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2010年2月14日 (日)

尾張藩主・徳川吉通の生母・本寿院のご乱行

 

元文四年(1739年)2月14日、第4代尾張藩主・徳川吉通の生母・本寿院が75歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・

本寿院(ほんじゅいん)さんと聞くと、2008年大河ドラマ「篤姫」高畑さんを思い出してしまいますが、今回の本寿院さんは、第3代尾張藩主徳川綱誠(つななり)さんの側室となって、第4代藩主・徳川吉通(よしみち)さんをお産みあそばした本寿院さんです。

Siro120 ・・・と、「第3代も第4代も、よく知らないのに、その嫁とか母とかって言われても・・・」と、お思いでしょうが、ご安心下さい、私も綱誠さん・吉通さん・・・よく知りません。

知っているのは、以前、このブログでご紹介した、あの暴れん坊の8代将軍・徳川吉宗に刃向かった第7代尾張藩主・徳川宗春(10月8日参照>>)さんのお父さんが綱誠さん・・・つまり、宗春さんは吉通さんの異母弟という事くらいです。

おふたりの事に関しては、おいおい勉強させていただく事にして、本日の主役の本寿院さん・・・知る人ぞ知る有名人なのですが、実は、あまりよろしくない、ご乱行で有名な方なのです。

もともとは、尾張藩同心の坂崎勧右衛門の娘(異説あり)で、お福というお名前だったそうですが、それが、もう、メチャメチャな美人・・・で、それを見初めた綱誠さんが、身分が低いのも気にせず側室に迎えたわけです。

そんな彼女が夫(つまり綱誠さん)を亡くしたのは、まだ35歳の時・・・当然ながら、髪を落として本寿院と号し、その後は夫の菩提を弔いながら、静かな余生を送るのが、武家のならわしであったわけですが、彼女は、ちょっと違っていました。

彼女が産んだ息子=吉通が、第4代尾張藩主となった事で、江戸藩邸に住み、藩主の生母として絶大な権力を握り、その自由を謳歌する事になったのです。

尾張藩御畳奉行を務めていた朝日文左衛門重章(さひぶんざえもんじげあき)という人の日記=『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)によれば・・・

「本寿院様 貪欲絶倫・・・御気に入れば誰によらず召して婬戯す」

ひぇ~!!Σ(`0´*)
「婬=みだら」「戯=たわむれ」あそばす・・・。

寺社詣でに行けば、一泊どまりで坊さんと・・・
芝居見物に行けば、当然、役者と・・・

町人・芸人・相撲取り・・・ありとあらゆる男性を相手に・・・もちろん外でだけでなく、屋敷に呼んで・・・ってのもアリです。

しかも「御金を拝領すること山の如し」・・・って事は、相手の殿方にお金を渡していたと・・・

さらに、彼女を常々診察していた医者にまで恋文を送りますが、これまで、何度も、誰の子供かわらない堕胎の手術をさせられていた彼は、恐ろしさのあまり転職した、なんて話も・・・

これだけでも、藩主の母たる人がなんと言うご乱行を・・・となるのですが、さらに『趨庭雑話(すうていざつわ)という書物には、尾張から新たに江戸藩邸勤務になった藩士のチェックもしていたのだとか・・・

新人を湯殿に呼んで、裸にし、モノの大小をチェック・・・
もちろん、気に入ったイケメンがいたら、
その場でア・ジ・ミ・・・Σ( ̄ロ ̄lll)

これだけのご乱行を、一藩士が書き残しているとなると、相当、藩内でも噂になっていたのでしょうが、やはり、藩主の生母という事で、誰も注意できなかったんでしょうかね?

・・・とは、言え、さすがに藩内だけの噂なら、隠し通せましたが、いつしか、これらのご乱行が幕府の知るところとなり、とうとう、本寿院さん・・・年貢の納め時がやってきます。

宝永二年(1705年)6月・・・41歳の彼女は蟄居(ちっきょ・自宅の一室で謹慎)を命じられ、しばらく幽閉された後、名古屋へと送られ、城下の御下(おした)屋敷に閉じ込められてしまいます。

その後、元文四年(1739年)2月14日75歳で亡くなるまで、34年間に渡る幽閉生活という淋しい余生を送る事になります。

・・・と、一般的に言われている通りの事を書かせていただきましたが、先日書かせていただいた【平安の好色一代男・花山天皇】(2月8日参照>>)しかり、江戸を通じての最大の大奥スキャンダル【絵島事件】(3月5日参照>>)しかり・・・この手の話には、どーも、ウラがありそうに思えてなりません。

もともと『趨庭雑話』などは、人から聞いた話をおもしろおかしく書くゴシップ本のような物ですから、あの新人チェックの一件も、どこまで信用できる物かわかりませんし、『鸚鵡籠中記』には、「藩主の吉通が大酒飲みでヒドイ」てな事や、重臣を批判するような事も書かれている・・・

そうです。

藩主の生母という立場でおわかりのように、本寿院さんには、かなりの発言権があった・・・どうやら、彼女は、藩政にも口を挟める立場にあり、そのあたりも積極的にこなしていた人のようなのです。

