物部守屋VS蘇我馬子~仏像投げ捨て事件
敏達天皇十四年(585年)3月30日、仏教に反対する物部守屋らが、塔・仏殿を焼き、仏像を川に捨てました。
・・・・・・・・・
『日本書紀』によれば・・・
欽明天皇十三年(552年)10月13日、朝鮮半島は百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から、釈迦仏の金剛像1体と仏具・経典をセットにして贈られてきます。
『元興寺縁起』などによれば、それは538年の事とされ、未だにどちらが正解かの決定打はないものの、いずれにしてもこの6世紀の中頃までに、百済から仏教セット一式が贈られてきた事は確かで、これが教科書にも載る仏教伝来です。
この時期、不安な朝鮮半島の情勢の中、高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)に圧迫されつつあった百済としては、日本との交易をさらに密にして、いざという時は味方についてもらいたいとの思惑がらみのプレゼントなわけです。
・・・で、ご存知のように欽明天皇は、居並ぶ臣下の者に尋ねます。
「礼(うやま)うべきや 不(いな)や?」
大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ)は、
「近隣諸国が皆やってまっせ! ウチだけ拝まんわけにはいきまへんやろ」
一方、大連(おおむらじ)・物部尾輿(もののべのおこし)や、中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)らは、、
「わか国には、すでに固有の神がおられ、他の国の神を拝めば、国神(くにつかみ)がお怒りになるやもしれませぬ」
・・・で、結局、天皇はその仏像一式を稲目に与え、
「まずは、私的に拝んでみろ」
と、その効果のほどを試すかたちとなりますが、残念な事に、まもなく疫病が大流行・・・おびただしい死者の数にビビッた尾輿たちが、天皇に仏像の破棄を奏上し、彼らの手によって、日本最古の仏像は難波の掘江に捨てられます。
こうして、蘇我VS物部の構図ができあがるわけですが、ご存知のこの事件・・・実は同じ事件が2度あります。
時は、この1度目の事件から約30年後・・・それぞれの子供たちの世代になってからの事です。
西暦572年に、欽明天皇の後を継いで第30代天皇として即位した敏達(びたつ)天皇は、大連に尾輿の息子・物部守屋(もののべのもりや)を、大臣に稲目の息子・蘇我馬子(そがのうまこ)を任命します。
大連・大臣とは・・・
ともに、連(むらじ)姓の豪族、臣(おみ)姓の豪族をそれぞれに束ねつつ、朝廷の最上位に位置にて天皇を助けるリーダー的存在・・・
これまでは、なんだかんだ言いながら、天皇の配下として朝廷の最上位に君臨していた物部氏に、蘇我氏が追いついたのもこの頃なのですが、これ、ひとえに先代の稲目と息子・馬子の天皇取り込み作戦のたまもの・・・。
まずは、稲目の娘二人=堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の妃として皇室に送り込みます。
そして、それぞれの子供が、
男の子の場合だと、天皇と他家の女性との間に生まれた女の子を娶り、後継者のイスに座る・・・
女の子の場合だと、天皇と他家の女性との間に生まれた男の子と結婚させ、子供を産む・・・当時は、兄弟でも、母親が違っていたら結婚の対象となりましたからね。
つまり、わずか2~3世代で、天皇家は、蘇我氏の血を受け継ぐ人だらけとなるわけです。
おかげで、有名な聖徳太子などは、父方のおじいちゃんも母方のおじいちゃんも欽明天皇という、「お年玉はどないなんねん!」「ランドセルは誰が買うてくれんねん!」という複雑な状況となってます。
次に、渡来人を篤く庇護して、その技術を導入する事・・・
以前、仏教伝来のページ(10月3日参照>>)で蘇我VS物部の全体像をサラッと書かせていただいているので、その内容と少し重なりますが・・・
そこでも書かせていただいたように、蘇我氏自身が、実は渡来系だったとも言われており、「満智(まち)→韓子(からこ)→高麗(こま)→稲目」と、この稲目の曽祖父にあたる満智という人が、約5世紀頃の百済の国で国政を荷っていながら、国王の母親と不倫をしたために国を追われ日本にやってきた木満致(もくまち)という人物と同一人物ではないか?とも言われ、そこから蘇我氏が始まったとも・・・
