島津軍から鶴崎城を奪回!女城主・吉岡妙林尼
天正十五年(1587年)3月8日、島津軍の攻撃で鶴崎城を奪われた吉岡妙林尼が、再び城を奪回しました。
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天正十四年(1586年)12月12日に島津からの総攻撃を受けた鶴崎城(大分県)の後日談です。
これまでのお話は、昨年の12月12日に書かせていただいた【島津軍から鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼】>>を見ていただくとありがたいのですが、とりあえず、サラッとあらすじを・・・
時は天正十三年(1585年)・・・薩摩(鹿児島県西部)を支配する島津義久は、九州全土にその勢力を拡大すべく北上・・・10月に入って、たまりかねた隣国・豊後(大分県)の大友宗麟(そうりん)は、四国を平定したばかりの羽柴(豊臣)秀吉に救援を依頼します(4月6日参照>>)。
もとより、天下統一を狙う秀吉にとって、この救援依頼は渡りに船・・・早速、九州平定を目指して出兵し、一方の宗麟も、本拠地の臼木(うすき)城に配下の諸将を召集し、守備を固めます。
しかし、大友の領地内には、臼木城以外にも多くの支城があり、島津勢はその支城を次々と落としながら進軍・・・やがて、11月に鶴崎城を包囲するわけですが、先に書いた通り、城主の吉岡紀増(のります・統増)は、主力部隊を連れて、主君の臼木城に出張中。
やむなく、留守を預かる紀増の母(祖母とも)・吉岡妙林尼(みょうりんに・妙麟尼)自らが、女子供と百姓兵を率いて迎え撃つ事となりますが、彼女に見事な采配で、島津勢は何度となく苦渋を味わいます。
しかしながら、鶴崎城は城とは言えど未だ屋敷に毛が生えた程度の小さな城・・・大軍に包囲された以上、待てど暮らせど秀吉の援軍が到着しない状況では、籠城するのにも限りありという事で、妙林尼は全員の命の保証を条件に城を明け渡したのです。
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島津勢を率いる伊集院久宣(いじゅういんひさのり)、野村文綱(のむらふみつな)、白浜重政(しらはましげまさ)らは、すでに多くの犠牲者を出している事もあって、すんなりとこの和睦を了解し、妙林尼には城下の一角に屋敷を与えて幽閉し、威風堂々と鶴崎城へと入城しました。
ところが、敗戦の将であるはずの妙林尼・・・意外にも、その屋敷で囚われ人とは思えない生活をします。
さすがに、彼女は負けたのですから、与えられた屋敷から自由に出歩く事などはできませんが、逆に、彼らを呼ぶ事はできます。
そう、何かにつけて妙林尼は伊集院らを自らの屋敷に呼んで、美しく着飾った侍女たちに相手をさせて、飲めや唄えの大宴会を催すのです。
ともに飲んでは、酔いにまかせて一緒に今様をデュエット!
求められれば、こっけいな踊りも披露し、徐々に両者はうち解けていきます。
やがて、ほのかな友情まで芽生えてくる始末・・・
前回のページにも書かせていただいたように、この妙林尼さん・・・史料が少なく、しかも文献によって城主・紀増の母となっていたり、祖母となっていたり、まちまちなので、その年齢がはっきりしません。
城主の紀増さんが、この頃は、未だ10代後半か20歳過ぎくらいの若者だったと考えられていますので、妙林尼さんが母だとすれば30歳過ぎ・・・祖母だとすれば50歳過ぎくらいであろうと思われますから、両者に生まれた友情のような物も、母なら、まさに恋であるでしょうし、祖母なら、母子のそれに似ているという展開になっていきます。
とにかく、「お互い、なぜ、今まで敵味方であったのだろう」と思うくらい仲良くなってしまいます。
しかし、明けて天正十五年(1587年)・・・「いよいよ、もう、まもなくの所に、秀吉の援軍が駆けつけ、ほどなく島津勢への攻撃をしかけるであろう」という情報が、鶴崎城にも舞い込んできます。
それは、島津本隊からの知らせで、「新しい作戦、新しい編制に態勢を整えるため、一旦、本隊へと合流せよ」との命令でもあったため、伊集院らは、鶴崎城をあとにし、一旦、撤退する事となりました。
ここで、妙林尼は、伊集院らに言います。
「ここまで、あなたたちと親しくなってしまったわたくしは、もう、吉岡には戻れませぬ・・・ぜひとも、ご一緒に、島津の陣までお連れください」と・・・
伊集院たちは小躍りして大喜び・・・やれ「馬を用意しろ!」「いや、輿だ!」と、大騒ぎに・・・
かくして天正十五年(1587年)3月8日、
「とにもかくにも、出立のお祝いとして、まずは、宴の席を・・・」
と、またまたお得意の酒盛りを催し、しこたまお酒を振舞います。
そして、「あと片付けを済ませたら合流いたしますので、今、しばしのお別れを・・・」と、彼らを見送り、別れを惜しむ妙林尼でしたが、ここで、かねてから手はずを整えていた伏兵を、彼らの行く手にしのばせておいたのです。
そう、実は、先日の城の明け渡しは、秀吉の援軍が、未だ到着の気配がなかったための時間稼ぎ・・・このまま、全員が討死か飢え死にするのであれば、そこで一旦、城を明け渡し、時期を見計らって奪い返そうという作戦だったのです。
やがて、予想以上に酒を飲まされ、千鳥足の島津勢が、乙津(おとづ)川に差し掛かった頃、付近に潜んでいた吉岡軍が一斉に襲撃します。
すっかりと気を許していた島津兵は、抵抗する間もなく、あれよあれよと・・・伊集院と白浜は討ち取られてしまいました。
野村だけは、深手を負いつつも何とか命からがら・・・
しかし、指揮者を失った島津勢は、大混乱におちいり、乙津川で溺れ死ぬ者、討たれる者多数・・・何とか助かった者も、ただ、ひたすら、薩摩を目指して逃走する以外にありませんでした。
こうして、再び、島津から鶴崎城を奪い返した妙林尼・・・翌日、この日、討ち取った63の首級を、宗麟のいる臼木城に送り届けたと言います。
もちろん、主君の宗麟は、「尼の身でありながら、アッパレな忠節!」と、彼女の武功を大絶賛し、息子(あるいは孫)の紀増も大感激!
