信長と秀吉を魅了した戦国一のイイ人・蒲生氏郷
文禄四年(1595年)2月7日、織田信長と豊臣秀吉に仕え、前田家に次ぐ大大名にまで出世した蒲生氏郷が40歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・・
♪限りあれば 吹かねど花は 散るものを
心短き 春の山風 ♪ 蒲生氏郷 辞世
「限りあるものやねんから、そんなに吹かんでも(いずれ)花は散るって・・・(せやのに)春の山風は短気なんやから・・・」
これは、本日の主役・蒲生氏郷(がもううじさと)の辞世とされる歌です。
もし、本当にこれが正真正銘の氏郷さんの辞世の句だとしたら、何となく、謎を投げかけるような雰囲気ではありませんか?
まだ、死にたくないのに、誰かによって死に追いやられた・・・みたいな?
もちろん、その誰かは、実在の人物ではなく、神様、あるいは運命のような物で、「まだまだ、俺はやりたい事があるのに~!」というくやしさからの叫び・・・という事もありますが・・・
一方では、やはり、その年齢の若さや急な死であった事も相まって、かなり昔から暗殺説が囁かれているのも確かなのです。
- 九戸の乱の采配の時の氏郷のあり余る器量に主君の秀吉が脅威を抱いた。
- 朝鮮出兵の時に秀吉が自ら渡海しようとすると、氏郷が「僕が行くので、殿様はここで・・・」と言ったのを、秀吉が出兵批判と解釈した。
- キリスト教に対する姿勢の違い(氏郷はキリシタンで洗礼も受けてます)
- 秀吉が氏郷の妻・冬姫(信長の次女)を欲しがった。
- 氏郷の茶の師匠・千利休を秀吉が死に追いやった事での確執。
などなどの理由で、秀吉自ら、あるいは、主君・秀吉のために石田三成が手を下したなんて話がちらほら・・・
また、秀吉亡き後の覇権を考えて、三成と直江兼続(なおえかねつぐ)の共謀説など、様々に囁かれていますが、いずれも噂の域を越えない物で、現在では、おそらく病死・・・医師による「吐血」や「下血」の記録も残るところから大腸がんや胃がんなどの消化器系統のがんであろうというのが定説となっています。
・・・とは言え、氏郷の死に、あの三成と兼続が絡んでいるなら、それはそれで興味深いのですが(1月10日参照>>)、このブログではほぼ初登場の氏郷さん・・・未だ、あの葛西大崎一揆の時の、カッコイイ伊達政宗の引き立て役としてしかお目見えしていないので(2月4日参照>>)、今日のところは、その人となりなど、ご紹介したいと思います。
・‥…━━━☆
弘治二年(1556年)に、近江南部に勢力を誇った六角承禎(じょうてい=義賢)の重臣・蒲生賢秀(がもうかたひで)の嫡男として蒲生郡日野城に生まれた氏郷・・・その運命が、大きく変わるのは永禄十一年(1568年)の事でした。
その主家である六角氏が、織田信長に敗れた事によって、父・賢秀は、信長傘下となる事とし、その証しとして氏郷を岐阜の信長のところへ、人質として送ったのです。
ところが、この若者の優秀さを一目で見抜いた信長さん・・・自らの娘・冬姫と結婚させ、自ら烏帽子親となって元服させ、当時の信長の官職・弾正忠(だんじょうのちゅう)の一字を与え、忠三郎賦秀(やすひで)と名乗らせます。
信長の死後に主君となる秀吉からも、何と、羽柴という姓を貰って羽柴飛騨守(ひだのかみ)氏郷と名乗っています。
ちなみに、この賦秀の「秀」、氏郷の「郷」は、あのムカデ退治から平将門・討伐まで、その勇猛ぶりには事欠かない俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に由来する物で、『蒲生系図』では蒲生家の祖という事らしいです。
いくつかの文献に出てくる俵藤太の武勇伝は、蒲生家・家伝がもとネタで、藤太が龍神の化身と出会ったとされる瀬田の橋を渡る時には、子孫たちは皆、下馬して笠を脱いで渡ったと言いますから、その子孫というのが真実かどうかはともかく、蒲生家の人々の間には、そのように伝わっていて、おそらく氏郷も、幼い頃からご先祖様の武勇伝を聞き、「自分も格ありたい」と心躍らせた事でしょう。
それにしても、六角氏の家臣だった彼が、信長の娘を嫁さんに貰い、羽柴の姓を貰い、日野城主6万石だった父の後継から、伊勢12万石、会津42万石・・・さらに、その会津で加増されて、最終的には徳川・毛利・前田と並ぶ92万石の大大名に出世する・・・その魅力はいったい何だったんでしょうか?
