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2010年3月21日 (日)

足軽登場で戦激変~応仁の乱・稲荷山攻防戦

 

応仁二年(1468年)3月21日、応仁の乱における大きな衝突の一つである稲荷山攻防戦がありました。

・・・・・・・・

戦国の幕開けとも称される応仁の乱ですが、そのゆえんとなるのが、日本を真っ二つに分けての大乱である事、東西の間で右往左往する将軍家の権威の失墜・・・など挙げられますが、もう一つ、「足軽」の登場というのも見逃せない特徴です。

前年の応仁元年(1467年)、明けてまもなくの1月17日に勃発した御霊合戦(1月17日参照>>)・・・管領家の一つである畠山氏に起こったこの後継者争いで口火を切った戦いは、4ヶ月後の5月、細川勝元山名宗全(そうぜん)(3月18日参照>>)という、時のツートップの参戦により応仁の乱へと突入します(5月20日参照>>)

その序盤で最も激戦となった相国寺の戦い(10月3日参照>>)で、西軍・朝倉孝景(たかかげ)の相国寺の陣地を取ったり取られたり・・・

しかし、その後は、少々お疲れ気味となったのか、小競り合いと小休止を繰り返しながら年を越し、乱は2年目に突入しました。

こうなると、双方ともに長期戦を念頭に置いての作戦変更・・・土塁を強化し、掘濠を構築し、という防御固めに出ます。

東軍が高さ20m以上もあるかと思われる物見櫓(ものみやぐら)を設置すると、今度は東軍が30m以上ありそうな物見櫓を設置(←子供か!)

その物見櫓から、少しでも敵を見つけようものなら、即座に投石を開始し、そのドサクサのまま、入り乱れてのグダグダ戦に突入・・・(←やっぱり子供や)

このグダグダというのは、「ヤル気がない」という意味のグダグダではなく、作戦も何もない素人集団がゴチャゴチャになって戦ってるみたいなというグダグダです。

そうなんです。
ここで、大いに活躍したのが後に足軽(あしがる)と呼ばれるようになる雑兵(ぞうひょう)集団です。

雑兵の存在自体は昔からありましたが、この時、大乱を聞きつけて、近隣の農村から喰いっぱぐれた農民くずれや無頼のやからが大量に、かつ、急激に都に集まって来たのです。

彼らの目的の多くは、東軍あるいは西軍に加担して戦で武功を挙げるなんて事ではなく、そのドサクサにまぎれて略奪行為を行う事・・・なるほど、それなら、大乱と聞いて怒涛のごとく集まってくるのもわからないではありません。

しかも、そんな彼らでも、集団となれば、武士に勝つ事さえある・・・そこに目をつけたのが、東軍・細川勝元・・・

Dscn6101a800 ←神幸道側の鳥居から見る・・・奥が稲荷山

元盗賊改め目付けの骨皮道賢(ほねかわどうけん)という、名前からしていかにも素性がわからなそうな男に、太刀を与えて仲間を集めさせ、伏見の稲荷山を占拠させたのです。

3月に入って、手下・約300名とともに稲荷山に陣取る道賢・・・彼らの目的は、東軍の後方支援です。

平安の昔から幕末までの歴史を見てもわかるように、ここ伏見一帯は、京の都の玄関口として最も注目すべき要所です。

彼らは、ここを拠点に、稲荷口東寺口など、洛中へと入る主要口に出没しては、西軍へと運び込まれる兵糧や武器などを奪うばかりでなく、民家への放火や略奪を繰り返し、京都の南側一帯を、ゲリラ的戦法で荒らしまわったのです。

鎧も兜も身に着けず刀も槍も持たない軽装の彼らは、疾風(はやて)のように現れて疾風のように去っていく疾足(しっそく)部隊・・・なので、足軽

これにより、一たび白兵戦となれば、武士同士が名乗りを挙げての一騎打ちがカッコイイ~という従来の戦闘方法は激減する事となったのです。

しかし、当然の事ながら、西軍もこの状況を指を加えて見ているわけはいきません。

かくして応仁二年(1468年)3月21日、朝倉孝景以下、大量の兵士を導入して稲荷山に総攻撃を仕掛けたのです。

さすがに下京を暴れまわった彼らも、大量の正規軍相手にはひとたまりもなく、あっと言うまに散り々々となって、あえなく終了・・・

もともと、あっちこっちからかき集めた烏合の衆ですから、分が悪いとなるとその逃げ足も速い(まさに足軽・・・(゚ー゚;

