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2010年2月18日 (木)

戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛[前編]

 

大正八年(1919年)2月18日、鹿鳴館の華と称され、明治の知識人&教育者として活躍した大山捨松が60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

すでに、来年は、上野樹里さん主演の「江~姫たちの戦国」に決定しているNHK・大河ドラマですが、ここ何年かの女性ターゲット路線の大河でいくなら、「是非とも、この方を主役にしていただきたい!」と思う人が、この大山捨松(おおやますてまつ)さんです。

彼女の人生は、波乱万丈でありながらも夫の愛に満ち、その博愛精神で教育に福祉にと大活躍する・・・そのうえ社交界の華としての煌びやかさも・・・

彼女なら、血で血を洗う戦国の世に生きた策略好きの武将を「愛の人」に描いてまで女性視聴者の獲得に走らなくても、そのままの姿で充分に共感を得る事ができると思うのですが・・・まぁ、知名度的なインパクトというのもあるのかも知れません。

・・・で、今回の捨松さん・・・旧姓を山川、幼名をさき(咲子)と言い、幕末の会津藩家老の家に生まれた、もともとはお姫様です。

彼女が生まれる少し前に父親が亡くなってしまった事から、祖父の兵衛重英(ひょうえじげひで)や長兄の山川大蔵(おおくら・浩)が父親代わりとなって育ちますが、その平穏な暮らしが一変するのが、あの会津戦争でした。

この時、兄の大蔵は「智恵山川 鬼佐川」と、あの佐川官兵衛(さがわかんべえ)と並び称される大活躍で、籠城戦を指揮した人物(8月29日参照>>)・・・妹の彼女も、わずか9歳ながら、弾薬運びや負傷兵の看護をしながらの籠城戦を経験します。

やがて、ご存知のように会津若松城は陥落(9月22日参照>>)、新政府から「朝敵(ちょうてき・国家の敵)のレッテルを貼られた会津藩は、斗南(となみ)と名を変え、極寒の下北へと移る事になります。

以前、【永岡久茂の思案橋事件】(10月29日参照>>)のところでも少し書かせていただきましたが、この下北への移住は、「会津流刑」=「藩ごと流刑にされた」と称されるくらい過酷な物で、もはや、代々家老の家柄も、一藩士も区別なく、皆が困窮を極めるという悲惨な状況でした。

山川家でも、飢えて死ぬ前に「末っ子のさきは里子に出そう」なんて話も出ていた明治四年(1871年)・・・またしても、彼女の人生が一変します。

その時、ちょうどアメリカ視察から帰国したばかりの北海道開拓使次官・黒田清隆(8月23日参照>>)は、その視察で、「次世代を荷う子供たちを優秀な人材に育てるためには、優秀な母親が必要である」という事を痛感し、このすぐあとに行われる岩倉具視(いわくらともみ)渡米使節団に、女子留学生の同行を提案・・・すぐに募集をかけたのです。

そうです。

彼女は、この女子留学生に応募して見事合格・・・というより、この時代に、かわいいわが子、まして女の子を遠く離れたアメリカへ行かせようなんて人は、そうそういるわけがなく、朝敵となって過酷な運命にあったからこそ、国費での留学に、その名誉挽回を懸けたとも言える応募でした。

この時、さき・12歳・・・家族は、「捨てたつもりで手放す末娘の帰りを待っている」という意味を込めて、彼女の名を「捨松」と改めさせて見送りました。

ちにみに、一緒に渡米した女子留学生には、後に津田塾大学となる英語塾を創設するあの津田梅子(11月12日参照>>)もいました。

やがて23歳で帰国するまでの11年間という一番多感な時期を、捨松はアメリカで過ごし、その感性は磨かれ、見る物聞くものを吸収する事となり、最終的には、学生総代の1人に選ばれるほどの優秀な成績でカレッジを卒業し、さらに最後の1年間で看護学校にも通って、看護婦免許まで取得します。

しかし、10代で結婚するのが当たり前だったこの時代・・・いざ帰国してみると、「もう行き遅れ」と呼ばれるうえに、ほとんど日本語も忘れ、立ち居振る舞いも西洋風になってしまっていた彼女は、好奇の目にさらされるだけで、その才能を発揮できるような職場もなく、留学時に抱いていた「女子教育の発展に努めたい」との希望は、見事に打ち砕かれてしまいます。

ところが、まもなく、そんな彼女に縁談が舞い込んできます。

・・・と言っても、いわゆるお見合い、あるいは親同士が決めたといった物ではなく、実に彼女らしい見事な恋愛結婚です。

ただ、周囲のお膳立て・・・というのはありました。

すでに行き遅れのレッテルが貼られた外国帰りの彼女を、やはり、ヨーロッパに留学の経験があり、「西洋かぶれ」と噂される男へ、何とかひき合わせようと、お互いの友人&関係者がダンドリを組んだのです。

それが、捨松と同じ女子留学生としてアメリカに渡った永井繁子結婚披露宴でした。

その披露宴で、友人の思惑通りに、見事、捨松に一目惚れしたのが大山巌(いわお)・・・薩摩藩出身で参議陸軍卿となっていた彼は、すでに3人の娘の父親でしたが、前妻を病気で亡くしていて、その亡き妻の父親が、子煩悩な彼に何とか良い後妻を・・・と願っていたのです。

しかし、そんな二人の結婚を、捨松の兄・大蔵は猛反対!

