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2010年3月17日 (水)

景虎VS景勝~御館・落城

 

天正七年(1579年)3月17日、上杉景虎の籠る御館が、上杉景勝の攻撃により落城しました。

・・・・・・・・・・・・

相模(神奈川県)北条氏康の七男として生まれながら、幼い頃に早雲寺というお寺に預けられ、西堂(せいどう)と呼ばれて修行に励み、このまま僧として一生を歩んでいくかに思えた少年は、ある時、三国同盟の一環として甲斐(山梨県)の武田信玄のもとに送られ、武田三郎と名乗ります。

天文二十三年(1554年)に結ばれた、その三国同盟とは、
信玄の嫡男・義信のもとに今川義元の娘が嫁ぎ、
義元の嫡男・氏真(うじざね)のもとに北条氏康の娘が嫁ぎ、
氏康の嫡男・氏政のもとに信玄の娘が嫁ぎというテレコテレコの政略結婚で固く結ばれた甲斐駿河(静岡県東部)相模(神奈川県)のアレです(3月3日参照>>)

しかし、永禄三年(1560年)あの桶狭間織田信長の手によって義元が命を落とし、その後、信玄が駿河に進攻しはじめた事で、その同盟関係は崩れます。

信玄の駿河攻めに激怒する氏康は、当然、息子・氏政と結婚していた信玄の娘を離縁させますが、もちろん、かの武田三郎と呼ばれた彼も北条へと戻らせ、3人息子を亡くして落ち込む北条幻庵(氏康の叔父)(11月1日参照>>)の養子として北条三郎と名乗らせます。
(*史料が少ないため、武田へ入った事はなく、ここではじめて三郎を名乗ったとする説もあります)

ここで北条は、武田との同盟破棄とともに、逆に越後(新潟県)上杉謙信(当時は輝虎)と同盟関係になろうと、氏政の息子・国増丸(くにますまる)を養子に出す事にしますが、この国増丸が未だ5歳の幼子とあって、どうにもこうにも氏政が手放す事ができません。

そこで再度会議を設けて人選のしなおし・・・そして選ばれたのが、まだ幻庵の養子になったばかりの三郎でした。

元亀元年(1570年)4月、上野沼田城で三郎に面会した謙信は、「こんな僕(本人は愚老って言ってます)に三郎さんを譲ってくれて、来世でも自慢できますわぁ~」と大喜び!

若き日の自分が名乗っていた名前を彼に与えて、その月末には姪っ子と結婚させて、本拠地・春日山城の二の丸に住まわせます。

そう、この少年が上杉景虎(かげとら)です。

当時、
♪三郎殿と一夜契れば・・・♪
と杵歌に唄われたくらい、女の子にモテモテのイケメンだったとの評判の16歳・・・さぞかし、謙信のお気にも召した事でしょう。

こうして、信玄をけん制すべく、謙信と同盟を結んだ北条は、度々関東への出兵を要請したりしましたが、当時、北陸方面の攻略に力を注いでいた謙信は、あまり関東まで手が回らず・・・やがて氏康が亡くなって後を継いだ氏政の時代になって、謙信に期待できないと感じた氏政は、逆に武田とよしみを通じるようになります。

・・・て事は、上杉と北条は敵対関係に・・・しかし、謙信は景虎を北条に返す事はありませんでした。

その理由に関しては、かの同盟の時に交わした上野の支配権・・・これを有効にしておくため、完全に北条との縁を切りたくなかったから?とも、すでに、景虎に関東管領を継がせるという暗黙の了解みたいなのが、謙信の中にあったから?とも言われますし、すでに景虎が、上杉家での人望を得ていたからだとも言われます。

一方、その景虎のライバルとなる景勝ですが・・・
ご存知のように、彼は、謙信の姉・仙桃院(せんとういん)長尾政景(まさかげ)(8月1日参照>>)の息子・・・つまりは、景虎の妻となった謙信の姪っ子の兄もしくは弟という事になります(姪っ子の年齢がわからないので・・・)

