赤報隊・相楽総三、諏訪に散る2
慶応四年(1869年)3月3日、新政府軍により「ニセ官軍」と発表されていた赤報隊の相楽総三が下諏訪にて処刑されました。
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赤報隊(せきほうたい)の相楽総三(さがらそうぞう)については、すでに3年前の今日・【赤報隊・相楽総三 諏訪に散る】(2007年3月3日参照>>)と題して書かせていただきました。
その時に、個人的に相楽さんに抱くイメージとしては、「1月に花咲いて3月に散った真っ赤な落ち椿のようだ」と、真紅の落ち椿のイラストも書かせていただきましたが、そのイメージは今も変りません。
今回は、以前のそのページと内容かぶってますが、まだブログ1年めの初心者だった頃に書ききれなかった相楽さんご本人の事を中心に、前回のそのページと合わせて見ていただければ幸いです。
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天保十年(1839年)に江戸赤坂の郷士・小島兵馬(ひょうま)の四男として生まれた相楽総三は、本名を小島四郎左衛門将満(まさみつ)と言い、当時は小島四郎と呼ばれていました。
小島家は、もともと下総(しもうさ・千葉県)相馬郡椚木(くぬぎ)新田の豪農で、父の兵馬が江戸へ出て旗本相手の金貸し業を営み、かなりの富を得ていたようです。
裕福な家に育った総三は、やはり幼い頃から高等な教育を受けていたとみえ、20歳の頃には、すでに100人の門弟相手に、国学や兵学を論じていたと言いますから大したもんです。
やがて文久元年(1861年)の23歳の頃から、尊王攘夷運動に参加するようになり、父から5000両という大金を得て、慷慨隊(こがいたい)なる浪士&農民中心の私費隊を結成して旗揚げするものの、この蜂起は失敗し、しばらくは実家でおとなしく・・・この時期は尊王攘夷運動からも撤退します。
次に活発に動き始めるのは、慶応二年(1866年)・・・
当時、拠点を京都に移していた総三は、西郷隆盛と知り合う事となり、その下で薩邸浪士隊を結成して総裁となり、例の幕府に対する様々なテロ行為(12月25日参照>>)に暗躍する事となります。
本人が相楽総三と名乗りはじめるのもこの頃です。
そして慶応四年(1869年)正月3日の勃発した鳥羽伏見の戦いに勝利し(1月5日参照>>)、官軍となった薩長軍・・・総督府附属という形で、その先鋒となって東征する役割を荷うため、1月8日に結成されたのが赤報隊です。
以前も書かせていただいたように、この時に総三の提案した「年貢を半減させる」という公約が採用され、総三率いる1番隊は、東山道を東へ進み、2月6日には信濃(長野県)の下諏訪(しもすわ)まで達し、道々で「年貢が半分になる」の高札を掲げて鳴り物入りで進軍し、新政府軍に民衆の心を惹きつける事に成功しています。
もともと、この赤報隊は、先鋒と言えど、敵軍と真っ向から戦う先鋒ではなく、官軍の嚮導隊(きょうどうたい)・・・つまり、次に本隊がすんなり通れるための道案内というか地ならしというか、とにかく、これから本隊が進む道筋の民衆に「官軍スゴイ」「新政府・期待大」のイメージを植えつける事にあるのですから、彼らの使命は、100%成功とも言える、見事な物だったわけです。
ところが、総三らが未だ進軍中の1月29日、突如として新政府は『年貢半減令』を取り消し、赤報隊に京都へ戻るよう指示します。
2007年にも書かせていただいたように、すでに豪商から高額の資金提供を受けている新政府にとって、「年貢半減」なんて公約は、はなから果たせるはずがなかったのです。
かくして、未だ近くにいて速やかに連絡を受けた2番隊&3番隊は、すぐに京都に戻るのですが、最前線まで進んでいた総三の1番隊には、連絡が遅れたと・・・。
しかし、2月9日に諏訪にて連絡を受けた総三が、翌・10日に、まずは単独で帰還しようと隊を離れたところ、もう、14日には討伐軍が襲撃するという手際の良さには、何やらうさん臭さを感じずにはいられません。
そう、この1番隊の撤退の遅れが、新政府に口実を与えてしまったのです。
「1番隊は、総督府の統制から離れて命令に従わず、単独行動している」・・・つまり「ニセ官軍である」と・・・
事情が呑みこめていない総三は、一旦、隊に戻り、動揺する隊士たちに、「落ち着いて(総督府からの)知らせを待とう」と呼びかけます。
やがて3月1日、新政府は「相楽率いる1番隊を正規の薩摩軍に附属させるので・・・」という文書で総三を誘い出し、その言葉を信じてやってきた彼を、その場で逮捕!
