正保三年(1646年)3月26日、徳川将軍家の剣術指南役で初代・柳生藩主・・・あの柳生十兵衛のお父さんとしても有名な剣術家・柳生宗矩が76歳で亡くなりました。
・・・・・・・・・
柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)・・・通称・又右衛門(またえもん)は、永禄八年(1565年)に、新陰流(しんかげりゅう)の剣術家・柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)の五男として生まれました。
五男という事は、彼の上に4人の男子がいた事になりますが・・・
長男の厳勝(よしかつ)は、元亀二年(1671年)、松永久秀(ひさひで)と筒井順慶(じゅんけい)が戦った大和辰市(たつがいち)の合戦に久秀側として参戦するものの、重傷を負ってしまい、以後、介助者が必要な障害を持つ事となってしまいました。
次男・久斎と三男・徳斎は出家・・・
四男・宗章(むねあきら)は、父から兵法を学び、まさに戦国の剣豪にふさわしい腕前となり、小早川秀秋に仕えていましたが、後に伊勢桑名に滞在中、合戦に巻き込まれて死亡します。
そんな中、父の宗厳が、京都に滞在中の徳川家康に招かれた文禄三年(1594年)、24歳の宗矩も父について謁見し、家康の前で柳生新陰流の極意『無刀取り』を披露します。
この『無刀取り』というのは、父・宗厳が新陰流を学ぶきっかけともなった秘術です。
宗厳が、まだ35歳の若き頃、剣聖の誉れ高い上泉信綱(かみいずみのぶつな)(9月20日参照>>)と手合わせをしたおり、あっと言う間に素手で木剣を奪い取られて、あっさりと敗退・・・これが新陰流・無刀取りの秘剣で、その後、信綱に弟子入りして新陰流を学んだ宗厳が、さらにアレンジを加えて完成させ、柳生新陰流の極意としていたものでした(4月19日参照>>)。
信綱との立会いと同様に、素手の宗厳にあっさりとしてやられた家康は、その場で彼の弟子になり、彼に指南役を命じました。
しかし、その時、宗厳は68歳の高齢・・・そのため、すべての極意を継承している息子・宗矩を推挙し、宗矩が父に代わって士官する事となったのです。
こうして大きな一歩を踏み出した宗矩・・・しかし、あくまで父の代理だった彼は、すぐに指南役になれたわけではありませんでした。
まず、与えられた使命は、後方支援の雑用係・・・まもなく訪れた慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦を前にしての懐柔工作です。
京都にも大坂にも近い柳生という地の利・人脈の利を生かして、アノ手コノ手で1人でも多くの武将を東軍側へ・・・表には出ない縁の下の力持ちではありましたが、ご存知のように、家康が勝利した事によって、その功績が高く評価され、それまで、父の代にて失っていた柳生の旧領2000石を、再び手に入れる事ができたのです。
翌年の慶長六年(1601年)、31歳となった宗矩は、家康の後継ぎである秀忠の剣術指南役に抜擢され、初めて本来の仕事を得ました。
やがて慶長十年(1605年)には、その秀忠が将軍となり、宗矩の役どころも、晴れて「将軍の剣術指南役」という事になりました。
続く慶長二十年(元和元年・1615年)の大坂の陣では、秀忠の旗本として参戦・・・特に、夏の陣では、大将・秀忠近くに迫った豊臣方の敵兵7名を、新陰流の見事な腕前で、あっという間に斬り伏せたのだとか・・・。
しかし、その夏の陣の直後、宗矩にとって後味の悪い事件が続けておきます。
まずは、大坂城の落城時に逃走し、京都に潜伏しているところを捕えられた佐野道可の事件・・・(くわしくは5月21日参照>>)。
これは、大坂の陣にて、大坂方の主力の1人として采配を振っていた佐野道可なる人物が、実は、毛利家と縁戚関係にある重臣・内藤元盛であったという事件です。
ご存知のように、大坂の陣では、毛利家は徳川方を表明・・・病気療養中の輝元の後を継いだ息子・秀就(ひでなり)の名代として参戦した毛利秀元は、鬼神のごとき奮戦で徳川家にご奉公しています(5月7日参照>>)。
その一方で、身内とも言える重臣が大坂城にいたとなると、明らかな裏切り行為・・・しかし、捕らえられた道可は、一貫して、「個人的に毛利家を見限り、出奔してからの参戦」を主張し、そこに毛利家の関与がない事を訴えます。
その主張を証明するために、道可の二人の息子たちの証言を取ったのが宗矩でした。
二人の息子に面会した宗矩は、その誠実な人となりを確信し、この一件は、道可個人の寝返りと見て、息子たちにも、そして毛利家にもお咎めがなしとの判断を下し、道可の切腹を以って、この事件は解決となっていたのです。
ところが、その半年後・・・なぜか、輝元の命により、二人の息子は切腹させられてしまいます。