実は、この氏郷さん・・・その悪口を、ほとんど聞きません。
昨日の友は今日の敵、親兄弟でさえ争い、勝者となった者は敗者の悪口を書きまくる戦国の世にあって、この方だけは別格・・・それはひとえに、その性格の良さ。
どうやら氏郷さん・・・この人にこそ「愛」の兜をかぶって欲しかったと思えるほどイイ人のようです。
そのイイ人ぶりは親譲りのようで、あの信長が命を落とした本能寺・・・この本能寺の変の時、父・賢秀は安土城で留守を預かっていたのですが、その死を聞いても財宝一つパクる事なく速やかに城を後にし、息子・氏郷との連携プレーで、見事、残された信長の家族を日野城にかくまい、明智光秀の誘いを断り続けて、亡き主君への忠義を貫き通したのだとか・・・(2017年6月2日参照>>)。
また、秀吉の世となってから、そのお伽衆に取りたてられた六角義賢(ろっかくよしかた・承禎)の子が秀吉に謁見した際には、すでに、その六角氏が200石に落ちぶれていて、一方の氏郷は100万石に近い大大名であったにも関わらず、かつての主君であった義理を立て、その太刀持ちをかってでただけでなく、自ら風呂焚きをしてもてなしたのだとか・・・
『茶道四祖伝書(さどうしそでんしょ)』という書物では、日本一気が短いのは細川忠興で、日本一気の長い人は氏郷であったとしているし、彼に洗礼を授けたあのオルガンティーノ神父も「知恵と寛大さを併せ持つ人」と、彼を絶賛しています。
会津に来てまもなくの頃には、元領主の伊達政宗から刺客が送られて来た事もありましたが、それを見つけた氏郷は、討ち取るどころか、「その忠義の心、あっぱれ!」と丁重にもてなして帰らせたなんて事も・・・
さらに、信長の経済政策ぶりを尊敬していた氏郷は、自らの領地でも楽市楽座を行い城下町の整備と発展に尽くしましたが、最初の領地である日野城下の商人が、氏郷が伊勢に転封となれば松坂へ引越し、会津に来れば会津に・・・と、ずっと彼を頼ってついて来ていた事をみても、いかに一般庶民から信頼されていたかがわかります。
さらにさらに・・・まだあります。
氏郷が新しい家臣を召抱えると、必ず言っていた言葉があったそうなのですが、それが・・・
「戦場では、わが軍の銀の兜の侍がいつも一番に乗り出すから、ソイツに遅れんようにガンバレよ!」と・・・
そう、もちろん、その銀の兜の侍は氏郷本人・・・
彼は、そんなイイ人でありながら、一たび戦場に立てば、誰よりも先に立って戦い、いくつもの弾丸を受けながらも不思議と無傷・・・武人としての強さとともに運の強さも持っていた武将でした。
そして、あの千利休が、細川忠興や古田織部(おりべ)を差し置いて、無類の名碗と称された「早船」を彼に与えた事や利休七哲の筆頭に挙げられる事から、茶道などの芸術にも優れていた事がわかります。
まぁ、その利休が切腹した時に、養嗣子の少庵をかくまったのも氏郷なんですが・・・。
・・・と、どこかダメなところはないのかい?
と、探してみると・・・ありました!ありました!
「氏郷に知行割り(部下への領地配分)を任せてはならない」という噂が・・・
どうやら、彼にやらせると、功績のあった者に異常に多くの知行を与えてしまうのだとか・・・って、これも結局イイ人だって事ではないか!
さらに、自分の蒲生という姓も、功績のあった者にどんどん与えてしまっていて、あの前田利家から「希少な姓を乱発すんな!」なんて怒られたり・・・
・・・で、結局、氏郷さんのダメなところは、冒頭に書いた伊達政宗にまんまとしてやられる所くらいのようです。
しかし、そんな憎まれない乱世のスーパーマンも、戦場での運を病では発揮できず文禄四年(1595年)2月7日、40歳という若さで亡くなってしまいます。
思えば、彼の唯一の汚点は、その、あまりにも早い死の影響で、この後、わずか3代・・・彼の孫の代で蒲生家が断絶してしまう(8月18日参照>>)という事くらいでしょうか。
茶道の秘伝書『山上宗二記(やまのうえそうじき)』には、「三十までは師に倣い、三十半ばから固を出し、四十から我流を押し出せ」という極意が記されています。
まさに、男・四十・・・茶の道に限らず、これからが氏郷にとって、その我流を、思う存分発揮できるに違いありませんでした。
できるなら、あと十年・・・緩やかな春風の下で、花を咲かせて欲しかった・・・そうすれば、あの関ヶ原も無かったのかも知れません。
氏郷の死を知った秀吉は、人目もはばからず号泣したと言いますが、秀吉ならずとも、その死を惜しみたい名将です。
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コメント
いつも楽しく拝見させて頂いてます(^O^)
戦国時代と幕末時代が大好きで、特に、伊達政宗、真田幸村、原田佐之助、相楽総三に興味があります。
この日記で随分勉強になりました(^O^)
これからも、勉強させて頂きますo(^-^)o
※岡田以蔵の事も詳しく知りたいです。
投稿: みか | 2010年2月 7日 (日) 20時22分
茶々さん、こんばんは!
