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2010年2月 8日 (月)

平安の好色一代男~花山天皇の奇行の裏に

 

寛弘五年(1008年)2月8日、第65代・花山天皇が崩御されました

・・・・・・・・・・

まさに平安華やかなりし頃、浮名を流しまくり、スキャンダル発覚しまくりの第65代花山(かざん)天皇・・・

伯父にあたる円融(えんゆう)天皇が第64代天皇として即位した時に、わずか生後10ヶ月で皇太子に任命されていた師貞(もろさだ)親王・・・その親王が円融天皇の退位を受けて、第65代花山天皇として即位したのは、17歳の時でした。

女の子の場合は「鬼も十八 番茶も出花」なんて言葉がありますが、男の子の場合はなんて言うんだろう???

「男ざかり」・・・なんて言うのは、もう少し年齢が上ですし、その意味も、仕事をバリバリこなすといった雰囲気ですから、ちょと違う・・・

とにかく、17歳の花山天皇・・・「女」という文字を書いただけでも反応しちゃうほどの世代だったわけで・・

なんと即位式の最中に、かいがいしく式典の準備をこなす下級の女官に一目ぼれ・・・そのまま高御座(たかみくら)高御座については本家HPの京都御所公開のページへ>>>別窓で開きます)の中に引っ張り込んで、その場で一発・・・もとい、その場でおあそばしたくらい血気盛んなお年頃だったのです。

いや、花山天皇の場合は、血気盛んなお年頃では済まないほど長期に渡っての女性スキャンダル・・・どこそこのお屋敷にカワイ娘ちゃんいると聞けば恋文を渡し、誰それの奥さんが美人だと聞けばチョッカイを出し・・・

てな事をやりながらも、即位と同時に入内した皇后・怟子(しし・よしこ)を愛し、寝ても冷めてもラブラブ状態ながら、翌年、彼女がお腹に赤ちゃんを宿したまま亡くなってしまうと、突然家出をして行方不明となり、即日出家という一大事を起してしまいます。

そのため、わずか2年で退位して従兄弟の第66代一条天皇に皇位を譲って法皇となり、仏道修行に励んだにも関わらず、欲求はさらに噴出しまくり・・・

母方の叔母に手を出したかと思えば、すぐに飽きて弟へ譲り、乳母子の中務を妊娠させてる間に、その娘も妊娠・・・巷では、その皇子たちは「母腹宮」「女(むすめ)腹宮」なんて呼ばれたってな話も・・・

そして、とうとう長徳二年(996年)には、内大臣・藤原伊周(これちか)に、衣の袖を矢で射られるという殺人未遂され事件も引き起こしてしまいます。

実は、伊周さん・・・この頃、今は亡き太政大臣・藤原為光(ためみつ)の娘にゾッコンで、じばしば屋敷に通っていたのですが、その屋敷に花山法皇も通っている事を知り、
「出た!好色一代男!俺の女に何すんねん!」
とばかりに、弟の隆家とともに従者を連れて、彼を襲撃したのです。

が、しかし、これは伊周の勘違い・・・花山法皇が狙っていたのは、同じ屋敷に住む妹のほうでした。

さすがに、襲われた花山法皇のほうもバツが悪いので、この話は示談・・・いや、内密に済ましていたのですが、法皇襲撃なんて一大事がバレないわけもなく、結局、伊周と隆家の二人は流罪となってしまいました。(1月16日参照>>)

そんなこんなの女性スキャンダルに始まり、例の即位式では、「冠が重い!(`Д´)/」と言って怒ったり、狭い清涼殿の庭で馬を乗り回して周囲を困らせたりの奇行が目立ったという花山天皇・・・

Kazantennou500as ゆえに、わずか2年の在位となったとも言われますが、一方では、花山天皇は、和歌や絵画・建築・工芸などに非凡な才能を発揮し、彼が仏道修行中に巡礼した場所は、今も西国三十三箇所巡礼として継承されるくらいの法力を身につけたとも言われます。

いったい、どっち???

現存する文献のほとんどには、花山天皇のスキャンダラスな奇行が書かれていますので、あくまで推論ですが、花山天皇の奇行には、彼が、そうせざるをえなかった、ドロドロした政権争奪戦があった事も確かなのです。

以前書かせていただいた藤原良房(よしふさ)基経(もとつね・養子)父子・・・臣下として初めて摂政&関白をいう地位をゲットした藤原北家の生き残りの彼ら・・・(8月19日参照>>)

あの藤原不比等(ふひと)の4人の息子による北家南家式家京家の4家による政権争奪戦に勝ち残った北家の彼らが、この先、平安の政権を独占する事になるのですが、そうなると起こるのは・・・そう、今度は、その北家内での兄弟による骨肉の争いです。

先の基経の息子・藤原忠平が摂政・関白を務めていた頃の天皇は第61代朱雀(すざく)天皇・・・地方で平将門の乱(11月21日参照>>)藤原純友の乱(12月26日参照>>)があった時代ですが、朱雀天皇と忠平の関係はうまくいっていました。

その忠平の息子が左右大臣の兄・実頼(さねより)と弟・師輔(もろすけ)・・・この頃には朱雀天皇の弟・村上天皇が、第62代天皇として関白や太政大臣を置かず天皇自らが政治を行う親政をやっていましたが、とりあえず左右大臣という高位置をキープしているのでOK!・・・

しかし、ここで、村上天皇が師輔の娘・安子(あんし・やすこ)を皇后にして、二人の間に生まれた皇子を皇太子にしたために、兄より弟の師輔がやや権力を握るようになります。