そう、薩摩藩だった巌は、あの会津籠城戦で薩摩砲隊を指揮していた人物(8月23日参照>>)・・・つまり、若松城に砲弾を撃ち込んだ張本人です。

さすがに「敵だから」とは言えないため、「ウチは賊軍の家臣なんで・・・」と丁重に断る山川家に対して、巌は「僕も賊軍の身内です」と・・・、実は、彼は、あの西郷隆盛の従兄弟です。

この時、すでに明治十五年(1882年)・・・あの西南戦争(1月30日参照>>)では、政府の一員として涙を呑んで、政府に弓引く西郷と戦った巌ですが、親戚である事には変わりありません。

やがて、断っても断っても、めげずにやって来る巌のあまりの熱心さに、徐々にかたくなな心をやわらげる山川家・・・結局、「本人(捨松)の気持ちによっては・・・」という事になり、この話は、そのまま捨松に伝えられます。

ここで、普通のお姫様&お譲様なら、父親代わりの兄の意見を聞き「お兄様がおっしゃるなら・・・」となるところですが、さすがの捨松は、そうは言いませんでした。

かの披露宴では、巌は捨松を見初めていましたが、捨松は気にもとめていなかったので、巌の事をほとんど知りません。

「知らない人との事を、どうこう決める事なんてできません!会ってお話してみないと・・・」と、なんと、彼女のほうから巌をデートに誘ったのです。

Ooyamasutematu500a 11年のブランクゆえ、未だ明治・日本のしきたりに収まりきれない捨松と、西洋のしきたりに精通してレディファーストも心得、親子ほども年の離れた包容力でガッチリと受け止める巌・・・鹿児島と福島という方言バリバリの二人は、英語で会話をし、またたく間に意気投合したと言います。

やがて捨松は、「家族がどんなに反対しても、私、あの人と結婚する~!」と友人に話すくらいに巌に夢中になります。

かくして明治十六年(1883年)11月8日、大山巌と山川捨松の婚儀が行われました。

しかし、この新婚ホヤホヤの彼と彼女には、もう一つ大きな仕事がありました。

それは、この20日後に、鳴り物入りで完成した鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)・・・日本という国を欧米に近づけ、何とか諸外国から一人前として認められたうえで、不平等な条約を改正しようと、張り切って完成させたばかりのこの鹿鳴館で、大山夫婦は披露宴を行うという大役をこなすのです。

こうして華やかな鹿鳴館デビューを飾った捨松は、その美貌と、アメリカ仕込みの立ち居振る舞いで、外国人からも認められる鹿鳴館の華となるのですが、彼女の人生は、このまま順風満帆とは言い難く・・・

・・・と、本日は、彼女のご命日なので、捨松さんの生涯という雰囲気で書こうと思っていましたが、記事が長くなってきましたので、基本、一話完結のこのブログでありますが、本日は前編とさせていただき、後編は明日書かせていただく事にします。

では、コチラからどうぞ>>
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

初めまして。ゆきと申します。
続きが楽しみでコメントしちゃいました(笑)

頑張って下さい。

投稿: ゆき | 2010年2月18日 (木) 08時34分

ゆきさん、はじめまして、

うれしいお言葉、ありがとうございますo(_ _)o

また、遊びに来てくださいね。

投稿: 茶々 | 2010年2月18日 (木) 20時57分

はじめまして。
織田信長の記事でこちらのブログにたどりつきましたが、なんと捨松さんの記事が!

昨日捨松さんのことを知りいろいろな記事を読んで、その生き方に感銘を受けてたばかりでした。

私は田舎が福島で、大学も捨松様が支援していたところなのでとても縁を感じました。

私も捨松さんが大河に選ばれることを
祈っていますね。

また捨松さんの記事を是非お願いします。

投稿: ぽっぽ | 2010年2月19日 (金) 23時52分

ぽっぽさん、こちらにもコメントありがとうございます。

そうですか。
出身地と大学が・・・
それは親しみを感じますね。

>昨日捨松さんの事を知り・・・

それは、やはりご命日だからお知りになったのでしょうか?
もし、たまたまだったら、それこそ運命を感じちゃいますね。

投稿: 茶々 | 2010年2月20日 (土) 01時35分

こちらにもお返事ありがとうございます。

捨松さんの命日だったんですね。
びっくりしました。

捨松さんのことは、NHKで同志社創立者の新島襄の妻、新島八重さんを特集していて、たまたまネットで同じ会津出身の女性として出ていて知りました。
会津出身の女性は賢く、気骨がありますね。

これからもブログ楽しみにしています♪

投稿: ぽっぽ | 2010年2月20日 (土) 13時34分

ぽっぽさん、こちらにも再度のコメントありがとうございました。

>NHKで・・・

アレ、私も拝見させていただきました。
新島八重さんも魅力的な人ですね。

やはり、会津という土地柄でしょうか・・・

また、お暇な時にお遊びに来てください。

投稿: 茶々 | 2010年2月21日 (日) 01時54分

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