やっと、出てきましたね、蒲生氏郷!
私が、歴史上でも本当に大好きな武将です。
信長に可愛がられ、秀吉も重宝した武将。
伊達正宗の陰に隠れていますが、氏郷が
あと10年生きてれば、家康の対抗馬になった
人物と確信してます。
氏郷の死因も疑いがあると思います。
秀吉が氏郷が亡くなったころはかなり衰えたことは推察できます。
秀吉にとっては、秀頼に忠誠を尽くす武士は
必要なはずです。
三成も同じ考えだと思います。
一番脅威に感じたのは家康ではないでしょうか?
あの当時利家は多分秀吉同様衰えを感じ。
豊臣家は内紛を肌で感じ。
家康の脅威は氏郷が一番だと思います。
関ヶ原から豊臣が滅びるまで名だたる武将が
死んでます。
家康は充分暗殺する力はあったような気がするのですが。
蒲生氏郷この人がもう少し長生きしたら
歴史はとんでもない状況になったでしょうね。
逆にいえば、家康の用意周到が今の歴史を築いたような気がします
投稿: シンリュウ | 2010年2月 7日 (日) 21時10分
みかさん、こんばんは~
>いつも楽しく拝見させて頂いてます(^O^)
ありがとうございます。
これからも、ご一緒に歴史を楽しんでいきましょうね。
よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2010年2月 7日 (日) 21時34分
シンリュウさん、こんばんは~
おっしゃる通り、
もし、本当に暗殺なのだとしたら、一番動機があるのは家康ですもんね。
豊臣にとっては、必要な人だったと思います。
投稿: 茶々 | 2010年2月 7日 (日) 21時37分
茶々さん こんにちは!
蒲生さん良い人ですねぇ!けど、だからこそコイツ裏ありそうだなって考えてしまいます笑 戦国武将は汚くてなんぼですから…ファンの皆様すいません汗
「三十までは師に倣い、三十半ばから固を出し、四十から我流を押し出せ」…蒲生さんがこの通りの生き方をしようとしていたのであれば、四十で暗殺された(?)理由が分かるような気がします。我流を押し出せってことは・・・そろそろ・・・ 固を出し始めた氏郷さんに秀吉や家康が危機感を抱いてもおかしくないはず、それもこれだけ周りから信頼され、好かれている人物であればなおさら・・・ だったら面白いなというただの妄想ですが苦笑
黒い(野心家?)氏郷さんも見てみたいです!
投稿: ryou | 2010年2月 8日 (月) 13時28分
ryouさん、こんばんは~
>戦国武将は汚くてなんぼ・・・
そうですね。
意外に松永久秀ファンが多いのも、知略・謀略こそ戦国武将の魅力って感じがするからですもんね。
そういう噂がまったくない事が、逆に、氏郷に対する一番の脅威だったのかも・・・
投稿: 茶々 | 2010年2月 8日 (月) 23時41分
武市半平太の奥さん 富さんの辞世
時しあれば 吹かでも花はちるものを
心みじかき 春の山風
氏郷さんとかぶってない???
