めざせ!救民~大塩平八郎の乱2~爆死のあとに
天保八年(1837年)3月27日、去る2月19日に大坂にて勃発した乱の首謀者・大塩平八郎とその養子・格之助が、潜伏中の町屋を捕り方に囲まれ、自ら爆死しました。
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天保八年(1837年)2月19日の朝に勃発した大塩平八郎の乱・・・
最も激戦となったとされる東町奉行所付近・・・写真左の木の前にあるのが「東町奉行所跡・碑」、右奥の木々が大阪城です。
一時は300人を越える民衆が集まって大坂城近くまで迫ったものの、結局は、幕府には歯が立たず、夕方には散り散りになってしまった軍団・・・
首謀者の大塩平八郎と養子・格之助は人ごみに紛れて、天満橋の八軒屋船着場から船で逃走しました(くわしくは2月19日のページで>>)。
あっけなく乱が鎮圧されてしまったうえに、豪商から奪った米を庶民に分け与える事もできず、あまつさえ火事を起こして被害を大きくし、結局は、目的が達成できないまま、百姓一揆にも劣るような状況には、平八郎自身が一番、くやしかったに違いありませんが、それでも、逃走して命ながらえたそのワケは・・・
やはり、「これで何か変わるかもしれない」という思いでした。
誰も、はなから幕府を倒そうなどとは、思っていません。
「この騒ぎが江戸に伝わり、あのワイロまみれの実態を告発した密書が幕府中核に届いたなら、江戸で何かが起こり、変化があるかもしれない」・・・
おそらくは、そう思って大塩親子は隠れ家に身をひそめ、世間の様子を伺っていたのでしょうが、残念ながら、2月19日のページで書かせていただいたように、その密書は途中で開封され、宛先の江戸の幕閣に届く事はありませんでした。
挙兵から40日経った天保八年(1837年)3月27日、大坂市中の靭油掛(うつぼあぶらかけ)町の隠れ家に潜伏していた大塩親子を、大坂城代・土井利位(としつら)(7月2日参照>>)と家老・鷹見泉石(たかみせんせき)の率いる探索方がとり囲みます。
その事に気づいた大塩親子は、決意を固め、かねてから用意してあった爆薬に火をつけて、壮絶な爆死を遂げたのです。
焼け跡から引きずりだされた死体は、顔が識別できないくらい黒こげになっていたと言います。
幕府はこれで、乱が終結した・・・と安堵したに違いありません。
しかし、これからが幕府の予想を超える『大塩の乱・第二幕』の始まりだったのです。
挙兵に参加した人々の大半は、大坂の街中の者ではなく、周囲の村々の農民でしたから、大塩の大火で焼け出された人々は、いわば乱のとばっちりで、何の関係もなく火事にあってしまった大坂市中の町民たちです。
にもかかわらず、町民は誰一人として平八郎を恨むことなく、大塩親子がまだ潜伏中の頃などは、「たとえ賞金が銀百枚に増えようが大塩さんを売ったりするか!」といったようすでした。
世論がそんな風でしたから、誰の物とも判別できないような、あの大塩親子とおぼしき死体は、様々な憶測を呼ぶことになります。
数日後には、早くもアノ死体は影武者のものだという噂が大坂市中に流れ、町奉行の市内巡回が中止になってしまうという事態がが起こります。
その後、平八郎の影は様々な所で出没するようになり、噂が噂を呼んで・・・
「平八郎は船に乗って清国(中国)へ逃亡した」
「いやシベリアに逃げた」
などの噂が飛び交います。
ちょうど、その頃、江戸湾深くにアメリカのモリソン号が侵入してくるという事件もあり、
「平八郎はアメリカに助けられ一緒に幕府を攻めに来る」
という話まで、まことしやかにささやかれるようになります。
また、乱の前にばらまいたアノ『檄文』が、人から人へ伝わり、回りまわって、その文に刺激された国学者・生田万(いくたよろず)が、遠く越後(新潟県)・柏崎で発起したり、大塩門弟と名乗る人物が摂津・能勢で兵を挙げたり・・・といった事が各地で起きるようになりました。
しかし、それにもかかわらず、どういうわけか翌年の天保九年(1838年)になっても、大塩一派への処刑はおこなわれる事はありませんでした。
多くの人は、そのことを不思議がり、
「大塩親子、昨年死せしは偽りにて、今以って生存するなり」
という謎の文まで出回り、その都度、幕府を震撼させました 。
しかたなく、幕府はその年の9月になって、やっと彼らの処刑を行いますが、その光景は異常なもの・・・十九のはりつけの柱には、たった一人を除いて、塩漬けの死体がぶら下げられていたのです。
当然、どれが誰の死体かすら判別できません。
