村上天流VS樋口定次~烏川原の決闘
慶長五年(1600年)3月15日、高崎城下・烏川原にて、天道流・村上天流と馬庭天流・樋口定次による決闘が行われました。
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時は戦国・・・まさに剣豪と呼ばれる武芸者たちの華やかなりし頃。
そう、慶長五年(1600年)と言えば、その年の9月に起こるのが、あの関ヶ原の合戦(関ヶ原の年表>>)・・・関ヶ原で態勢をつかんだ徳川家康が、その後の大坂冬&夏の陣(大坂の陣の年表>>)でトドメを刺してからは、はっきり言って、新参入の剣豪の出番なんて無きに等しい状態ですから、まさにこの頃がピークと言える時代です。
・・・で、剣豪と言えば、全国各地に武者修行の旅に出かけ、あちこちで立ち合いを行い・・・ってイメージが強いです。
もちろん、それは、全国各地の「強い」と評判の武芸者と試合する事によって、自分自身の腕を磨くのと同時に、その試合に勝って名誉を得る事・・・
しかし、当然の事ながら、名誉だけでは喰ってはいけないわけで、本来の目標は、その名誉を下敷きにして、どこかのとある場所で道場を開き、多くの弟子を抱えて、自身の流派を広めていく事・・・
そして、さらに、その上には、自分の、そして、弟子たちの活躍によって、その流派自体が「強い」との評判を受け、どこかしらの大名に仕官するという最大の目標があるわけです。
・・・で、当時、上野(群馬県)高崎(高崎市)城下にあったのが天道流道場・・・その道場主は常陸国(茨城県)出身の村上権左衛門こと村上天流(てんりゅう)と名乗っていた武芸者で、あの塚原卜伝(ぼくでん・卜傳)(2月11日参照>>)の弟子の斉藤伝鬼(でんき・伝鬼坊・伝鬼房)に新当流と天道流を学んだとされていますが、その実力は不明です。
そんな彼が、この高崎に来たのは、慶長三年(1598年)の事・・・実は、この高崎は、その年に箕輪から移って来た井伊直政が「高崎」と名付けたばかりの新興の町。
いたる所で建築ラッシュに湧く新しい城下町は、そこかしこに活気が満ち溢れ、何かで一旗挙げようと意気込む人々も、続々と集まってきます。
天流も、その中の1人・・・もちろん、最終目標は井伊家への仕官ですが、同じ上野には、そんな天流のライバルと言える人物がいたのです。
それが、樋口又七郎定次(さだつぐ)・・・彼は、友松氏宗偽庵(うじむねぎあん)から念流(ねんりゅう)の印可(いんか・師匠が弟子に与える許可)を受けて、故郷の上野馬庭村(まにわ・多野郡吉井町)で道場を開いており、その地名から馬庭念流(まにわねんりゅう)と呼ばれて、すっかり定着していました。
当時、評判の道場には、武士だけでなく、農民や町民までもが入門し、大勢の弟子たちで活気に溢れていたのです。
そう、道場を開くだけならともかく、井伊家への仕官となると、どうにもこうにも、この評判の人物が、天流にとっては、目の上のタンコブなワケで・・・。
その評判を打ち砕くには、なんとか他流試合に持ち込んで、その定次を倒す以外にありませんから、まずは、天流は門弟たちを使って、馬庭念流の悪口言いまくり作戦に出ます。
「馬庭念流なんか田舎兵法やで!」
「や~い、や~い、樋口肥桶(こえおけ)剣法」
(↑小学生か!)
と罵って、定次を挑発します。
しかし、大もとの念流自身が他流試合を禁止していますから、当然、定次が、そんな挑発に乗るわけもなく・・・
しかし、この悪口言いまくり作戦は、その後二年も続けられ、とうとう、門弟たちが我慢の限界に来てしまいます。
中には、自ら破門を申し出て、天流道場に斬り込もうという者まで現れ、その事を知った定次は、「弟子たちの暴走を食い止めるためには・・・」と、自らが、天流の挑戦を受ける事にしたのです。
この時、定次は、日頃から信仰している山名村(高崎市)の八幡宮に、三日三晩に渡って参籠し、最後の夜に、「北向きの不動尊の御神木で木剣を作れ」という神のお告げを授かり、その通りに作った剣で御神木前の大石を打ち砕いたと言われ、その石は、今も「福石」「太刀割石(たちわりいし)」と呼ばれて、その山名八幡宮に存在するのだとか・・・って、定次さん、けっこう本気ですやん!