この景勝が謙信の養子になったのは、父・政景が亡くなった直後の5歳の頃という話もあれば、喜平次顕景(きへいじあきかげ)から景勝へと名を改め、上杉弾正少弼(だんじょうしょうひつ)と称するようになった天正三年(1575年)という話もあり・・・もし、後者の場合だと、景虎との関係がすこぶる微妙ですが・・・。

しかし、さらに微妙だったのが、3人の養子の中でも後継者に近かったこの二人のうち、どちらに後を継がせるかを、謙信が表明しないまま倒れてしまった事・・・(3月13日参照>>)

天正六年(1578年)3月・・・まだ、謙信が息のある間に、春日山城の本丸と・武器庫・金蔵を占拠して、自らが後継者を宣言した景勝・・・一方、二の丸にいた景虎は、本丸に入れてもらえず、謙信に会う事も叶いませんでした。

間もなく謙信が亡くなると、景勝は景虎のいる二の丸を攻撃・・・しばらくは、もちこたえるものの、やがて、景虎は御館(おたて)へと移って、景勝との戦線に対峙します。

この御館は、謙信に関東管領職を譲った上杉憲政(のりまさ)の住まうところ・・・やはり、関東管領を継ぐのは自分である」という思いが、景虎にはあったものと思われます。

当の憲政も、景虎を受け入れているところを見れば、やはり、そのつもりがあったという事でしょうし、このあたりの景虎が、景勝らと互角に戦えるのも、古志長尾家の有力武将をはじめ、多くの者が、景虎の味方についていたからなわけで、それも、ある程度、景虎が後継者である事を、周囲が認めていた証拠とも言えます。

しかし、長期戦になると武器庫と金蔵をおさえている景勝側は強い!・・・金に物を言わせて、景虎の実家である北条と同盟関係にあった武田勝頼を寝返らせ、この一件に関与しないようにさせます。

残る景虎の頼みは、その実家の北条ですが、その援軍は上野坂戸城まで攻め込みながら間に合わず・・・

やがて、年が明けた天正七年(1579年)、景勝軍の包囲網で孤立した御館は、兵糧不足が深刻化し、離脱する者もあとを絶たなくなり、とうとう天正七年(1579年)3月17日、落城してしまったのです。

落城に際して、かの憲政は、景勝との和睦交渉をするため、人質として差し出すつもりの9歳になる景虎の息子・道満丸(どうまんまる)を連れて脱出し、春日山城へと向かいますが、その途中で、この二人は景勝側によって討たれてしまいます。

ここで、一旦は自刃を決意する景虎を、説得したのは、かの景勝の姉・もしくは妹とおぼしき女性・・・彼女は「ここで死んではいけません!逃げて、本意をまっとうしてください!」と、夫を逃亡させ、自らは、兄(弟)の軍勢に包囲されて炎上する御館にて自害したのです。

しかし、逃げた景虎が頼った鮫ヶ尾(さめがお)は、すでに景勝側に丸め込まれており、頼る場所のなくった景虎は、3月24日、北条から従えてきた家臣らとともに、その26歳の命を捨てたのです。

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上杉景勝・書状(新潟県立博物館蔵)

この御館の乱に関して、景勝が太田資正(すけまさ)(9月8日参照>>)に宛てた手紙によれば・・・
「昨年からのウップンを、やっと晴らせたぜ!」
とあり、この景虎との一戦に、景勝の私情が含まれている事をうかがわせます。

・‥…━━━☆

どうですか?

