祝!平城遷都1300年=なんと大きな平城京
和銅三年(710年)3月10日、2年前に出された時の天皇・元明天皇の詔により、平城京に遷都されました。
・・・・・・・・・・
7(なん)10(と)大きな平城京!
そうです!この2010年、平城遷都1300年に湧く奈良ですが、1300年前のまさに今日、平城京への遷都が行われたのです。
100年に一度のこの日・・・平城京を書かずして何を書く!
・・・と、はりきってはみたものの、これまでも、
などなど、おりに触れて書かせていただいて、今や何を書いてて何をまだ書いてないのかも危ういところではありますが、平城宮跡をはじめ、日々発掘される新発見によって、今現在も歴史が塗り替えられる出来事があるのが平城京です。
たとえば、昨年の暮に発表された【天平人の忘れ物】>>なんていう、謎が謎呼ぶ興味津々な発見もありました。
そんな中、現在の平城宮遺跡の呼び物の一つである、現地に復元された朱雀門・・・
現在の朱雀門は、平成十年(1998年)に復元された物で、絵図に残る平安京の朱雀門や法隆寺の中門を参考に重層(2階建て)構造が採用されていますが、ここに来て、「単層(1階建て)であった可能性が高い」との見解が出てきています。
想像してみました |
現地の復元朱雀門(左)と勝手な想像図(右)
上記の通り、もはや記録に残らない以上、同時期で現存する建物や、後世の同じ名を持つ建物をヒントに想像するしかないわけですが、最も重要な史料となるのは、やはり現地の遺構・・・
そう、実は、現地に、この朱雀門の解体時に組んだ足場の跡が残っているのだそうです。
この穴の位置から推測すると、基壇(門の下の石造りの部分)の階段の長さが、現在復元されている物よりも短く、基壇の高さも復元の半分以下の75cmくらいであろうと想像でき、そうなると、その小さな基壇に重層で大きな朱雀門は不釣合いとなり、「この高さなら、単層がふさわしいであろう」という見解なわけです。
・・・とは言え、重層が単層だったとしても、その魅力にはなんら変わりなく、むしろ最新の研究のすばらしさに驚くばかりですが、アマチュア歴史好きの私としては、最近の教科書には、「平城京=へいじょうきょう」ではなく、「平城京=へいぜいきょう」とふり仮名がうたれているらしい事にも驚いてしまう世代です。
かくして、藤原不比等の思惑がらみながらも、春日山・平城山・生駒山に囲まれ、中国の四神相応の地(四神相応については【平安京誕生】>>で見てね)にぴったしカンカン絶好のロケーションでもあるこの奈良盆地に、和銅三年(710年)3月10日、平城京が誕生したのです。
元明天皇の詔(みことのり)から、わずか2年・・・この期間に、工事が行われたと推定すると、のべ100万人、1日3000人の労力、木材は約30万㎡(現在の平均的住宅:2万4千戸ぶん)、瓦は数百万枚が必要だったと計算されているそうで、かなり大掛りな一大プロジェクトが短期間で行われた事がうかがえます。
さらに、驚くのは、ここに平城京が建設される以前には、少なくとも二つの古墳が存在していた事が現在の調査で明らかになっていますが、そのうちの一つ・市庭古墳は、前方後円墳だったのを、前方部分を切り取って円墳に・・・
もう一つの神明野古墳などは、跡形もなく破壊されて、その上に建設されているのです。
科学が発達した平成の世の中でさえ墳墓の上に都市を建設する事は避けたい気持ちですが、それこそ、前都の影を払拭したい新権力者の意図に基づいているのかも知れません。
ただ、以前も書かせていただいたように、平城京の華やかさとはうらはらに、建設工事にかりだされた一般の人達はたいへんだったみたいです。
何日もかかる都までの食料は自分で用意しなければならず、着いた先では、食料は出るものの、連日朝から夕方まで休みなしで建設作業に従事し、逃げ出した者は1日につき鞭で30回ずつ叩かれたうえ現場に引き戻されたそうです。
賃金は和同開珎で支払われたそうですが、そんなお金は都でしか通用しなかったため、遠い地方から来た人などは、地元へ帰るまでの食料が確保できずに、飢え死にしたり、過労で倒れたりした人がたくさんいたらしいです。
現在のように、一大プロジェクトが、そのまま一般庶民を潤すわけではない時代(今でも怪しいのもありますが( ̄◆ ̄;))・・・多くの人の努力のうえに、一大事業が成った事を心に持ちつつ、平城遷都1300年を祝おうではありませんか!
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コメント
茶々先生、質問があります。
>賃金は和同開珎で支払われたそうですが、・・・
賃金が低くて足りなかったということでしょうか?
足りないから、都や帰路の途中で働いて過労死、働き口がなくて餓死という事ですか?
なんだか、和同開珎とは別の理由に見えるのですが。
仮に、十分な賃金があれば、都で買うと思います。
食料全てを持ちきれないのであれば、この人たちはどうやって都まで来たのでしょう?