その皇太子が、第63代冷泉(れいぜい)天皇として即位しますが、この天皇が病弱だった(そのワリには62歳まで生きてる)事と、その兄弟のちょっとした亀裂につけこんで、源高明(たかあきら)が冷泉天皇の弟・為平(ためひら)親王を擁立しようとしたとして失脚安和の変・3月25日参照>>)・・・そのどさくさで冷泉天皇は、わずか2年で退位させられ、まだ11歳の弟・守平(もりひら)親王が第64代・円融天皇として即位します。

ややこしいですが、とにかく、はっきり言って藤原の兄弟の強い弱いで天皇が決まってる感のする交代劇である事は、うすうすおわかりいただけると思います。

・・・で、冒頭に書かせていただいたように、この円融天皇が即位した時に、皇太子となったのが、本日の主役の花山天皇なわけですが、この頃は、先の師輔の息子・伊尹(これただ)兼通(かねみち)兼家(かねいえ)の藤原三兄弟が、権力を握っていたわけで、もちろん、この花山天皇の皇太子もその外戚(母方の父)伊尹の後押しありきです。

しかし、この円融天皇の在位中に伊尹は亡くなり、弟の兼通・兼家の間で争うように娘を円融天皇のもとに入内させ、子供ができたのが兼家の娘の方で・・・。

さらに兼通もその娘も亡くなって、こうなったら、早い事、自分の娘の生んだ子供を天皇にしたくてたまらないのが、最後に生き残った弟・兼家・・・って事になります。

しかし、この時は、すでに皇太子に師貞親王=花山天皇が決まっていますから、とりあえず円融天皇に退位してもらって花山天皇の即位となったわけですが、花山天皇の外戚の伊尹は、すでに亡くなっているわけですから・・・

そうです。

花山天皇が即位した時点で、すでに一番権力を握っている兼家は、自分の孫を天皇にしたくてたまらなかったって事になります。

・・・で、その即位から2年後の寛和二年(986年)6月23日、愛する怟子さんを亡くして落ち込む花山天皇に、兼家の三男・道兼(みちかね)が囁きかけます。

「お気の毒に・・・悲しいでしょう。僕が一緒に出家しますので、ともに寺へ行きませんか?」

傷心の花山天皇は、やさしくしてくれた道兼にすっかり心を許し、天皇の証しである三種の神器を皇太子の懐仁(やすひと)親王に預けて、道兼に導かれるまま宮殿を脱出し、一路、元慶寺(げんぎょうじ・花山寺)へ・・・即日出家してしまいます。

ところが、寺に着いてまもなく、「さすがに無断では問題になるので、父の兼家に事情を説明して来ます」と、去って行った道兼は、待てど暮らせど戻っては来ない・・・

「騙された!(≧ヘ≦)
と気づいた花山天皇ですが、もはや、あとの祭り・・・これが、先に書いた花山天皇出家事件の真相のようです。

次期天皇は、その懐仁親王が第66代一条天皇として即位します・・・もちろん、この一条天皇が兼家の孫です。

さらに、花山天皇排除の功労者=道兼は、ちゃっかり関白に・・・

ただ、まもなく亡くなったので、その後は、この道兼の弟が実権を握る事になります。

その弟こそが、あの望月が欠ける事もない幸せを謳歌する藤原道長です。

ひょっとして花山天皇の奇行は、藤原氏に作られた物なのかも・・・

もし、本当に数々のスキャンダルを起していたとしても、花山天皇の気持ちもわからんではない・・・確かに、だからと言って、女遊びや奇行に走ってイイってわけじゃありませんが、ちょっとだけ、お気の毒な気がしてしまいます。
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コメント

花山天皇!!
茶々さまが薄々感じていらっしゃるのと同じく!?私にはそう悪いイメージないんですよね~^^

徳道上人が畿内に霊場をお造りになり、花山天皇の頃にはもう誰もお詣りする人がいなくなってった「西国三十三観音霊場」を再興なさった~お方ですよね!!
三十三観音に番外の三ヶ所を加えた!?のは何故?等~最近ようやく仏閣・法仏にも興味が出てきたものだら…いろいろ検索しまわしている私です^^;

てな訳で相変わらず茶々さまの資料!?大いに参考にさせていただいておりまする^^感謝!

投稿: tonton | 2016年10月12日 (水) 21時00分

tontonさん、こんばんは~

おっしゃる通り、花山天皇は時の権力者からは「早く席を譲ってほしい」と思われていた天皇様でしょうから、記録に残るそのお姿も歪められている可能性大ですよね。

投稿: 茶々 | 2016年10月13日 (木) 01時37分

ブログ読ませていただきました。
花山天皇の生まれ変わりの方が突如現れたので、色々検索して、こちらに辿り着きました。
すごく分かりやすく説明されてあって、良く分かりました。
ありがとうございます。

投稿: ジゼル | 2018年1月26日 (金) 21時53分

ジゼルさん、こんばんは~

ここ最近、このページへのアクセスが多いと思ったら、そういう事だったのですね。
謎が解けましたm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2018年1月27日 (土) 02時40分

来年の大河ドラマでは本郷奏多くんですね。
番組予告に足の指に扇をつまむ場面が出ていますが、なかなか器用な芸当ですね。さすがに花山天皇御当人が実際にはしていないと思います。

来年の大河ドラマは「藤原姓」の登場人物が数えてみたら、男女通じて30人ほどいるのでなんともややこしい。

投稿: えびすこ | 2023年12月28日 (木) 09時48分

えびすこさん、こんばんは~

来年は、味方の藤原と敵の藤原が入り乱れてややこしそうですw

投稿: 茶々 | 2023年12月29日 (金) 04時22分

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