宗矩の力の及ばぬ毛利家内での出来事とは言え、「お咎めなし」との判断を下した彼としては、とても後味の悪い事件となりました。
さらに翌年、今度はあの坂崎出羽守事件が起こります。
ドラマでは、大坂夏の陣での千姫の救出劇とセットで描かれるこの事件ですが、その千姫のページ(2月6日参照>>)でも書かせていただきましたように、個人的には、救出劇そのもよりも、その後の千姫の縁談がらみであると思っています。
公家に太いパイプを持つ坂崎直盛が、秀忠に進言して、ほぼ決まっていた千姫の縁談を、家康の孫で本多忠政に嫁いでいた熊姫が、その持参金と将軍家の血筋ほしさに、わが息子・忠刻をゴリ押して、あれよあれよと言う間に決定してしまったというのが真相ではないかと・・・
もちろん、ほぼ決まっていた相手の公家に対して直盛のメンツは丸つぶれですから、出社拒否をしたくもなるというものです。
この時、幕府との一戦も辞さないとかたくなに抵抗する直盛に、「本人の首さえ提出すれば、罪一等を減じ、お家のお取り潰しはしない」という幕府の意向を以って、交渉に当たったのが宗矩でした。
宗矩は、怒り心頭で、その条件を拒否しまくる直盛を、なんとか説得して自害に持ち込ませたと言いますが、結局、幕府は、その後、坂崎家も取り潰してしまうのです。
一説には、直盛が自刃を拒否し続けたため、家臣が殺害して首を提出した事が、あとあとになってバレたから・・・とも言われますが、一方では、未だ幕府の基礎が固まっていないこの時代、抵抗した者に徹底した処分を下す事は、はなから決まっていたという話もあります。
後者の場合なら、宗矩は、「本人が切腹したら許す」という幕府のウソ約束の片棒を担いだ事になり、坂崎家の怨みも買う事になります。
やっぱり後味が悪い・・・
その事もあってか、宗矩は、残された家族へ自らの知行を分け与えたり、坂崎家臣の、今後の身の振り方を手配するなどのフォローも怠りませんでした。
やがて、3代将軍・家光の頃になると、ますます幕府で重用される宗矩・・・
寛永六年(1629年)には従五位下(じゅごいのげ)但馬守に任ぜられ、その3年後には、将軍独裁体制の一環として設けられた「総目付(そうめつけ)」という諸大名を監視する役どころの1人となります。
もはや、剣豪の面影は消え、官僚となった宗矩でしたが、それはひとえに、職務に忠実なだけ・・・ご本人の中では、ひたすら剣の修行をしたあの頃と、何ら変わらない日々だったのかも知れません。
・・・というのも、
ある春のうららかな日・・・
小姓を伴い、庭の散歩をしていると、ふと、桜に目がいきます。
今を盛りに咲き誇る花に、うっとりと見とれる宗矩・・・
その背中を見ていた小姓が、ふと思います。
剣豪の名高い主君・宗矩・・・でも、「今、この瞬間なら、背後から襲い、一本とる事ができるかも知れない!」
・・・と、その後、散歩をやめ、足をとめて、何か考え込む宗矩・・・
「殿様、どうされたのですか?」
すると、宗矩は・・・
「いやいや、さっき、一瞬だけやけど殺気を感じたんや。
けど、まわりには誰もおれへんし、不思議な事もあるもんやと、その理由を考えとった」
背筋・・・ゾ~(A;´・ω・)アセアセ
怖くなった小姓は、先ほどの考えを正直に話て許しを乞いますが、当の宗矩は、咎めるどころか、逆に「そうだったのか~」と納得して、まったく怒る事もなかったのだとか・・・
むしろ、未だ衰えぬ剣豪としてのカンに、我が事ながらうれしかったのかも知れませんね。
やがて正保三年(1646年)正月・・・76歳になった宗矩は、江戸麻布の藩邸で倒れ、ひとりで起き上がる事も困難な状態となってしまいます。
病床で過ごす事2ヶ月・・・さすがの宗矩も、年齢が年齢なだけに2ヶ月も寝込むと、「もはや、これまでか」と、自身の命尽きる日の事を考えるようになります。
しかし、彼には、まだやり残した事がありました。
自身が著した『兵法家伝書』を、弟子である肥前小城(おぎ・佐賀県小城市)藩主・鍋島元茂に贈りたい!・・・
近くにいた側近で弟子でもある村川伝右衛門(でんえもん・『葉隠』の著者・山本常朝の叔父)に、「自書に奥書を添えねば、元茂に贈るに贈れん!」と、その震える手をささえてもらい、自らの手で花押(武将の直筆サイン)を書き加えたと言います。
これを「宗矩の乱れ花押」と呼ぶらしいですが、残念ながら、私は未だ拝見した事がありません。(どこかにあるのかしらん?)
それからまもなくの正保三年(1646年)3月26日・・・宗矩は帰らぬ人となります。
思えば、殺人剣を揮ったのは、わずかに大坂夏の陣のあの時だけ・・・心やさしき政治家として生きた柳生宗矩・・・
しかし、その奥底に流れ、決して忘れる事がなかったのは、柳生新陰流・継承者としての誇りと若き日の剣豪魂だったという事なのでしょう。
.
★あなたの応援で元気でます!
↓ブログランキングにも参加しています
最近のコメント