地方で通用する貨幣があったのでしょうか?それなら、両替商がいないと不自然ですね。
物々交換であれば交換用の品物を買って行くと思います。
それも全て持ちきれないのであれば、この人たちはどうやって都まで来たのでしょう?(二回目)
私には、想像もつきません。
投稿: ことかね | 2010年3月10日 (水) 13時59分
祝・平城京1300周年┗(^o^)┛パーン
マスコットで賛否両論ありましたが、GWから半年間の記念イベントがあるようです。
NHKで4月に「大仏建立」と言う2週連続の記念ドラマがあります。
16年前が京都で「平安京1200周年」。
数年前に「源氏物語1000年」。
古都の歴史の長さを実感します。
投稿: えびすこ | 2010年3月10日 (水) 16時51分
私は「なんと平城碁盤の目」と覚えました。
そうか、今日だったんだ。当時どんなイベントが行われたのかな?さぞ盛り上がったでしょうね。でも庶民にはあまり関係なかったかな?それにしても古墳の上に建てちゃうなんて罰当たりな・・・
投稿: Hiromin | 2010年3月10日 (水) 20時38分
ことかねさん、先生はちょっと(;´Д`A ```
ところで、本文の「和同開珎で支払われた可能性が高い」事や、「都でしか通じなかった」「帰れなかった人がたくさんいた」というのは、学校の歴史のお勉強で習った事なのですが、もちろん見て来たわけではないのでとこまで正確かはわかりません。
ただ、一応、通説となっているので、そうだったと仮定して考えると、個人的には少しひっかかる部分があります。
一般的には、貨幣の発行に関しては、「それが律令国家の証しだった」「物々交換では産地によって品物の価値が違うため安心して取引できない」「国家の財政難を救うため」などの理由があげられていますが、和同開珎の発行が708年・・・つまり、遷都の詔が出た年なんです。
にも関わらず、役人の給料が一部現金で支払われるようになるのは、遷都が成ってからの711年・・・
ここからは、私の勝手な考えですが、工事が行われてた時点では、和同開珎は、ほぼ通用してなかったんじゃないかと・・・つまり、使えないお金を給金として支払ったんじゃないか?って事です。
「都では流通してた」ってのも、あくまで政府の言い分かも知れませんし・・・現に、711年までは、役人の給料も現物支給だったわけですし・・・
これは、まだまだ、色々調べていかないといけませんね~
上記の話は、あくまで現時点での勝手な想像ですので、あまり真剣に信じないでくださいね。
長々と失礼しました。
投稿: 茶々 | 2010年3月10日 (水) 20時52分
えびすこさん、こんばんは~
今では、せんとくんも人気が出てきたようで、よかったです。
これからの、様々なイベントが楽しみですね。
投稿: 茶々 | 2010年3月10日 (水) 20時55分
Hirominさん、こんばんは~
やっぱ、庶民はしんどい思いをしただけだったんでしょうね。
きっと、この時代も、親からいっぱいお金をもらえる特別な家庭の人が政治の実権を握っていたんでしょうね。
1300年経っても、変わりませんね。
投稿: 茶々 | 2010年3月10日 (水) 20時57分
仏教界は…せんとくんを今でも認めてないみたいですね。仏教界は聖徳太子をモデルにしたナーム君てのを公認キャラクターとしてますね。それから観光業界などで作る団体が大仏殿がマントを羽織ったようなマント君てのを出してましたね。春日大社や大神神社、橿原神宮に吉野神宮、談山神社や石上神宮など、日本を代表する古社がたくさん有るんですから、仏教界に負けずに奈良県神社庁が中心になって神社界もキャラクターを発表してほしかったです。
投稿: マー君 | 2010年3月11日 (木) 17時54分
マー君さん、こんばんは~
あの一件でかなり知名度をあげたせんとくん・・・
ゆるきゃらの一番の使命である、イベント名の告知に関しては、これ以上ないほどの貢献をしたので、まぁまぁ、成功ってとこではないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2010年3月11日 (木) 18時49分
丁寧なお返事、ありがとうございます。茶々先生(笑)
なるほど、実質無給だったということですね。ありそうです。
それにしても、708年発行って、...
平城京建設の為に作ったのか?と思えるようなタイミングですね。
お金が無いから、お金作りしましたって、インフレか!いや、国債か?
「お金が無いなら、やらなければいいのに」と思ったら、現代でもありがちなことに気づき、「変わってない(笑)」と妙に納得してしまいました。
投稿: ことかね | 2010年3月14日 (日) 12時17分
ことかねさん、こんばんは~
今もありがちですね┐(´д`)┌
今だと、あまりにもあからさまなのは庶民も黙ってないでしょうが、この頃は、そんな声をあげる事すらできなかったのではないかと・・・
投稿: 茶々 | 2010年3月14日 (日) 18時37分