その真偽はともかく、それまで政界の中枢にはいなかった蘇我氏ですから、古いしきたりにとらわれる事なく、どんどん外国からの技術推進派に回る事ができたわけです。
当時の渡来人たちは、軍事は坂上(さかのうえ)氏、芸能は平田氏、文筆は文(ふみ)氏といったぐあいに、それぞれの専門的技術を氏ごとで専有して後継者を育成し、明日香や葛城や河内一帯の専用区域で暮らしていたわけで、彼らをまとめあげて朝廷とのパイプ役をやっていたのが蘇我氏という事なのです。
かの『日本書紀』にも・・・
「欽明天皇の時代に高句麗から送られてきた国書を、朝廷内の誰も読む事ができず、かつて船長(ふねのつかさ)に抜擢した事のある稲目の知り合いの帰化人・王辰爾(おうじんに)なる人物を呼び寄せてやっと読む事ができた」
なんて事が書かれていて、渡来人の知識や技術を必要とし、その仲介を稲目がやっていたであろう事が読み取れます。
一方の物部氏は、神代の時代から軍事や天皇家の祭祀を司る役どころですから、当然の事ながら、伝統を重んじる立場にあり、なんでもかんでも外国の技術を導入する事に反対する保守的な姿勢であったとされます。
冒頭に書いた仏教の導入に関しても、賛成する稲目と反対する尾輿は、まさにその構図の通りという事になります。
・・・で、前回の初の仏教伝来から約30年後の敏達天皇十三年(584年)、再び百済から弥勒石像がプレゼントされます。
今度は、以前の父・稲目の時より、チョイとばかり権力を握っている馬子さん・・・早速、渡来人の司馬達等(しばたつと)らに命じて、播磨(兵庫県)にて、すでに還俗(げんぞく・出家した僧が一般人に戻る事)していた僧・恵便(えべん)を呼び戻し、彼を師として、達等の娘・3人を尼にしました。
善信尼(ぜんしんに)・禅蔵尼(ぜんぞうに)・恵善尼(えぜんに)と・・・この3人の娘さんが、日本初の尼僧という事になるのですが、お家のためとは言え、世の空しさを感じたわけでもないのに、出家するのは、ちと気の毒な気がしないでもありませんが・・・
そんな事はおかまいなく、これをチャンスとばかりに、はりきる達等・・・翌年には大野の丘(奈良県橿原市)に仏塔を建てて仏舎利を収め、大々的な法要も行います。
ところがどっこい、またもや疫病が大流行・・・
「やっぱり、日本の神様がお怒りや~!」
とばかりに、守屋&中臣勝海(なかとみのかつみ)ら保守派は敏達天皇に奏上・・・「仏法流布中止の詔(みことのり)」の発令の後、敏達天皇十四年(585年)3月30日、3人の尼たちを捕らえて監禁するとともに、馬子と達等らが建立した仏塔を焼き払い、焼け跡から見つけた仏像を難波の掘江に投げ捨てたのです。
ちなみに、書籍によっては、この難波の堀江を、「難波(大阪市)」としているものもありますが、最初の仏教伝来の時に仏像を安置したとされる豊浦寺(とゆらでら・現在の向源寺)の一角には、難波池(なんばいけ)と呼ばれる池があり、地元の伝承では、ここが仏像を投げ込んだ難波の堀江であるとされています。
しかし、今度の蘇我氏は、やっぱり強気!
それでも、断固として礼拝を続ける馬子に対して、敏達天皇も私的な信仰は許す事にして、拘束していた3人の尼たちも彼らのもとに返しますが、これに関しては、守屋のほうが、ちと不満・・・
同じ年の8月には、敏達天皇が崩御されますが、わずかに均等を保っていたこの天皇の死は、その殯宮(もがりのみや・遺体を安置する宮)での祭事の時、小柄な馬子が大きな太刀を差している姿を見た守屋が、
「まるで、矢の刺さったスズメやん!」
と嘲笑したのに対し、
緊張のあまり、震えながら弔詞を読む守屋を見た馬子が
「鈴をつけとしたら、よ~鳴ってオモロかったやろなぁ」
と、これまた嘲笑するという、あからさまな対立を生む事にもなりました。
かくして、古代の大事件の一つ、物部討伐(7月7日参照>>)・・・となるのですが、まずは、そのお話は、きっかけの人ともなる推古天皇のページをどうぞ>>
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コメント
素晴らしい。爆笑しました。ありがとうございました。
投稿: | 2013年2月 7日 (木) 14時26分
楽しんでいただけましたか?
ご訪問、ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2013年2月 7日 (木) 14時56分