無骨な総大将~応仁の乱を率いた山名宗全
文明五年(1473年)3月18日、戦国の幕開けとも言われる応仁の乱で西軍を率いた守護大名・山名宗全が70歳で亡くなりました。
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山名宗全(やまなそうぜん)は、応永十一年(1404年)に山名時熙(ときひろ)の三男として生まれます。
この山名氏は、新田の流れを汲む家系ですが、あの南北朝の時には足利尊氏に従って功績を挙げた事から、室町時代初期の政権内で大きな力を持ち、近畿・山陰・山陽の広範囲に渡ってに11ヶ国もの守護となり、当時の日本全国が60ヶ国ほどであった事から「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」・・・つまり、全国の6分の1を持ってると言われたほどの家柄でした。
しかし、あまりにも強大になった山名氏に脅威を抱いた3代将軍・足利義満の画策によって、同族同士で争う事となり(12月30日参照>>)、いつしか、その領地は3ヶ国ほどなってしまっていたのです。
それを盛り返したのが、宗全の父・時熙・・・何とか頑張って、侍所(さむらいどころ)の長官にまで上り、領地も、倍の6ヶ国に増やす事に成功したのです。
しかし、そんな山名氏をもとの六分一殿・・・いや、それ以上の全国トップクラスに押し上げるのが宗全、その人であります。
応永二十年(1413年)、わずか10歳で元服した宗全は、時の第4代将軍・足利義持の一字を賜り、山名持豊(もちとよ)と名乗ります。
・・・と、実は、この持豊が本名で、宗全は、いわゆる出家した後の法号なのですが、ややこしいので、本日は宗全さんで通させていただきます。
・・・で、そんな宗全さんは、亡くなった父の後を継いで、28歳にして山名氏の当主となりますが、冒頭に書かせていただいたように、彼は三男・・・
長兄は早くに亡くなっているので問題無しとしても、次男の持熙(もちひろ)という人が幕府の宿老も勤め、嫡子として後を継ぐ事が決まっていたのです。
ところが、兄・持熙の事が嫌いな第6代将軍・足利義教(よしのり)(6月24日参照>>)の鶴の一声で、家督は宗全が継ぐ事に・・・
・・・と、この義教さん、この人は知る人ぞ知る、あのくじ引き将軍です。
当時のくじ引きは、神のお告げみたいな物ですから、くじ引きで将軍になった事を、どうこう言うつもりはないのですが、この方は、その将軍としてのやり方が少々独裁的な人だったのです。
大きくなり過ぎた管領や守護勢力を排除して、将軍自らが勢力を振るう事を理想とした義教は、管領家や守護の家督相続に介入し、宗家を潰して分家を重用したりして内紛を起させ、その勢力を削ぐように画策しました。
もちろん、そんな中で思うように行かなかった場合は、その武将を暗殺する事も・・・上記の、宗全が兄を差し置いて家督を相続したのも、その画策の一環なわけですが、とにもかくにも、その義教のおかげで、宗全は、しぶる兄を抑え、山名氏の当主となれたわけです。
そんな義教は、更なるラッキーを宗全にもたらしてくれます。
義教の恐怖的な政治に、「次は俺が排除されるんじゃないか?」と不安にかられた赤松満祐(あかまつみつすけ)が、嘉吉元年(1441年)6月、義教を自宅に招いて宴を催し、その席で殺害してしまうのです。
世に言う嘉吉(かきつ)の乱(6月24日参照>>)ですが、守護が将軍を殺害するという、この前代未聞の出来事を以って下克上のはじまりとも言われる事件・・・この時、将軍殺害の罪人となった満祐の討伐軍の主力となったのが宗全・・・
当時38歳・・・男盛りの宗全は、満祐を追って但馬(たじま・兵庫県)から播磨(はりま・同)に攻め込み、見事、自害させました。
これによって、播磨・美作(みまさか・岡山県)・備前(びぜん・同)の3ヶ国を手に入れ、合計9ヶ国・・・名門管領家の細川家と並ぶ勢力となります。
・・・と、ここで登場した細川家・・・ご存知のように、後に応仁の乱で宗全率いる西軍と、相対する事になる東軍を率いるのが細川家の当主・細川勝元・・・。
しかし、この嘉吉の乱の後、しばらくは、すこぶる良好な関係が続きます。
宗全と勝元は26歳という親子ほどの歳の差がありますが、その年齢通り、この頃には、勝元は宗全の娘を嫁にとり、二人は、舅&婿殿の関係となっています。
さらに宗全の末っ子の豊久を、勝元が養子にするくらい仲が良かったのです。
名門育ちの勝元は、和歌や芸術にも才能あふれる貴公子で、かたや宗全は武術しか知らない根っからの武士・・・しかし、そんな趣味嗜好の違いをも越えてしまうほど、お互いの利害関係が一致し、両者ともに組んで他家を追い落とし、並び立つ者がいないほどの権勢を誇ります。
しかし、そうなると、不安になって来るのが、細川家を含む名門管領家の人たち・・・管領家とは、将軍の補佐役である管領になれる資格のある家柄の事で、細川・斯波(しば)・畠山の三家・・・これを「三管領」と言い、この家柄は特別な名門なわけです。
なので、それ以外の家柄の者が、その上を行く力を持つ事を良く思わないのは当然と言えば当然・・・さらに、ここに来て、将軍家も同じ思いとなります。
かくして、時の第8代将軍・足利義政は、細川家の分家の細川成之(しげゆき)とともに、一計を画策・・・宗全が討ち取った赤松満祐の甥・赤松則尚(のりひさ)を幕府に出仕させ、お家再興を認めてしまったのです。
ここに、山名氏と細川氏・・・大きな溝ができてしまいました。
これが、応仁の乱の一つの要因となります。