昨年の天地人と・・・
もちろん、ドラマの主役は景勝側の愛の人なので致し方ないところですが、描きようによって、こんなにも印象が違ってしまう事をわかっていただけたらうれしいです。
(このあたりの「天地人」の感想は2009年4月20日のページでどうぞ>>)
 

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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんにちは!
景虎=御館の乱ネタって事でTBさせて頂きます!
この書状はなかなかの逸品ですね。なんだか景勝の下剋上=お家乗っ取りがありありと見えてきそうな感じ…

投稿: 御堂 | 2010年3月17日 (水) 13時39分

御堂さん、TBサンクスです。

やっぱ、景虎のほうが正統だった雰囲気しますね~

それよりなにより、男前の景虎さんの関東管領姿を見てみたかったですが・・・

投稿: 茶々 | 2010年3月17日 (水) 14時54分

実際の御館の乱の経緯が、「天地人」とは少し違いますね。謙信が死ぬ前に蔵を押さえていたとは。ちょうど去年の今頃、テレビでこの顛末が始まった所でしたね。
ところで本文中で景虎の正室を「華姫」とは呼んでいませんが、実際は別の呼び方があったんですか?確かに「華姫」が景勝の姉か妹かわかりませんね。

もうすぐ「ブログ登場800人」になりますね。今週中にも達成?

投稿: えびすこ | 2010年3月17日 (水) 16時22分

ここに書かれている通りに(史実に忠実に)へたな!!!脚色を加えないほうがどれほど面白く、文字通りドラマチックな展開になってたことか!ホントに茶々さんに脚本書いていただきたい。しかし、私もホンとお馬鹿でして最近ただでさえ人の名前が覚えられなくなったとこへ一人の人間がいくつも名前を変えるので、実はこっそりメモに名前を書き出して確認。「えっと、この人は元○○と○○で、こっちの人とこういう関係で・・・」てな具合に・・お恥ずかしい。こちらのブログさん、楽しいだけでなく頭の体操、老化予防にもなってます。ありがとうございます。

投稿: Hiromin | 2010年3月17日 (水) 20時41分

えびすこさん、こんばんは~

景虎の奥さんは、確か実名が伝わってはいないと思います。

おそらく、法名が「華渓昌春大禅定尼」なので、ドラマでは華姫としたんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年3月17日 (水) 21時33分

Hirominさん、こんばんは~

ホント!
名前がややこしいですよね~

しかも、昔の人は、実際には実名を呼ぶ事がほとんどなく、たとえば、今回の場合だと、景虎は三郎だったり、景勝は弾正だったり・・・
頭、混乱しなかったんですかね???

投稿: 茶々 | 2010年3月17日 (水) 21時40分

愛だの義だの友情だの…そう云うのを書こうと思ったら、下手な脚色は止めて史実は史実通りに描き、凄惨な場面も綺麗事にして誤魔化さず真正面から捉えなきゃ駄目ですね!そう云う汚い部分や辛い場面をキッチリ描いてこそ、愛やら義やら友情なんかが、生きてくるんですよね。

投稿: マー君 | 2010年3月17日 (水) 22時20分

う〜ん、ちょっと景虎を持ち上げすぎじゃないですか?二の丸に居たってのも、不確か、というか最近は否定されがちですし。
古志長尾を持ち出すなら、古志長尾が上田長尾と仲が悪かった事、また当時謙信を支えていた重臣や謙信の他の養子達は、最初から景勝方だった事も書いてやらないと不平等でしょう。このへんのつじつまの合わなさも、謙信が後継者をどう考えていたのか謎と言われる所以な訳ですし。

自分はどちらかが正当な後継者だったと言うのではなく、どちらも後継者に指名されてなかったと考えてます。謙信の死後、この二人が後継を争ったので、謙信は後継をこの二人のどちらかと考えていたと言われるだけで、謙信の心の内には別な後継者がいたかもしれないとも。後継が実子じゃなく養子でいいのなら、あらたに心中の人物を養子に迎える心積もりがあったかもしれないんですよね。古い権威を尊ぶ謙信の事ですから、将軍家ゆかり、または上杉家ゆかりの人物を考えていた可能性はあるのでは、と思うのですが・・。

投稿: たまこ | 2010年3月18日 (木) 00時41分

今晩は?