投稿: masiro | 2010年3月16日 (火) 10時54分
masiroさん、こんにちは~
確かに、かぶってますね(^-^;
まぁ、とかく、辞世っていうのは、本当にご本人が詠んだかどうか怪しい部分もありますので、ひょっとしたら、後世の人が「よかれ」と思って加えたのかも知れませんね。
オマージュって事もありますし・・・
投稿: 茶々 | 2010年3月16日 (火) 12時27分
はじめまして。
蒲生氏郷で検索してここに来ました。
ここまで書いて、投稿の日付が古いので
いまさら書いても目に入るかどうか・・
って事に気付きましたが書いちゃいます。
>・・・で、結局、氏郷さんのダメなところは、冒頭に書いた伊達政宗にまんまとしてやられる所くらいのようです。
私は政宗にしてやられたとは思ってません。
何せ、この一揆の後、一揆の起きた土地を政宗に、政宗の土地を氏郷にという配置換えがあったからです。
(木村吉清の土地の事は政宗の所にも書いてありましたね)
政宗は荒らした土地のしりぬぐい、氏郷はきれいな土地を加増って事ですからね。
初めてなのになんか注文付けるみたいな書き込みで済みません(笑)
これから他のエントリーも見て回りますね。
それでは。
投稿: せみ | 2010年6月 1日 (火) 13時31分
せみさん、はじめまして
>私は政宗にしてやられたとは思ってません。
もちろん、その後の事も含めれば、してやられた事にはならないと思いますが、「あくまで、あの一件について」という意味で、そう表現させていただきました。
限りなく黒に近いグレーの政宗を、今で言うところの「その場で立件できなかった」という意味です。
今後ともよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2010年6月 2日 (水) 02時40分
天下一の温厚な人が短命で、天下一の短気の人(細川忠興)が長寿と言うのは何だかねじれてますね。
氏郷があと10年生きていたら、五大老の1人になっていたかもしれないですね。
蒲生家の会津の領地は二転三転しますね。
上杉が入った後、少し経って「藤堂裁定」で加藤嘉明に移って、その後は松平家。
投稿: えびすこ | 2011年2月 6日 (日) 09時27分
えびすこさん、こんがんは~
氏郷がもう少し生きていてかれたら…残念です。
投稿: 茶々 | 2011年2月 7日 (月) 01時34分
確かに…皆様の仰る通り、氏郷の死には何か不自然なものを感じますよね。癌による病死が定説とは言え、俗説でも秀吉から会津の加増(と言う名の…移転?)の際に京都から遠く離されたことに対して、恨み言を洩らしたとか…。時期的には、それから間もなく『病死』しているんですよね…。
この人の診断をした曲直瀬玄朔と言う方、所謂『名医』で、秀吉を始めとした名だたる武将、大名を診察してきた方ですが…朝鮮出兵の文禄の役の際に氏郷を『癌』と診断した翌年に、関白秀次の連座で追放され(更にその翌年に氏郷死去)後に赦され、家康秀忠親子に仕えて生涯を終えた…。
決して不自然な流れではありませんが、関連性を疑おうと思えば疑えるような(--;)
投稿: うちゃ | 2012年2月 9日 (木) 00時36分
うちゃさん、こんにちは~
う~~ん
謎は尽きませんねぇ
投稿: 茶々 | 2012年2月 9日 (木) 12時46分
証拠が少なすぎてワケわかんないですが
家康も氏郷も、関東に領地があって、大坂から遠すぎた間隙をぬってやられた可能性はありそうです
秀吉がサポートしてやる間もなく、旧主政宗のことばかり注意していたら、ノーマークだった家康の魔手に潰された…ってところですか
上杉景勝の転封時には石田三成に手厚くサポートさせたのも、氏郷の二の舞いを避けたかった秀吉の無念と反省のあらわれでしょうか
投稿: | 2013年8月31日 (土) 20時10分
こんばんは~
ほんに、謎が謎呼ぶ…ですね。
歴史好きの妄想は尽きません。
投稿: 茶々 | 2013年9月 1日 (日) 02時13分
松平元康は、参遠駿甲信に北条氏の旧領の相模の6ヶ国に封じたままにして置き、もし、蒲生氏郷が長命ならば彼に関東(武蔵・下総・上総3ヶ国)125万石を与え、ガッチリと元康を包囲して秀吉の死後は関ヶ原合戦で西軍の総大将として元康に勝利し豊臣家では、世は纏まらないので自ら征夷大将軍となり江戸幕府(蒲生幕府)を開くのであ〜る;-)!
投稿: ロキュータス | 2014年11月23日 (日) 08時13分
ロキュータスさん、こんにちは~
もしも…って考えると、妄想が尽きませんね~
オモシロイ!(゚▽゚*)
投稿: 茶々 | 2014年11月23日 (日) 15時55分
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人と同じ時代を生き、信長の娘婿であった蒲生氏郷は、武将としての能力や人格において優れていたといえるでしょう。ただし、文禄四年(1595年)に、40歳の若さで死去したのが残念ですね。もし、氏郷が、30年ほど長生きしていれば、蒲生家の運命が違っていたのではないかと思います。あと、信長の娘婿ということで思い出したのですが、氏郷の父親の蒲生賢秀が、信長に忠誠を誓うために、氏郷を人質として送ったそうですが、信長が氏郷を見て、娘婿にしたことを考えると、信長は、氏郷に対して、シンパシーの様な物を感じたのかもしれません。
投稿: トト | 2016年8月10日 (水) 08時34分
トトさん、こんにちは~
ただただ惜しまれますね~
投稿: 茶々 | 2016年8月10日 (水) 15時48分