もちろん、すでにブログで何度か書かせていただいているように、応仁の乱は、この山名と細川の対立だけでなく、かの管領家の斯波氏は斯波氏同志で、畠山氏も畠山氏同志で、その家族内でトップ争いをしているし(1月17日参照>>)、肝心要の将軍家も、義政の息子と弟で、その相続争いをしていたわけで(1月7日参照>>)、それぞれが、それぞれの利害関係で、あっちについたり、こっちについたりと、複雑にからみあっての応仁の乱勃発という事になるのですが・・・(5月20日参照>>)
かくして、京の都を焦土と化す大乱が展開されるわけですが、個々の戦いは、それぞれのページで見ていただくとして(【室町時代・前期の年表】の後半部分をどうぞ>>)、本日は、宗全さんのご命日・・・
最初の頃は、京の洛中での戦いが中心だったのが、徐々に郊外へと広がり、摂津(大阪)や南山城(京都府南部)などでは、地元の土豪や国人を巻き込んでの戦いとなる中、一方の中央では、おかしな事になってきます。
もともと、宗全は、義政の嫁・日野富子に頼まれて、次期将軍には、その息子の義尚(よしひさ)をつけるべくはじめたこの乱が、いつの間にやら、義尚のライバルの義視(よしみ)を将軍格に戴き、富子と義尚のいる花の御所を攻撃している自分・・・
乱の勃発から5年後の文明四年(1472年)正月・・・その不可思議さに、長引く乱を終らせたいと感じた宗全は、勝元に和議を提案します。
しかし、その和議の提案は、あの満祐の弟の孫にあたる赤松政則の反対によって潰されてしまいます。
和議が成立しなかった事に心を痛めた宗全は老齢にムチ打って自刃・・・その場では死にきれなかったものの、結局そのキズがもととなって、翌・文明五年(1473年)3月18日、この世を去るのです。
一方の勝元も、政則の反対を抑えきれず、さらに戦乱を長引かせている事に責任を感じ、養子の勝之以下、家臣十余人とともに髻(もとどり)を切りますが、そんな事で乱が収まるわけもなく、傷心に打ちひしがれる中、宗全の死から、わずか2ヶ月余りで、彼も病死してしまうのです。
しかし、ご存知のように、両巨頭が亡くなっても、まだ乱は続き、結局、文明九年(1477年)、やっと11年の大乱の終止符を打つのですが、そのお話は、また別の機会にさせていただく事として・・・
ところで、天文二十一年(1552年)に成立したとされる『塵塚物語』には、宗全が、ある公家の邸宅に招かれた時、「昔はよかった・・・・」とグチる大臣に言った言葉というのが書かれています。
「そうやって、先例にこだわって時代の流れを見はれへんから、武家にとって代わられるんでっせ。
昔の常識でいったら、俺らみたいな卑しい者が、おたくらみたいな高貴な人と、対等に話しする事なんて考えられませんやん。
これが、時代っちゅーもんです。
これから、俺なんかより、もっと悪い武士がどんどん出てきますやろ。
けど、昔の常識を持ち出してゴチャゴチャ言わんと、時勢をわきまえてくれはるんやったら、俺は、おたくらを全身全霊で守ります。」
確かに、芸術的才能のカケラもなく、無骨で、戦うしか能の無かった宗全だったかも知れませんが、そのぶん、時勢を読み、己の立場の何たるかを充分に理解して、常に、武士たる者の理想へと向かって生きていたのかも知れません。
戦いを終らせる事ができなかった、情けない自分に刃を突きたてたのも、宗全らしい最期だったのかも知れません。
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コメント
こんにちわ~、茶々様。
相変わらず面白い・・・このブログ(○゚ε゚○)
山名宗全さんに関しては私は応仁の乱をおこした張本人としか思っていませんでしたから今日は少し『汚名を晴らしたい』シリーズのような感じで読み入ってしまいました。
歴史、最高!
投稿: DAI | 2010年3月18日 (木) 12時51分
DAIさん、こんにちは~
確かに、応仁の乱って、あれだけの大乱なのに、何となくその様子がつかめないというか、武将の顔が見えてこないというか・・・
しかし、あの「これからはもっと悪い(戦国の場合は褒め言葉です)武士が出てくる」という、信長や秀吉の出現を予感させるような言い回しには、私も、すっかり、宗全さんを見直してしまいました。
いつも元気の出るコメント
ありがとうございますo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2010年3月18日 (木) 14時44分
茶々様 こんにちは!
持豊さんも勝元さんも何かかっこいいですねえ!とはいえ応仁の乱を起こしてしまったのも事態を収拾できなかったのも事実。やはり「日本を戦乱の世にしたバカたれ共」という世間のレッテルはなかなか拭い去れないでしょうね;
学校ではほとんど知ることの出来ないようなこういった興味深い話を教えてくれる茶々様には毎度のことながら感服します!
DAIさん同様、歴史最高!
投稿: ryou | 2010年3月18日 (木) 15時32分
おもしろかったですo(^-^)o
投稿: さかな | 2010年3月18日 (木) 20時41分
ryouさん、こんばんは~
確かに、大乱を引き起こしただけでなく、長引かせた事で幕府の権威も落とし、結局は、戦国乱世に導いてしまった事の山名・細川の罪は大きいかも知れませんね~
とは言え、本日はご命日で主役なので、宗全さんをちょっとカッコ良く書かせていただきました。
楽しいコメント、
感謝してます!m(_ _)m
投稿: 茶々 | 2010年3月19日 (金) 01時50分
さかなさん、こんばんは~
すなおに
「おもしろかった」
と言っていただけるのは、とてもうれしいです。
ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2010年3月19日 (金) 01時52分