昭和の歌王~斉藤茂吉の強烈ラブレター攻撃
昭和二十八年(1953年)2月25日、大正から昭和にかけて、短歌同人誌『アララギ』の中心人物として活躍した歌人で医者でもある斉藤茂吉が70歳で亡くなりました。
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明治十五年(1882年)、山形県に住む守谷伝衛門熊次郎という人物の三男として生まれた斉藤茂吉(もきち)でしたが、守谷家は、彼が小学校を卒業しても、その先へは進学できないほどの経済状態でした。
やむなく、そのままお寺に弟子入りする予定であった茂吉少年は、親戚の医師・斉藤紀一の養子となって、東京開成中学校に入学・・・
その後、正則英語学校を卒業した後、第一高等学校(現在の東京大学教育学部)に入学します・・・!!(゚ロ゚屮)屮優秀だったんですね~
その頃、正岡子規(まさおかしき)の『竹の里歌』に出会い、短歌を志すようになります。
やがて、歌人で小説家でもあった伊藤左千夫(さちお)の門下生となるかたわら、東京帝国大学医科大学(東京大学医学部)を卒業し、巣鴨病院に勤務しながら、短歌同人誌『アララギ』を主宰したのです。
さらに、大正三年(1914年)の32歳の時、養父・紀一の娘であった13歳年下の輝子と結婚した後、長崎医学専門学校(長崎大学医学部)に入って、ヨーロッパ留学して、帰国後は焼失した青山脳病院を復興し、昭和二年(1927年)には、45歳でその青山脳院の院長となります。
この間、歌の方でも、『赤光(しゃっこう)』『あらたま』などの歌集を世に送り出し、歌の道でも医学の道でも、燦然たる地位を獲得した茂吉さん。
・・・と、まじめで家庭的で、順風満帆の申し分な人生を謳歌していた茂吉さんでしたが、51歳になった昭和八年(1933年)、そんな人生を一変させる大事件が起こってしまいます。
事の発端は、若い男性のダンス教師が、上流階級のマダムたちを集めて主催していたダンス教室・・・
手取り足取り、ダンスを教えていたまでは良かったのですが、生徒である、そのマダムたちと不倫の関係を築き、金銭的な援助を受けていた事が発覚・・・逮捕された男性教師の口から、次々と、そのターゲットとなったマダムたちの名前が挙がり、この時代ですから、不貞を行った有閑マダムとして、マスコミの格好の話題となります。
そうです。
この不倫していたマダムの中に、茂吉の奥さん・輝子さんの名前が・・・
茂吉=ショ~ック!((゚゚дд゚゚ ))
もちろん、輝子は「事実ではありません!」と否定しますが、まじめ一筋で生きてきた茂吉は、もはや彼女を信じる事ができません。
結局、心臓に異常をきたし、倒れてしまうまでに・・・やむなく、二人は別居状態に・・・
とは、言え、離婚はしていません。
一応、婿養子なので、気をつかったのかしら?
それとも、まじめに、奥さんの事が大好きだからこそショックだったのかしら?
しかし、その翌年・・・早くも、2度目の茂吉さんの、大転換期が訪れます。
彼が尊敬してやまない正岡子規の33回忌の歌会で、『アララギ』の会員だった永井ふさ子という女性と知り合います。
彼女は、まだ、うら若き24歳・・・しかも、メッチャ美人!
ふさ子に一目ぼれした茂吉は、今や1人暮らしとなった自宅に彼女を招いて、親切丁寧に歌の指導・・・彼女も、『アララギ』の会員なのですから、茂吉のファンならずとも、嫌いなわきゃないわけので、喜んで指導を受けに来ます。
やがて、茂吉の猛烈アピールに、彼女もノックアウト・・・二人は、男女の関係になります。
75歳で25歳の女性をゲットした一休さん(11月30日参照>>)しかり・・・
70歳で30歳の女性にラブソングを贈り続けた良寛さん(1月6日参照>>)しかり・・・
まじめに生きてきた人ほど、こういう時には燃え上がるものです。
「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか」
「あなたの電話の声は実に懐かしい。かぶりつきたいような声です」
こんなキョーレツなラブレターを、書きも書いたり150通以上・・・
さらに、恋しさのあまり、彼の思いはラブレターだけではおさまりませんでした。
一緒にいる時は、良いのですが、彼女が、自分の知らない所で、別行動をとっている事が心配で心配でたまらない茂吉は、そんな日は、彼女の自宅の前で待ち伏せ・・・一日の行動を事細かく聞いたりなんぞします。
あまりの嫉妬深さ・・・てか、ストーカーまがいの行為に怖くなったふさ子は、故郷に戻ってお見合いをし、別の男性との結婚を決意します。
ところが、茂吉さん・・・
自分は離婚する気がないので、彼女の結婚に反対はしないものの、今度は・・
「そのカレとは、今日どんな事をした」
「カレとのキスはどうだったか」
など、二人の様子を、いちいち手紙で聞いてくる始末・・・
これで、精神的苦痛を味わったふさ子は、とうとう寝込んでしまい、結局、結婚も破談になってしまいます。
しかし、これだけ熱烈にふさ子さんを愛していたにも関わらず、やはり、最後まで離婚しなかった茂吉さん・・・よくわからない人です。
太平洋戦争が終った昭和二十年(1945年)頃からは、病院の院長も辞職し、病気にもなった事で、以前のような強烈感はなくなりますが、歌の事がわかる人に言わせると、その凄まじい恋愛感も、病床の孤独感も、見事に歌に生かされているのだとか・・・
本職の医学のみならず、その生涯において、17冊の歌集を発表し、17907種もの歌を詠み、柿本人麻呂や源実朝らの研究にもすばらしい成果を残した斉藤茂吉・・・天才とは、凡人には、よくわからないものなのかも知れません。
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