こちらは時代小説なんでしょうか?

最近、郷土史家のサイトで面白い書状の資料(コピー写真)を見つけたので、参考にでもどうぞ。

〔姓と官職の譲渡状〕「(中略)上洛して幕府・朝廷に謁見した際、この崇高な官職(関東菅領?)を賜りました。
このたび貴方にこの官職と上杉姓を譲ります。
ますます職務に励むように。
おめでとう。

 喜平次 殿

      謙信」

(2通目)
「追伸 つきましては名前も景勝と改めるように」

 という書状でした。
景勝が21才の時のようです。
(ちなみに「御館の乱」の時は23才だったでしょうか)

いずれも何かの参考になさって下されば幸いです。

 失礼しました

投稿: 通りすがり | 2010年3月18日 (木) 01時45分

マー君さん、こんばんは~

まぁ、ドラマはドラマなので脚色は当たり前なんですが、できれば、よりオモシロイ方向に脚色していただきたいですよね。

まぁ、今思うと、逆におもしろかったですが・・・

投稿: 茶々 | 2010年3月18日 (木) 03時15分

たまこさん、こんばんは~

少し持ち上げすぎましたか?
しかし、ご覧になっての通り、今回は景虎さんを主役にすえて書いておりますので、少しばかり持ち上げてみました。

上条さんほか、景勝さんのお味方については、すでに、このブログに何度か登場していますので、今回は、あの天地人との比較の意味で、(ドラマではあたかも、あの遠山さんしか味方がいなかったように見えたので)景虎にも賛同者がいたという事を主に伝えたかったので省かせていただきました。

投稿: 茶々 | 2010年3月18日 (木) 03時23分

通りすがりさん、こんばんは~

時代小説に見えましたか?
でも、ここは一般的な歴史を書いております・・・もちろん、個人の趣味のブログなので、私見も入ってますが・・・

ところで、ご指摘の史料ですが、貴重な書状の発見により、それまでの歴史が覆される事は多々あります。
有名なのは、斉藤道三のサクセスストーリーが、実は親子2代の話だったというのが、六角氏の一枚の書状でひっくり返った事があります。

ただ、ご提示いただくのであれば、どのような状況で発見されたどのような史料であるのかを教えていただかなければ、何とも言いかねます。
その郷土史家のかたのサイトに行けば書いてあるのでしょうか?
URLもわからないので、その「崇高な官職」が、なぜ、関東管領職だと言えるのかの根拠もわかりません。

ちなみに、当時はかぞえ年なので、御館の乱の時の景勝は25歳ではないかと・・・そして、本文にも書かせていただいたように、一般的には、天正三年に景勝と名を改め、上杉弾正少弼と称するようになったとされていますが、それが21歳だったと思います。

