王政復古・錦の御旗を作った玉松操の苦悩
明治五年(1872年)2月15日、幕末期の国学者で、岩倉具視の右腕として活躍した玉松操が、63歳でこの世を去りました。
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藤原北家の流れをくむ公家・阿野家の分家である山本家に生まれた玉松操(たままつみさお)・・・本名を山本真弘(まひろ)と言います。
京都は醍醐寺の僧となり、大僧都法院という位にまで上りますが、寺内で訴えた僧律の改革が受け入れられず、還俗(げんぞく・出家した人がもとの一般人に戻る事)して山本毅軒(きけん)と名乗り、さらに玉松操と称します。
・・・と言っても、おそらく、あまりお馴染みのお名前ではないと思います。
ただ、司馬遼太郎さんの『加茂の水』の主人公であるという事なので、知る人ぞ知る有名人ってトコでしょうか。
しかし、玉松さんの名前は知らなくとも、
あの【王政復古の大号令】(12月9日参照>>)の原文を考えた人・・・
あの【錦の御旗】(1月5日参照>>)のデザインを考えた人・・・
と、聞けば、が然、どんな人物だったのか、知りたくなってきますよね~。
・・・で、寺を出て、俗世間に戻った玉松さん・・・京都で、国学者の大国隆正(おおくにたかまさ)に学んだ後、私塾を開いて勤王の精神を説きます。
やがて、そこに通っていた弟子の1人から紹介されたのが、かの岩倉具視(いわくらともみ)・・・この出会いが彼の人生を大きく変えます。
幕末の動乱期、岩倉と行動をともにした玉松は、王政復古の勅(ちょく・天皇のお言葉)を起草する時に、その官職や制度のベースとなる物を、かの後醍醐天皇の建武の新政(6月6日参照>>)にではなく、初代・神武創業にするべきと岩倉にアドバイスし、自ら書き上げた格調高い文面は、居並ぶ公卿や大名のド肝を抜きました。
そして、何と言っても特筆すべきは、長州藩士の品川弥次郎との強力タッグでおこなった官軍プロモーション作戦!
先にも書かせていただいた、1月5日に鳥羽伏見の戦場にひるがえった【錦の御旗】>>・・・そのページにも書かせていただいたように、この錦の御旗は、官軍となった薩長軍の士気を高め、賊軍となった幕府を落ち込ませました。
もちろん、戦場に錦旗がかかげられる事の効果を充分に理解しての事です。
・・・で、おもしろいのは、この錦の御旗・・・
あの後鳥羽上皇が起こした承久の乱(5月14日参照>>)や、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとした時にかかげられた記録があり(4月8日参照>>)、もちろん、自軍が天皇の軍である事を、仲間に、そして敵に知らしめる、いわゆる宣伝効果を狙ったものですが、実は、上記の記録はあるものの、そのデザインがわからなかったため、玉松がデザインした、現在に伝わる菊の花をあしらった物を3ヶ月ほど前から準備し、薩長軍の切り札として、ギリ、鳥羽伏見に間に合わせたわけです。
玉松のデザインした錦の御旗は、かの品川弥次郎が作詞、大村益次郎が作曲(祇園の芸者さんに頼んだとも)したと言われる♪トコトンヤレ節♪を奏でながら進む、東征大総督の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の隊列の先頭にひるがえり、進軍ルートに集まった庶民を歓喜の渦に巻き込みながら、威風堂々の行軍を続け、ほぼ、戦う事なく、江戸にまで到着しています。
♪宮さん 宮さん 御馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ 知らないか
トコトンヤレナ ♪
(有名なこの歌詞は2番です)
道を行く東征軍は、♪トコトンヤレ節♪の歌詞を書いたビラをばら撒きながら、「徳川の政治に不満のある者は本陣へ来い!」と呼びかける・・・テレビやラジオの無い時代に、それは、ものスゴイ宣伝効果だった事でしょう。
しかし、ここで、ちょっと気になる事があります。
以前、光格天皇の御所千度参り(11月18日参照>>)ところでも、チョコッと書かせていただきましたが、確かに江戸時代は、天皇家は幕府に無断で何かをする事は禁止されていましたから、そのような制約から解放される事は望んでおられたかも知れませんが、はたして、宮中で、姫君のようにお育ちになった、少年・明治天皇(11月3日参照>>)が、薩長がめざした維新の理想を、同じく理想とされていたかどうかというのは微妙なところではあります。
もちろん、そのお心の内は、ご本人にしかわかりませんが、皇子から武人への明治天皇の変貌は、順応な精神をお持ちの明治天皇だから成しえる事ができましたが、もし、他のかただったら、こうはうまくいかなかったかも知れません。
そうです。
この維新のシナリオは、明らかに薩長など新政府軍の考えたシナリオで、いわゆる天皇の政治利用・・・上記の錦の御旗や♪トコトンヤレ節♪は、完全に天皇を前面に推しだした宣伝効果を狙った新政府軍の、良くも悪くも策略なわけです。
そこのところが、国学者の玉松には、何か引っかかる物があったのかも知れません。
これだけ協力を惜しまなかった岩倉と、維新後は袂を分かつ事になります。
西洋に追いつけ追い越せとばかりに、欧米化主義を採用した新政府に対して、大学寮(漢学所)を国学中心の大学官(皇学所)を統合する事を求めたり、政府の方針に逆行する保守的な立場を取るようになります。
もちろん、そうなると、文明開化をめざす政府内に、その居場所はなくなり、政策とは離れて皇国学を指導する立場となりますが、結局、東京には居場所がなく、京都に戻ってまもなくの明治五年(1872年)2月15日、病に倒れ、63歳の生涯を終えました。
その生涯、ドップリと国学に浸っていた玉松にとって、倒幕はあっても(こんな)維新は無かった・・・という事なのでしょうか?
岩倉とともにめざした新しい世の中が、自分の描いていたビジョンとは違っていた・・・王政復古&錦の御旗という、維新屈指の名案を残した玉松にとって、その振り返った人生は、いかなる物だったのでしょうか?
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