに設けられた執事(しつじ)という役職につきます。
この執事という役職は、後に細川氏が継いで管領(かんれい)と名を変える将軍のサポート役の役職です。
正平三年(1348年)の四条畷(しじょうなわて)の戦いでは、あの楠木正成(くすのきまさしげ)を破って、まさに室町幕府成立の立役者となった師直ですが、やはり、師直さんの話となるとアノ話を避けて通る事はできませんよね。
このブログでも、他の方のページでチラチラ出てきていたお話なので、少し内容カブリますが、やはり有名なお話なので・・・
・‥…━━━☆
上記のように軍人として超一流だった師直さん・・・英雄、色を好むじゃありませんが、女性スキャンダルに関してもトップクラスです。
特に有名なのは、あの『太平記』に書かれた出雲・隠岐の守護・塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)・夫婦とのお話・・・
高貞の奥さんがメッチャ美人だとの噂を聞いた師直・・・そのスケベ心がうずかないわけがありません。
天下の名作家・吉田兼好に頼んで、一世一代のラブレターを代筆してもらい、彼女に送り届けますが、貞女である奥さんは、その封すら切らずに、即、ゴミ箱へ・・・
「この役立たずめが!」と散々兼好を罵った後に、今度は歌の名人に頼んで歌を造ってもらい、彼女に送付・・・しかし、これも見事に断られてしまいます。
そうなると、さらに恋心はつのるもの・・・もう、いてもたってもいられなくなった師直は、なんと塩冶夫婦の自宅に侵入!
奥さんづきの女官を買収し、彼女の入浴シーンをのぞき見・・・湯気にかすむ彼女の姿は、よく見えないぶん、よけいに想像が膨らみます。
「もう、アカン!!」
何が何でも彼女を手に入れたくなった師直は・・・
「そうだ!夫がいなきゃいいんだ!」
とばかりに、「高貞に謀反の疑いがある」と無実の罪をでっちあげます。
身の危険を感じた夫婦は、ともに手をとって逃亡を謀りますが、追手に囲まれ、もはや絶体絶命・・・夫をかばった奥さんは殺され、妻の死を知った高貞も自害してしまいます。
ところが、当の師直は、この一件に反省するどころか、ますますお盛んになる一方・・・公家の娘を次々に口説いては、一夜限りの恋を楽しんでいたのだとか・・・
しかも、その中には、皇后にも上がるか?というほどの身分の高い女性もいたと言いますが、さすがに、この話の通りだと、師直さん、とんでもない悪人ですよね~
おかげで、300年後には、更なる極悪人として再び脚光を浴びます。
そう、あの江戸の大ヒット『仮名手本忠臣蔵』・・・忠臣蔵は、あの赤穂浪士の討ち入りをモデルにしたお話・・・今で言うところの「事実をもとにしたフィクションです」ってヤツですが、さすがに小説なので、実在の人物名を出す事はできませんから、主人公の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の役名は大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)となってます。
そして、ご想像の通り、敵役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)が役名:高師直(こうのもろのう)で、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が役名:塩冶判官(えんやはんがん)・・・これは、吉良家が高家(こうけ・江戸幕府の儀式などを行う役職の家系)だった事、赤穂が塩の名産地であった事にもかかっているという見事な造りとなっていて、この名作のおかげで、ますます師直さんの印象は悪くなる事に・・・
・・・とは言え、度々このブログでも書かせていただいているように、こういう絵に書いたような悪人の場合・・・特に、好色系の話に関しては、多大なる創作が含まれている可能性大です。
ただ、師直さんの場合は、なかなかの汚名を返上できるような史料がない事も確か・・・。
しかし、この師直さんが命を落す事になる観応の擾乱(かんおうのじょうらん)という戦い(くわしい経緯は10月26日参照>>)・・・そもそもは、室町幕府の初代将軍となった尊氏と、その片腕として政務をこなす弟の直義の関係が崩れ、直義が南朝に寝返った事から勃発したわけですが・・・
確かに、武闘派で直感的な師直と、冷静沈着な政治家タイプの直義との間に、何かしらの敵対心もあったでしょうしモメてもいたでしょうが、結局は、将軍である尊氏が出した「直義討伐命令」に、師直は側近(執事)として従ってともに戦ってただけで、個人的に行動していたわけではありません。
最初は、勝利して直義を追い詰め、出家に追い込む・・・その後、直義の養子である直冬の討伐に向かう途中の2月17日、留守を見計らって脱出した直義軍に、摂津国・打出浜(うちではま)の戦いで、尊氏軍は敗れてしまいます。
・・・で、負けた尊氏は、側近の師直と、その弟・師泰(もろやす)の二人が出家する事を条件に、弟・直義と和睦したのです。
そして、その条件通りにちゃんと出家して道勝と号した師直が京都へと護送される・・・ところが、その護送の途中の武庫川(むこがわ・兵庫県伊丹市)あたりで、直義配下の上杉能憲(よしのり)によって、正平六年(観応二年・1351年)2月26日、一族もろとも騙まし討ちされて滅亡するのです。
「出家を条件に和睦やなかったんかい!凸(`Д´メ)」
と、師直命がけのツッコミが聞こえてきそうです。
この結果を見る限りでは、とても極悪人の最期とは思えないのですが・・・
武闘派で激しく、あとに退かない性格は敵も多かったかも知れませんが、その性格は、ある意味、武将としては必要な部分でもあります。
結局、その直義も、一年後のまったく同じ日に病死するのは、運命のイタズラか、はたまた・・・
いつか、師直さんの汚名を晴らせる日が来ますように・・・(-人-)
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コメント
茶々さん、こんばんは!
今日高校卒業しましたよヽ(´▽`)/
高師直は悪いイメージありますよね…。
仲のよかった尊氏と直義兄弟の仲を引き裂いたヤツ、みたいな。
直義は頼朝に似てて、尊氏は義経に似てるように個人的に思います。この2組の兄弟がずっと仲のよいままだったら、歴史は変わってますよね、面白いです。
長々と失礼しました!
投稿: 暗離音渡 | 2011年3月 2日 (水) 23時16分
暗離音渡さん、ご卒業おめでとうございます
>2組の兄弟がずっと仲のよいままだったら…
ホントですね~
大統領と首相、あるいは首相と防衛庁長官みたいな感じでうまくいけば、歴史は変わっていたかも…ですね
投稿: 茶々 | 2011年3月 3日 (木) 01時38分
源頼朝・義経、伊達政宗・政道、徳川家光・忠長、西郷隆盛・従道などなど┉┉┉┉歴史上兄弟が敵味方に分かれて争い、戦った例は枚挙に暇がありません。その中には頼朝と義経、家光と忠長のように憎み合ったり、あるいは政宗と政道、隆盛と従道のように思い合いながらも立場上争わなければならなかった例もあります。さてこの足利尊氏・直義兄弟の場合はそのどちらだったのでしょうか、それともその両方だったのでしょうか┉┉┉┉😔😔😔😔
投稿: アッチ君 | 2018年4月 6日 (金) 00時57分
アッチ君さん、こんばんは~
さぁ、どうだったんでしょうね?
現在でも、お金と権力のある家ほどモメますからね~
私の場合、モメるほどの物が無いでの安心ですが…
個人的な憎しみや権力の奪い合いだけでなく、武将の場合は家を守るために敵味方になる>>というのもありますが、大抵の場合は、その真相を書面に書き残すわけにいかない場合が多いですから、心の中まで見抜くのは、なかなかに難しいですね。
投稿: 茶々 | 2018年4月 6日 (金) 04時04分