ただし、その根拠となる謙信筆とされている書状でさえ、景勝と筆跡が酷似している事から、「景勝の自作自演ではないか?」との疑いを持つ歴史家もいらっしゃいます。

なので、そのご指摘の書状が、専門家による今後の研究次第で、歴史が変わるのか?変わらないのか?大変興味深いです。

ただ、景勝が、そのような伝家の宝刀を持っていたのなら、武力でない方法で、景虎と決着をつけてほしかったなぁ~と残念でなりません。

投稿: 茶々 | 2010年3月18日 (木) 03時44分

こんにちは。
初めてコメントするものですが・・・
もしかして史料の紹介間違えられてません?
「愚老が〜」って大喜びしてるのは氏康の方じゃなかったでしょうか?
謙信の書状にそんなのあったかなあ。
それから「去年以来の鬱憤〜」も太田宛て書状じゃなく、景虎の死後に景勝がある家来に宛てて出したものです。
確かに、謙信死後に太田宛てに出した書状にも鬱憤って言葉はあったと思いますが、前に「謙信が子細を申し置き、その上鬱憤〜」と続き意味が違うような・・・
実は景勝、このような後継者宣言をいろんな人に出してます。ほとんど同文ですが、なぜか太田宛てだけにはこの「鬱憤〜」が入ってる。
実は、太田資正という御仁は、謙信が北条と和解した後も、謙信と袂を分かち北条氏と闘い続けた人だそうです。こっちも北条には鬱憤ありますからから、以前のように再び仲良くして下さいって意味かも。
弾正少弼任官の書状は茶々さんがおっしゃるように謙信の自筆じゃない可能性が高いと思います。ただ最近の研究者の書いてるものを読むと、書状はともかく譲られたことは間違いないのかなあ?という感じがします。
それから景虎が武田に行ったことは、今は否定的みたいですね。となると「武田三郎殿と〜」の戯れ歌も成り立たないことに・・・
でも美少年を間者にしたてて謙信の元に送ったと書かれてる江戸時代の軍記は無視するとしても、謙信には「若衆好き」って確実な史料が残ってますんで、研究者も北条方は美少年の景虎が謙信に気に入られることを見越して越後に送ったと言ってる人もいますよ。
謙信の後継者に関してはは難しいですね。なんでも謙信は気分がころころ変わる人だったみたいです・・・

投稿: みい | 2010年3月18日 (木) 16時53分

すいません。私も勘違いしてました。
確かに謙信の書状に「柿崎子、当陳ニ而氏郡ニ被取替、三郎方給置、愚老来世迄之可為面目候事、」ってありました。
でもこれは、3月5日に出されたもので、景虎が沼田城につき謙信と対面した4月11日より前に出されたものです。
謙信が約束通り、姪と結婚させ養子にしてくれたのを大喜びした氏康書状と勘違いしてました。

投稿: みい | 2010年3月18日 (木) 17時30分

みいさん、いろいろありがとうございます。

景虎の書状もありますので「弾正少弼」は、間違いがないところだと思いますが、そもそもは、おっしゃるように謙信が、思いつきというか、神がかり的な雰囲気での行動が多いため、周囲も、そして後世の人も混乱して、様々な意見になるのだと思います。
まぁ、「あーだ」「こーだ」と言ってるのが楽しいんですが・・・

投稿: 茶々 | 2010年3月19日 (金) 01時39分

管理人さんへ

 この前はどうもです。
ひとつ訂正があります。
上杉姓と官位の譲渡の書状の中の官位の部分、自分の間違いでした。
「弾正少弼」でしたね。
 自分の使用している機種では記事が貼れないので申し訳ないです。

それと、皆さんが謙信を「コロコロと気が変わる訳の分からない的な人」と評していますが、謙信は一貫して「足利幕府に忠節を誓い、筋目を通して生きる」という一貫した生き方をしていますよ。
 新潟県史や上越市史などの郷土史では、上杉家文章や書状がたくさん残っていて充実していますので、よろしければ是非ご参考になさってみて下さい。

 それでは、これからも研究を楽しんで下さい。
失礼します。

投稿: 通りすがり | 2010年5月17日 (月) 02時54分

通りすがりさん、返信ありがとうございます。

他の方のお考えはどうかわかりませんが、私が「謙信が思いつき、あるいは神がかり的な雰囲気での行動が多い」と書かせていただいたのは、人生の生き方ではなく、個々の細かな行動の事です。

第二次と第三次川中島の合間に、突然出家すると言って高野山に行くのもそうですが、こと毘沙門天に関しては、信者の域を超えて、自らが(毘沙門天の)化身であると思っていたような所があり、普通なら「それは危険だろ!」と思って躊躇するような行動を、「自分は毘沙門天に守られているので平気!」とばかりに大将でありながらやってしまうといった感じのものです。

第一次の時も、合戦前に、たった一騎で自軍の前に出て、敵との間を駆け抜けるという、身の安全に関して理解し難い行動をとってますが、そういった感じの行動に事だとご理解いただければ幸いです。