ひょっとして、彼女のご乱行の噂を流した人、それを書き残した人たちが、吉通さん母子と、その取り巻きを排除したいと思っていた人たちだとしたら・・・

ただ、残念ながら、今のところ、これに対抗できるような文献は発見されていません。

なので、彼女のご乱行は、おそらく本当というのが定説・・・しかし、万が一、それが事実無根の濡れ衣なのだとしたら、いつか、彼女の汚名は晴らされる日が来る事を願ってやみません。

34年間の幽閉生活の中、あまりの寂しさに、彼女は、屋敷の庭の大木によじ登り、奇声を発していた・・・なんて事を聞くと、ついつい、本寿院さんの味方をしてしまう私です。
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コメント

茶々さん、こんばんは。

遅れて申し訳ありません。
4周年あおめでとうございます。
これからも楽しみにしてます。

今回の内容で気がついたのですが。

大奥の時もそうですが、
何か大事件があるときは必ず
昔でいう高貴の方以外の人が
絡んでますね。

どこかの姫や公家が大奥は正義で
それ以外は悪という構図ができている気がします。

これは、話が作られているのか、
または高貴の方以外の人が有頂天になった結果なのか
よくわからないですね。

投稿: シンリュウ | 2010年2月14日 (日) 19時36分

シンリュウさん、ありがとうございますo(_ _)o

ホント、よくわからないですね~
不遇な半生を送った人が、急に権力を握った時に、ご乱行に走っちゃう場合もありますから・・・

かと、言って、政治的なウラがある場合もありますしね~~

投稿: 茶々 | 2010年2月14日 (日) 21時31分

『趨庭雑話』って昔あった「噂の真相」みたいなやつかな。ホントにしたたかな悪女だったら絶対もっとうまくやって周りにばれないよう、あるいはばれても突っつかれないよううまく立ち回ると思います。ここまでおおぴっらに、あからさまに、やりたいほうだいってかえって信憑性に欠ける気もしますね。今もそうだけど週刊誌の記事をうのみにするのって間違ってると思うけど活字の威力はすごいからほとんどの人が「へぇ~そうなんだ」って信じてしまいません?

投稿: Hiromin | 2010年2月14日 (日) 21時37分

Hirominさん、こんばんは~

>ホントにしたたかな悪女だったら絶対もっとうまくやって・・・

それも言えますね。
バレたらヤバイ事くらい、誰でもわかりますもんね。

でも、確かに、活字の威力はスゴイです。

投稿: 茶々 | 2010年2月14日 (日) 23時04分

本寿院の一件は8代将軍就任の話と関係があるとも思うんですよね。吉通は有望株として知られていた6代家宣は自身の後継に考えていた位ですから。8代将軍を目前に急死してしまう、そしてその子供五郎太も死亡し吉通の異母弟に尾張藩主の座は動いていく。結局は将軍は吉宗に取られる、藩内では吉通側近が継友そして宗春側近にかわっていく。当然本寿院はそれに反発するだろう。だからこその淫乱風説流しではなかったか。いかがでしょうか。

投稿: 石頭堅朗 | 2010年2月21日 (日) 20時25分

石頭堅朗さん、こちたにもコメントありがとうございます。

やっぱり、その件でしょうね~
とにかく、敵対する側の印象を悪く・・・という感じが溢れてる気がします。

投稿: 茶々 | 2010年2月21日 (日) 22時06分

それはどうでしょうね。鸚鵡籠中記がただのデマならわざわざ藩の資料庫に二百数十年も保管するのは不自然です。既に断絶した一藩士の日記などごみ扱いして焼き捨てるでしょう。
それに百歩譲って吉通が毒殺としましょう。吉宗よりももっと吉通が死んだら喜ぶ人物がいるのを忘れていませんか?

投稿: 特命希望 | 2010年3月30日 (火) 18時58分

特命希望さん、こんばんは~

謎が謎呼び、ますます推理が楽しくなりそうですね。

投稿: 茶々 | 2010年3月30日 (火) 22時15分

こんばんは 茶々さん

まるで 成人コミックを地でいくような 男ぐ〇い・・・。
でも 彼女の評判を落とすためのデマの可能性もありますから 何とも言えないところ。

>新人を湯殿に呼んで、裸にし、モノの大小をチェック・・・
もちろん、気に入ったイケメンがいたら、
その場でア・ジ・ミ・・・Σ( ̄ロ ̄lll)
ヤボな内容を書きますが  ”アジミ”くらい 許してやれ!ってなトコです。

>これまで、何度も、誰の子供かわらない堕胎の手術をさせられていた彼は、恐ろしさのあまり転職した、なんて話も・・・
生まれてくる命に罪はないのに・・・
相手した男どもも 責任として 本寿院と肉体の喜びを共にしたを間男のプライドにかけて 生まれてくる子供たちは 間男仲間同士で協力しあって育てようよぉ~

元凶である 本寿院母さんも 一夫多妻の逆の一妻多夫でも 大黒柱として 母の責任を務めないとね・・。

(・・・って 何の話じゃぁ~)

投稿: zebra | 2017年11月16日 (木) 00時06分

zebraさん、こんばんは~

これが殿様なら、大奥に何人ものお手つきがいて、産めよ増やせよの花盛りとなるでしょうから、男女の差は激しいですよね?
ま、どこまで本当かわからないし、仕方ない事ですが…

投稿: 茶々 | 2017年11月16日 (木) 00時23分

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