そして、何の説明もしないまま、慶応四年(1869年)3月3日、官軍参謀の進藤帯刀によって相楽総三は斬首され、その首はさらし首となりました。
最後に、自らの処分を聞いた総三は、何一つ弁明するでもなく、命惜しさに騒ぐでもなく、黙って、その処分を受けたと言います。
彼の汚名が晴らされるのは、その死から60年後の昭和三年(1928年)・・・正五位が授けられ、維新という大事を成すための犠牲となった事が、やっと認められたのです。
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コメント
幕末維新に登場した人たちは皆さん本当に興味深いです。誰もが大河(じゃなくても)大作ドラマの主人公になれそうな位、日本の歴史が大きく揺れ動いた時代だったんだろうなと思います。相良総三=桐野利秋でしたか。
この人だって多分私利私欲でなく「日本の行末」を真剣に考えての行動で、だからこそ潔く運命を受け入れたんじゃないだろうか・・この時代、こういう人が(日本のことを真剣に思ってた人)が沢山いてくれたおかげで今があるんじゃないか、と思います。先人に感謝しなきゃいけないと思いますよ。最も近しいあの激動の時代を必死に生きた人たちにも。
投稿: Hiromin | 2010年3月 3日 (水) 22時14分
Hirominさん、こんばんは~
そう言えば、桐野さんも、幕府へのテロ行為で暗躍してましたね。
幕末は、魅力的な人が多いです。
投稿: 茶々 | 2010年3月 4日 (木) 01時09分
いつも楽しく拝見しています(^O^)
相楽総三は本当に男の中の男ですね!
相楽総三 大好きなので、最期迄言い訳せず、男として散って行った事に何とも言えない物を感じます。
これからも、勉強させて頂きます(^-^)
投稿: みか | 2010年3月 4日 (木) 19時37分
みかさん、こんばんは~
>相楽総三は本当に男の中の男ですね!
ホントです。
るろ剣に出てきた相楽さんが、かなりのイケメンだったので、そのイメージがかなり強い私ですが、その心情も男前だと思います。
投稿: 茶々 | 2010年3月 4日 (木) 23時16分
私も15年ほど前から相楽総三とその同志について
個人的ですが研究しています。
新選組と違ってなかなか世に出てこられない方々ですが、彼らのような草莽の志士の活躍と犠牲があったからこそ、今の時代があるのだと思っています。
相楽さんだけでなく、隊士の方、一人一人がとても魅力的で大好きです。
まだ魁祭には行ったことがありませんが、いつかは行ってみたいですね。
投稿: yuzuki | 2010年12月31日 (金) 22時57分
yuzukiさん、こんばんは~
そうですね。
相楽総三さんにスポットを当てた幕末ドラマを見てみたいです。
新撰組よりも散りゆく美学を感じます。
投稿: 茶々 | 2011年1月 1日 (土) 03時07分
赤報隊をテーマにしたDVDなら
三船敏郎さんの【赤毛】がありますよ
TSU〇YAにもレンタルがあります。
相楽総三は脇役で最初しか出てきませんが、なかなかの映画だと思います。
あと朗読CDで【幕末志士物語】佐幕、開国編に相楽総三物語がありますよ
投稿: yuzuki | 2011年1月 1日 (土) 19時37分
yuzukiさん、こんばんは~
情報ありがとうございます。
私の中では「るろ剣」の佐之助の恩人として登場する相楽さんのイメージが満杯ですが、他のドラマを見れば、少し違った相楽さんを見つける事ができるかも知れません。
投稿: 茶々 | 2011年1月 2日 (日) 02時46分
お返事ありがとうございます
赤報隊に関する資料はかなり持っているつもりです。
実際、渋谷総司氏、金原忠蔵の碑がある千葉に足を運んだり
下諏訪で大木四郎氏、西村謹吾氏が岩村田藩に幽閉された際に相楽総三宛に書いた手紙の本文など…
あとは相楽総三の影武者だと言われている金輪五郎氏について
資料ありますので、何か興味がありましたら言ってください
なかなか赤報隊を好きな人が少ないので語れる方がいらっしゃると嬉しいです
投稿: yuzuki | 2011年1月 3日 (月) 21時40分
yuzukiさん、こんばんは~
私は、子供の頃からの歴史好きではありますが、恥ずかしながら、まだまだ知らない事ばかりです。
特に近世は、興味を持ったのが遅かったせいもあって、未だ初心者の域を出ないものと未熟さを痛感している毎日です。
基礎的な事から学びつつ、何か、わからない事があったら、お智恵を拝借する事もあるかも知れません。
今後ともよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2011年1月 3日 (月) 23時48分