歴史上屈指!無敵の将軍・立見尚文
明治四十年(1907年)3月6日、幕末の桑名藩出身で、明治新政府の陸軍大将として活躍した立見尚文が63歳で亡くなりました。
・・・・・・・・・
みなさんは、「無敵の将軍」と聞くと、歴史上の誰を思い浮かべますか?
戦国なら・・・
上杉謙信?武田信玄?織田信長?豊臣秀吉?徳川家康?
もっと前だと源義経?さらに坂上田村麻呂?
しかし、いずれも若い時に1度や2度は負け戦を経験していたり、謙信と信玄などは、勝ったんだか負けたんだかわからない泥沼に突入してますし、義経に至っては最後の最後に敗戦となってしまっています。
ところが、ここに、多くの歴史専門家が名を挙げる・・・つまり、知る人ぞ知る不敗の名将がいるのです。
それが、本日の主役・・・幕末から明治に活躍した立見鑑三郎尚文(たつみかんざぶろうなおふみ)です。
弘化二年(1845年)、伊勢(三重県)桑名藩士・町田伝太夫の子として江戸藩邸に生まれた尚文は、少年期から江戸の昌平坂(しょうへいざか)学問所で学びます。
やがて安政六年(1859年)、幼い藩主候補に代わって桑名藩を継ぐべく美濃(岐阜県)高須藩から婿養子にやってきた松平定敬(さだあき)(7月12日参照>>)が藩主の座につくと、その小姓として仕えます。
元治元年(1864年)に、その定敬が京都所司代に任命されると、尚文は、藩の周旋方(しゅうせんかた・交渉役)となり、その関係から薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通との交流も深まり、多感な尚文も、このあたりで大いに見聞を広めた事でしょう。
その後、幕府陸軍に出向して、フランス式の兵学を学びますが、この時、彼を教えたフランス人教官が「ナポレオン時代のフランスに生まれていたら、彼は、30歳になるまでに将軍になっていただろう」と言ったなんて逸話も残っているくらいなので、やはり、尋常じゃない何かを秘めていたんでしょうね。
やがて勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)に敗れた徳川慶喜(よしのぶ)が自ら謹慎の姿勢に入っても、尚文は抗戦を訴え、桑名藩の飛び地のあった越後(新潟県)柏崎に向かいます。
そう、北越戊辰戦争です(4月25日参照>>)。
この時、すでに新政府軍の物となっていた朝日山を奪回すべく長岡城を出陣した長岡藩家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)を支援すべく駆けつけた桑名藩の精鋭・雷神隊を率いていたのが、誰あろう尚文です。
あの鳥羽伏見以来、ほとんど無傷で北上して来た新政府軍に手痛い敗北を食らわした朝日山争奪戦で(5月13日参照>>)、奇兵隊出身の時山直八(ときやまなおはち)を討ち取ったのは、彼ら雷神隊だったのです。
同じ奇兵隊出身で、当時、総督府下参謀だった山県有朋(やまがたありとも)が、この先の明治の世となった後も、尚文の昇進をことごとく邪魔するのは、この朝日山での敗北と時山の死が、尾を引いていたのでは?と言われるくらい、新政府にとってはショッキングな敗北だったわけです。
そうです・・・冒頭に、尚文さんの事を「知る人ぞ知る」・・・つまり、一般的にはあまり知られていないと書かせていただきましたが、それは、上記の通り、彼が、負け組の幕府側の人だからなのです。
「もし、彼が、勝ち組の薩摩か長州の人だったら、おそらく西郷さんをしのぐ有名人になっていただろう」と考える立見ファンも少なくないのですよ。
・・・とは言え、やがて会津藩も庄内藩も降伏してしまうと、当然の事ながら、尚文も降伏するしかありません。
しばらくの謹慎生活を送った後、やがて司法省に出仕して下級判事などを務めていた彼を、時代が再び表舞台へと押し上げます。
各地で起こり始めた士族の叛乱です。
それまで、負けた賊軍の出身者として冷たくあしらわれていた尚文でしたが、ご存知のように、士族の叛乱とは・・・
佐賀の乱(2月26日参照>>)=佐賀
神風連の乱(10月24日参照>>)=熊本
秋月の乱(10月27日参照>>)=福岡
萩の乱(10月28日参照>>)=山口
そして、最終かつ最大な・・・
西南戦争(1月30日参照>>)=鹿児島
へと向かうわけですが・・・
見ての通り、官軍の中でも薩長土肥(さっちょうどひ)と称された雄藩のうち三つも・・・こうなったら、「朝敵だ!」「賊軍だ!」なんて言ってられません。
あの西郷相手に戦うのですから、とにかく、腕のある者を抜擢しなければ・・・
なりふり構わぬ明治政府の要望で、尚文は、陸軍へと呼び戻され、西南戦争では陸軍少佐として新撰旅団一個大隊を指揮し、大いに活躍します。
さらに日清戦争でも、陸軍少将として歩兵第10旅団を指揮して統率力を発揮した尚文でしたが、何と言っても、彼の名声を最高潮に押し上げたのが日露戦争(2月10日参照>>)でした。
日露戦争の山場の一つでもある奉天(ほうてん)会戦(3月10日参照>>)・・・その1ヶ月半前の1月25日に、日本軍の最西端を守る秋山好古(よしふる)率いる支隊に、攻撃を仕掛けて来たロシア軍・・・
最西端で守りが手薄という事もあり、当日は大量の積雪があった事もあり、たちまちのうちに危機的状態となる秋山隊・・・
黒溝台(こっこうだい)会戦と呼ばれるこの戦いで、「即座に秋山隊を救援せよ!」との命を受けた尚文は、第8師団(弘前)を率いて出立しますが、なんせ、多勢に無勢・・・2万程度の支隊と援軍だけでは、とてもじゃないが、9万のロシア軍に対抗できず、黒溝台も奪われ、第8師団自身も窮地に陥ります。
ところが、そんなこんなの1月28日夜・・・
尚文は、師団の総力を挙げて夜襲を決行します。
前代未聞の2万人の夜襲です。
明けて29日の朝・・・見事に黒溝台を奪回したのです。
ここで、ロシア軍は、未だ充分戦える状況であるにも関わらず撤退を開始します。
この撤退に関しては、黒溝台を奪回されたから・・・というのではなく、単にロシア側が撤退命令を出しただけだとも言われていますが、その理由については、未だ不明・・・
ただ、尚文とともに戦った弘前の兵士たちの間には、「立見がいたから、ロシアは戦いを避けたのだ」と、長く語られていたのだそうです。
翌年、賊軍出身であるにも関わらず、陸軍大将にまで上りつめた尚文・・・しかし、その翌年の明治四十年(1907年)3月6日、63歳で永眠します。
63歳で死去・・・という事は、その2年前の日露戦争の時は61歳・・・
その年齢にも関わらず、極寒の大地で、常に先頭に立って指揮をとっていたという尚文・・・故郷に戻った弘前の兵士が、彼の勇姿を長く語り継いだのも、わかるような気がしますね。
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コメント
秋山好古を助けた将軍ですか。坂の上の雲には登場しますかね?。然し歴史上には未だ未だ知名度の低い偉人が数多く存在しますね。
投稿: マー君 | 2010年3月 7日 (日) 23時37分
マー君さん、こんばんは~
やはり、歴史人物の知名度は、小説によって左右されるものだとつくづく・・・
坂の上の雲には・・・
やはり、主役の窮地を救うのですから、何等かの形で登場するのでは?と期待しております。
投稿: 茶々 | 2010年3月 8日 (月) 01時51分