その日、大坂飛田の処刑場に見物にきた人々は、はたして自分の見たものが、本当に平八郎の死体なのか?と逆に、生存説を信じ込む人が増えたなんて事にも・・・
徳川幕府にとって大塩親子は賊軍・・・なので、その後も必死になってあることないこと平八郎の悪い噂を流し続けますが、大坂市中の町民も、周辺の農民も、そのような中傷はガンと跳ね除けて、「自分たちのために自身を犠牲にしてくれた大恩人」という気持ちを強く持っていて、アノ『檄文』をひそかに隠し持って、永く手習いの手本にしたと言います。
天下の台所・大坂で、しかも元幕吏によって起こされたこの事件は、幕府にも、一般市民にも大きな影響をあたえました 。
とは言え、ストイックで直情的な性格でもあった平八郎・・・一方では、この乱は民衆のためというよりは、与力として功績を残したうえに陽明学にも精通し、多くの弟子を抱えていた彼には、揺るぎないプライドがあり、何度も幕府に提出した改革案を、ことごとく無視された事に対する個人的逆恨みであったという見方もあります。
しかし、私個人的には、生まれ育った場所を舞台に繰り広げられた一大ドラマ・・・やはり、「大塩はんは、ウチら庶民のために立ちあがりはったんや」と思いたいです。
明治維新をさかのぼること30年前の出来事・・・平八郎が生きていたらどのような維新を迎えた事でしょうね。
★大塩ゆかりの地へに行きかたは、本家HP【大塩平八郎の足跡をたどる】でどうぞ>>
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コメント
必ずと言っていいほどあるのね、生存説!ここまで来ると楽しくなっちゃいます。外国でも「我こそはルイ17世」「その子孫で~す」って人もたくさんいたっていうから洋の東西を問わず、歴史上必ずあるんですね、生存説。竜馬も生きてたらいいなぁ~…
投稿: Hiromin | 2010年3月27日 (土) 21時01分
Hirominさん、こんばんは~
やっぱ、ヒーローにはつきものですね~生存説・・・
龍馬の場合は、事件の直後に仲間がかけつけて、本人と確認しているので、さすがのヒーローも、「生存」というには至らないのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2010年3月27日 (土) 21時20分
誰か平成の大塩平八郎になって、民主党壊滅の旗頭に立ってほしいです。
投稿: | 2010年3月29日 (月) 23時09分
龍馬きどりの人はいましたが、ブームに乗りきれなかったようですね。
投稿: 茶々 | 2010年3月29日 (月) 23時15分
あんな…お母ちゃんから小遣いタンマリ貰ってヌクヌク生活してる失言ポッポが竜馬の訳がない!それこそ今期最大の失言だ!龍馬の脱藩は一度きり、失言ポッポは(脱藩)離党及び移籍を何度となく繰り返してます。あんなアンポンタンに龍馬を名乗ってほしくはないですね。
投稿: | 2010年3月30日 (火) 09時23分
あの発言に、龍馬ファンの方々があまりお怒りにならなかったところに、フトコロの大きさを感じました。
投稿: 茶々 | 2010年3月30日 (火) 13時41分
記事興味深く拝見しました。
大阪に住んでいないので知らなかったのですが、永らく生存説がささやかれていたとは。幕府はさぞ困ったでしょう。
大塩は犯罪捜査担当をやっていただけあって、どうすれば幕府が一番困るか分かってやっていたのですね。
昨日の「BS歴史館」では大塩が役人や大阪商人の不正を正しておきながら、水戸藩にお米を送っていた、という話にも言及していました。水戸藩から幕府に圧力をかけて欲しい、ということらしいです。
さて、最近は大阪でもなにかとデモが行われていますね。日本人が権威に弱いなんて決め付けですよね。
投稿: りくにす | 2012年7月13日 (金) 13時19分
りくにすさん、こんばんは~
特に、江戸時代の大坂人は、幕府という権威に屈しなかったと思いますよ。
徳川の時代にも太閤下水を町人たちが管理して守り続けましたしね。
投稿: 茶々 | 2012年7月14日 (土) 02時15分
「BS歴史館」でも大塩親子が太閤下水を使って逃げた、と言っていました。
下水道が無かったらこの話の結末はつまらないものになっていたわけですね。
いいな~大阪。
投稿: りくにす | 2012年7月14日 (土) 10時05分
りくにすさん、こんばんは~
太閤下水は、今も現役で活躍中です。
以前は、関係者以外は見られませんでしたが、今は、道に覗き窓が設置されていて、常時、上から覗きこめるようになっています。
投稿: 茶々 | 2012年7月15日 (日) 03時46分