かくして慶長五年(1600年)3月15日、村上天流と樋口定次は、高崎城下の烏川原(からすがわら)で立ち合う事となったのです。
ところが、勝負は始まってすぐに、もう、見えました。
「このままでは勝てぬ!!」
と思った天流は、長刀(なぎなた)に仕込んだ飛び出し剣を一振り!!!
ギリギリかわした定次は、すかさず木剣を、天流の額めがけて打ち下ろします。
この一撃を、なんとか自らの木剣で受け止めた天流でしたが、力足りず、そのまま、自らの剣と、そこに十文字に合わさった定次の剣が、見事、天流の額を十文字に割り、その場で絶命してしまったのです。
つまり、今日は、天流さんのご命日でもあるわけです・・・って、このままでは、どう考えても天流さんがお気の毒です。
アホまるだしの悪口作戦を2年間も続ける事と言い、ケンカを売っといてアッサリと負けてしまうところと言い、まるで馬庭念流の惹き立て役のようです。
そう、実は、天流に関してのこれらの逸話は、ほとんど勝者である定次側の記録・・・負けた天流は、定次に挑んだ相手としての登場なので、どうしても、そうなってしまうのです。
確かに、定次自身は、他流試合をしてしまった事で、道場を弟に譲って引退し、その後、旅の途中に殺害されたという不幸な最期になったと言われていますが、このような剣豪の逸話は、やはり講談での語りが多く、結局は、勧善懲悪のヒーロー物語としてもてはやされる事になり、相手役は、どうしても仇役=悪役というキャラ設定になってしまいます。
流派自体は、どちらも、その伝統が、今もなお、若き剣士たちに受け継がれているのですから、おそらくは、勝った定次さんと同様に、天流さんも、並々ならぬスゴ腕の剣豪であったでしょうに・・・
いつしか、その強き武芸者ぶりが垣間見える逸話に出会いたいと願ってやまない今日この頃です。
定次さんについては、またいつか、定次さんを主役としたページを書かせていただくつもりなのですが、本日は、せっかく、天流さんを中心に書こうと思ったので、もう少しカッコ良くしたかったんですがねぇ・・・・(*≧ε≦*)
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コメント
両剣豪の名前を初めて知りましたが、群馬県ではこの決闘は有名なのでしょうか?
全国的にはこれの10年余り後の「巌流島の決闘が有名」ですね。
そういえば、今「古今剣豪列伝」の様な本が出ています。戦国の剣豪はもちろん、剣豪と呼ばれる幕末の志士(もちろん坂本龍馬も)も出ています。
そこでこの両剣豪は載っているかな?
投稿: えびすこ | 2010年3月15日 (月) 11時20分
えびすこさん、こんにちは~
「剣豪列伝」のような本なら、たぶん二人とも登場していると思いますよ。
特に、定次さんの方は、後に門下生として赤穂浪士で有名な堀部安兵衛が出てますので、けっこう有名だと思います。
一昔前までは、講談で人気をはくしたお話だそうですよ。
投稿: 茶々 | 2010年3月15日 (月) 12時15分
茶々様 こんにちは!
樋口定次…馬庭念流…どこかで聞いたことあるような…と思っていたら、そうでした、最期武者修行中に殺された剣豪さんでしたね!たしか何かのゲームにも登場してました。 勝った方の資料だから真実はどんなものかはわかりませんがなかなか白熱した試合ですねぇ!天流さんのちょっと卑怯な戦法がすごくいいです笑 勝ってれば武蔵なのに…笑
剣豪記事はテンション上がってしまう汗
投稿: ryou | 2010年3月16日 (火) 13時27分
ryouさん、こんにちは~
そうなんですか?
ゲームになってるんですか?
それは知りませんでした。
>勝ってれば武蔵なのに…
まさに!
弟子とともに大勢で、1人のジイサン(かも知れない)をボッコボコにしても、勝てば武蔵です(笑)。
投稿: 茶々 | 2010年3月16日 (火) 15時47分