近江佐和山城~石田三成から井伊直政へ…
慶長六年(1601年)2月1日、徳川家康が、井伊直政に近江佐和山城への国替えを命じました。
・・・・・・・
慶長六年(1601年)2月1日・・・そう、あの関ヶ原の合戦の軍功による恩賞と言うべき国替えです。
徳川四天王の1人に数えられる井伊直政は、関ヶ原では、敵中突破で背進する島津隊を追って、負傷しながらの大活躍・・・(9月16日参照>>)
その後、小早川秀秋ら寝返り組を中心に編成された東軍で、関ヶ原の西軍の中心人物であった石田三成の居城・佐和山城を攻め落とします(9月17日参照>>)。
そして、戦後・・・古来より畿内の守りの要所だった、この佐和山を直政に与えたというわけです。
この佐和山がいかに重要であったかは、その歴史を見ればわかります。
古くは鎌倉時代の初期・・・近江源氏・佐々木定綱の六男・時綱がここに館を構えます。
その後、佐々木氏が湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立した事で、佐和山は、その境界線となり、ここを舞台に数々の攻防戦が繰りひろげられるのです。
やがて、戦国時代になると、京極氏に代わって浅井氏が湖北の実権を握るようになりますが、やはり、浅井と六角の攻防戦でも、ここは重要拠点とされています。
その後、織田信長の攻めによって浅井長政が倒されてから(8月27日参照>>)、この佐和山城を守るのは丹羽長秀となります(2月24日参照>>)。
信長が、重臣・長秀を・・・聞いただけでも、ここが、信長の時代でも重要であった事が感じとれます。
さらに、信長の後に天下を掌握した豊臣秀吉も、最も信頼のおける石田三成を佐和山城主としたのですから・・・。
戦国時代に大物が城主となった事で、佐々木氏の頃は館程度だったこの佐和山城は、しだいに整備されていき、三成の頃には、山上に本丸を持ち、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などの建物が連なる壮大な物となっていました。
東山道に面して大手を開き、二重に形成された堀の内には武家屋敷が並び、三成の善政によって城下町も発展していました。
堅固で壮大な外観のわりには、城の内部の調度品などが質素だったという事は、昨年の天地人がらみでお話させていただきましたが(9月7日参照>>)、結局、関ヶ原から逃亡した三成は、この城に戻る事なく捕縛され、留守を守っていた父・正継や兄・正澄以下、2800名余りの家臣たちが、落城とともに命を落しました。
そして合戦後に、この佐和山城を与えられのが直政・・・で、上野国(群馬県)高崎城から移転して佐和山に入城した直政でしたが、そのわずか1年後、関ヶ原の傷がもとで、帰らぬ人となります(2008年2月1日参照>>)。
そのご命日が、なんと慶長七年(1602年)2月1日・・・まさに、ぴったりの1年後に、なにか因縁めいた物を感じないでもありませんが、そんな事を考えるのは昔も今も同じ・・・やはり、ありました!怨霊・三成の噂・・・
佐和山に入った井伊の家臣たちは、この城で討死した三成の家臣や女性の霊に悩まされ続けたそうですが、その真偽はともかく、直政の死後、彼から今後の事を頼まれていた家老・木俣守勝(きまたもりかつ)によって、徳川家康に城の移転が打診され、佐和山の西方2kimのところにある小ぶりな山・彦根山に新たな城を築く事になります。
それが、彦根城です(11月14日参照>>)。
・・・とは、言え、実際の移転理由は、怨霊というよりも、時代の変化による物であったでしょう。
冒頭に書かせていただいたように、佐和山城は中世の典型的な山城・・・個人戦に近かった合戦の様相は、もはや大量の足軽を投じての団体戦となり、鉄砲や大砲を駆使して行う物に変わりつつある中、険しい山の上に建てられた複雑な城よりも、壮大な城郭を持つ要塞としての城を、時代は必要としていたのかも知れません。
もちろん、その時代の変化は、豊臣から徳川へと移る時代の変化でもありました。
彦根城の建築材料とするためか、徹底的に破壊された佐和山城には、現在は、わずかな石垣が残るだけ・・・草木が生い茂る状態となり、ファンにとっては、戦国の栄枯盛衰を感じさせてくれる恰好の場所となっています。
そう・・・いくら、最近は、三成が人気だからと言っても、佐和山には、煌びやかな模擬天守は建ててほしくないかも・・・三成には、この雰囲気がふさわしいと個人的には思います。
歴史の波に飲み込まれて永遠の眠りについた佐和山城は、三成の思いとともに、このまま静かに眠っていていただくのが良いのではないかと思います。
★彦根城&佐和山城に行った時のお話は10月6日のページでどうぞ>>
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コメント
こんにちわ~、茶々様。
>三成の思いとともに、このまま静かに眠っていていただくのが良いのではないかと思います
今日も美しく切なくまとめられて、読んでいる私も豊臣家を第一に考え奔走した三成の姿がよみがえってきました。
今日も感謝です。
投稿: DAI | 2010年2月 1日 (月) 13時14分
DAIさん、こんにちは~
同じ城址でも、安土城は拝観料がいるぶん、石垣や礎石がキレイに保存・整備されていましたが、佐和山城は草もボーボーで・・・
でも、なんだか、その方が三成らしい気がしました。
投稿: 茶々 | 2010年2月 1日 (月) 14時52分
来年の「江 姫たちの戦国」では、石田から井伊への「領主交代劇」がどう描かれるか見ものです。井伊は石田三成をかなり嫌っていたらしいです。
ちなみに浅井家は石田家と敵対関係でした。
1602年に死んだ人は他に小早川秀秋と家康の実母がいます。家康の母親の方は老衰だと思いますが、青年の小早川と壮年の井伊の急逝に、さすがの家康も背筋が寒くなったと察します。立て続けに「縁者」が死ぬと、誰しも恐怖心を感じますよね。
投稿: えびすこ | 2010年2月 1日 (月) 18時38分
来年の「江 姫たちの戦国」では、石田から井伊への「領主交代劇」がどう描かれるか見ものです。井伊は石田三成をかなり嫌っていたらしいです。
ちなみに浅井家は石田家と敵対関係でした。
1602年に死んだ人は他に小早川秀秋と家康の実母がいます。家康の母親の方は老衰だと思いますが、青年の小早川と壮年の井伊の急逝に、さすがの家康も背筋が寒くなったと察します。立て続けに「縁者」が死ぬと、誰しも恐怖心を感じますよね。
投稿: えびすこ | 2010年2月 1日 (月) 18時38分
えびすこさん、こんばんは~
>浅井家は石田家と敵対関係でした
そうなんですか?
淀殿は、けっこう三成を頼ってったのかと思ってましたが・・・
関ヶ原後は、まさに時代の転換期でしたね
投稿: 茶々 | 2010年2月 1日 (月) 23時32分
あれっ?なぜか二重投稿になっている?
すいません。
「>浅井家と石田家は敵対」の事ですが、これは浅井長政とお市の方の婚礼前後(つまり、三成の主君の秀吉が長浜城主になる前)の話です。「親同士の対立」ですから、三成個人にはあまり関係ないですね。
プライベートでは(あやしいウワサが出るくらい)淀と三成は親密でした。
投稿: えびすこ | 2010年2月 2日 (火) 08時27分
えびすこさん、こんばんは~
その流れから親子でも敵対するし、逆に、昨日の敵は今日の友だったのですから、親の時代の敵対は影響してないように思います。
また、石田家が浅井家と・・・ってなるほど、石田家は大きくなかったような気がします。
投稿: 茶々 | 2010年2月 3日 (水) 18時39分