一説には、現在も大分市鶴崎地区に伝わる盆踊り・鶴崎踊は、この時の妙林尼たちの酒宴での踊りを再現したもの・・・という言い伝えもあるのだとか・・・
ただ・・・後に、島津を完璧に屈服させた秀吉が、「ぜひとも、その勇猛な彼女に恩賞を与えたい」と面会を望みましたが、彼女は、固辞し続け、決して、秀吉には会わなかったと言います。
ひょっとしたら、島津の誰かさんとの間に芽生えていたほのかな恋・・・あるいは友情は、ホンモノだったのかも・・・
戦国の世に咲き、男をしのぐ強さを見せた一輪の花は、本当は、もっとひっそりと咲いていたかったのかも知れません。
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コメント
秀吉さんの女好き情報を耳にしてたので、貞操の危機を感じ取り、面会を避けた…ってのは少々勘ぐり過ぎですかね。家臣の姉妹や娘、凋落した大名の縁者の子女など、綺麗と評判の者が居たら手当たり次第に側室にしたがった秀吉さんですから、妙林尼さんほどの有名人を放っておく訳はないように感じますからね。
投稿: マー君 | 2010年3月 8日 (月) 11時24分
>伊集院たちは小躍りして大喜び・・・
所謂、死亡フラグですね。
なんて言うか、自分が振られたような気分です。
戦国の世の習いとは言え、切なくなりました。
きっとその日は、雨が降ったことでしょう。
投稿: ことかね | 2010年3月 8日 (月) 14時34分
マー君さん、こんにちは~
>秀吉さんの女好き情報を耳にしてたので・・・
昨年の「日本史サスペンス劇場」の再現ドラマでは、妙林尼さんの役を美形の女優さんが演じておられて、秀吉との関連は、そのような設定になったましたね。
再現ドラマでは野村文綱と恋愛関係にあったように描かれていました。
史料が少ないぶん、描き甲斐もあっただろうと思います。
投稿: 茶々 | 2010年3月 8日 (月) 15時41分
ことかねさん、こんにちは~
確かに、伊集院さんたちの立場に立てばせつないですね~。
・・・とは言え、世は戦国・・・この少し前には、同じ立場の岩屋城が、全員討死の壮絶な悲劇のもと、島津に奪われてしまっていますから・・・
これも戦国、あれも戦国・・・「薩摩男が純情すぎた」というところでしょうか。
投稿: 茶々 | 2010年3月 8日 (月) 15時44分
はじめまして
毎日楽しく拝読しています。
初めてコメントを書いたのは、私が大分県の鶴崎在住だからです。
鶴崎城跡地の隣に住んでます(^o^)
毎日楽しみに読んでるブログに我が町が登場して、コメントを書かずにいられませんでした(っ´∀`c)
ありがとうございます。
大分県でも妙林尼は無名で、知らない人が多いです。
鶴崎の商店街の街頭には、キューピーちゃんのようなかわいい妙林尼のキャラクターの旗が下がってます。
投稿: アミーゴ | 2010年3月 9日 (火) 09時08分
アミーゴさん、こんにちは~
>キューピーちゃんのようなかわいい妙林尼のキャラクターの・・・
おぉ・・・やはり、鶴崎では妙林尼さんは有名人なのですね~
きっと、キャラクターは、若くて美しいほうの「母」の設定なのでしょうね。
見てみたいです~
投稿: 茶々 | 2010年3月 9日 (火) 12時12分