投稿: 茶々 | 2010年5月17日 (月) 14時05分

天地人の上杉主従にはムリな景虎襲撃でも、真田丸の上杉主従ならば可能だと思いました。
作中でお人好し呼ばわりの上杉景勝も、春日信達を張り付けにして晒しものに出来る冷徹さがありますし、氷のような真田丸版直江は言うに及ばず。
叶うならこの二人をメインに描かれた御館の乱を見てみたいですね。
最盛期の昌幸位、ヒドイ上杉主従になりそうですが…。

投稿: パイナップル | 2016年8月 5日 (金) 22時38分

パイナップルさん、こんばんは~

「天地人」の景勝主従は、ある意味スゴかttです。
ドラマの場合、主人公に抜擢されるとイイ人に描かなきゃいけないルールがある雰囲気なので、なかなか難しいですね。

投稿: 茶々 | 2016年8月 6日 (土) 02時19分

北条氏政の弟として生まれた上杉景虎(北条氏秀)は、時代に翻弄されたといっても過言ではないと思います。なぜなら、桶狭間の戦いで、今川義元が戦死したことがきっかけとなって、武田信玄(出家前は、晴信)・景虎の父親である北条氏康との三国同盟が破綻したからでしょう。そのため、氏康は、上杉謙信(最初の名は、長尾景虎)との越相同盟を結ぶために、景虎を人質として送ったわけですからね。しかも、謙信が急死したことで、景虎が、謙信の実の甥である上杉景勝に敗北して、自害する悲劇に見舞われたのは、運に見放されてしまったような気がしました。

投稿: トト | 2017年1月17日 (火) 09時59分

トトさん、こんにちは~

運に見放された…というよりは、「謙信ヤバす」になった最初の段階での情報を景勝側に独占されて、先に本丸を占拠されてしまった事がイタかったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2017年1月17日 (火) 10時22分

茶々さん、こんばんは。
私は天地人は嫌いです。やたらと直江兼続を英雄視していませんか。戦も下手、作戦も下手の直江が良いと思いません。
ところで御館の乱で思い出すのは景勝がかなり狡いのと景虎退治のために北信濃の領地を武田に譲ったですね。失敗したら大事でした。おまけにそれで信長の死が無かったら上杉はそれで滅亡していました。信長が命令で武田攻めをした時に菊姫関係で出兵しなかったし、魚津が落城した時にはもはやこれまでと言うところだったのも御館の乱の影響です。私は景勝、直江は本当に先を考えていたと思えません。

投稿: non | 2017年1月18日 (水) 18時28分

nonさん、こんばんは~

信長の死は上杉にとって大ラッキーでしたね。
信長が本能寺で倒れていなかったら、おそらく負けてました。

投稿: 茶々 | 2017年1月19日 (木) 03時32分

茶々さん、おはようございます。
信長が倒されても信忠が生きていたら上杉は滅んでいたかもですが、信忠の正室は形上松姫なので、信忠の元にいたらお願いします助けてくださいと言っただろうなと思いました。
ところで信忠の正室の松姫と景勝の正室の菊姫ですがどちらが姉なのでしょうか?
仁科、木曽夫人、穴山夫人は年上なのはわかりますが、どうなのかわかりません。井上靖の小説では松姫が姉になっていますが、おんな風林火山では菊姫が姉です。どうなのかなと思いました。
ただ秀吉が言う様に勝頼、仁科は残していたら明智の謀反にも対応できたなと思いました。
信長が生きていたら多分上杉は滅亡したでしょう。松姫は京都に信忠と一緒に住むが、菊姫は頭を完全に剃った尼になったかなと思いました。
松姫

投稿: non | 2017年1月19日 (木) 10時34分

nonさん、こんばんは~

歴史には、決め手となる史料が無い事が多々あります。
そのぶん、想像は自由ですが…

投稿: 茶々 | 2017年1月20日 (金) 04時00分

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