当の道賢も、女装して逃亡しようとしたところを孝景に討たれてしまいました。

思えば、わずか1週間ほどの大将の椅子、わずか一日での鎮圧でした。

しかし、これで、足軽という存在の大きさを知った東軍は、すぐさま約300名の雑兵を集めて第2段を編制・・・一方の西軍も、負けじとばかりに疾足精鋭部隊を導入したのです。

以後、応仁の乱は、その大乱のイメージとはほど遠い、末端の足軽同士の小競り合いが中心となりますが、一方のトップのほうも、足利義視(よしみ・足利義政の弟)というキーマンがあっちへウロウロこっちウロウロとして、グダグダ感を倍増させてくれるのですが、そのお話はまた、いずれかの「その日」に書かせていただき泰と思います。

Inariyamapt900
稲荷山・中腹(四つ辻)からの眺望

ところで、室町時代の公卿・一条兼良(かねら)が記した『樵談治要(しょうだんちよう)によれば、
「京内外の社寺や格式ある寺院が荒れ果ててしもたのは、アイツら=足軽のせいや!
敵の立て籠もっとるとこはしゃーないとしても、そうやない所も破壊して放火して財産を略奪するなんか、白昼強盗やで!」

と、散々に書かれた足軽・・・

京の町に立った落首(らくしゅ・世情を風刺した落書の立て札)でも、「威張る」「稲荷」をかけて、
「昨日まで いなり(威張り・稲荷)まわりし 道源(道賢)も 今日骨皮となるぞかはゆき」とあったとか・・・

良くも悪くも彼らの登場で、合戦の様相は一転・・・時は戦国へと向かうのです。

・・・にしても「骨皮道賢が女装・・・」
名前だけで決めつけるのは、どうかとは思いますが、何となく「ゴッツイおっさんの女装」を想像してしまう私です。

めちゃめちゃ美形だったら(*_ _)人ゴメンナサイ
 

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コメント

 足軽雑兵ってのは、身分じゃない訳なんですね~
 なんとなく、合戦というのは、家の子、郎党を引き連れて、自分とこの「だんな様を死なすな~」って感じでやってたんかなぁと思ってましたが(ドラマ一豊みたいな感じ)
 集団戦と云えども、小さな集団の集まりが戦っているようなイメージだったのですが。
 軍隊のようになったのは、いつ頃からなんでしょうかね~(やっぱ明治以降ですか)

投稿: 山は緑 | 2010年3月21日 (日) 19時38分

山は緑さん、こんばんは~

いえいえ、これまでは、どちらかと言うと「悪党」と呼ばれていた類の人たちが、ここで、こうしてその重要性を認められて、今後は組織的に編制され「足軽」という身分(というか役職?)の誕生という事になると思います。

投稿: 茶々 | 2010年3月21日 (日) 21時04分

なんで足軽というんだろうと思ってましたが、納得です。
そして今度は、名乗りをあげての戦いはいつの時代からやってたのかが気になりはじめました。

若者だったら清潔感あるから、多少ごつくても女装もそれなりに似合ってたかもしれないですね。許容範囲というか。
いくつぐらいだったんでしょうね。

投稿: たまこ | 2010年3月22日 (月) 23時30分

たまこさん、こんばんは~

名乗りはいつから???
今まで考えた事なかったですが、
考え出すとなるほど、気になりますね~

ところで、骨皮さん・・・
残念ながら、その生まれがわからないので、年齢も不明なんです。
人を束ねる位の人なので、そんなに若くはないかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年3月23日 (火) 01時20分

先日ドリフのいかりや長助さんの花嫁衣装を着た場面がありました。それと重なりました。

投稿: | 2010年3月23日 (火) 10時29分

>花嫁衣裳を着たドリフのいかりや長助さん・・・

(*≧m≦*)ウプッ!!
想像してしまいました~

投稿: 茶々 | 2010年3月23日 (火) 13時34分

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