豊臣に生まれ豊臣とともに眠った秀吉の城・長浜城
天正二年(1574年)3月19日、織田信長配下の羽柴秀吉が北近江長浜城に移り、初めて城持ち大名となりました。
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天正元年(1577年)8月・・・織田信長は、敵対する越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)に協力する北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)を、小谷(おだに)城に破ります(8月27日参照>>)。
その浅井氏の旧領・湖北三郡を賜ったのが、一連の朝倉との戦いに功績のあった(4月27日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉でした。
そして、まずは、その小谷城に入った秀吉でしたが、小谷城は琵琶湖から少し離れた山岳地帯にあり、冬は雪に覆われる典型的な戦国の山城です。
主君の信長と同様に、商業での交易を重視していた秀吉にとって、その小谷城の欠点は拠点とするには致命的・・・そこで秀吉は、琵琶湖東岸に位置する今浜に目をつけ、主君・信長の一字を貰って長浜と命名し、そこに、拠点となる城を築く事にします。
この築城に関しては、当時の絵図や古文書がほとんど現存しないために不明な点が多いものの、竹生島から多くの材木が運ばれ、領内からは、石仏や五輪塔にいたるまでの石材が確保されたなどという事が伝えられています。
新しい城下町での秀吉は、昔ながらの座を廃止し、楽市制を採用して商売を自由化し、税金の優遇措置なども積極的に行い、町を区画化して、町民による自治制度なども導入しました。
このような制度導入に喜んだ城下の人々は、皆、積極的に築城に協力したそうで、その姿は、平城ながらも、琵琶湖の湖水をそのまま掘とした本格的な水城だったと言います。
かくして天正二年(1574年)3月19日、長浜城に入った秀吉は、以後、ここを拠点とします。
秀吉の狙い通り、ここ長浜は、湖上交通の中心となり、軍事・経済の双方にわたる支配を確保するとともに、その水運を利用して姉川の水利も掌握・・・そう、この姉川のほとりには、当時、鉄砲の生産では日本一を誇った国友があります。
これは、軍事的にも、経済的にも、大きな意味を持つものでした。
もちろん、この先、伏見城から大坂城へと三国無双の城を築きあげる秀吉自身にとっても、この長浜城は、初めての城というだけでなく、小さいながらも大きな意味を持つものだったのです。
やがて天正十年(1582年)、信長の死後の、あの清洲会議(6月27日参照>>)で主導権を握った秀吉の采配により、この長浜城は柴田勝家の配下の城となり、勝家は、ここを、甥の勝豊に守らせます。
しかし、そのわずか半年後の12月・・・秀吉は、思い出深いはずの、この長浜城を攻めるのです(3月11日参照>>)。
そう、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦です(4月21日参照>>)。
すぐに長浜城を開城させた秀吉は、ここを軍事拠点に勝家や、彼と共同戦線をはる神戸信孝(かんべのぶたか・信長の三男)との戦いに踏み込んだのです。
そして、ご存知のように勝家は滅び(4月24日参照>>)、信孝も自刃に追い込まれ(5月2日参照>>)、再び、秀吉の配下となった長浜城には、天正十三年(1585年)、あの山内一豊(やまうちかずとよ)が入ります。
その後、天正十八年(1590年)の小田原の北条攻め(7月5日参照>>)で、北条氏が滅亡した後に一豊が掛川城主となったため、この長浜城は、秀吉のもとで頭角を現してきた石田三成(いしだみつなり)の配下となりますが、ご存知のように、石田三成の拠点は、少し南の佐和山城・・・そのため、荒廃した長浜城は真宗門徒の惣会所に利用されたりもしますが、その三成も、あの関ヶ原で敗れます(【関ヶ原の合戦の年表】参照>>)。
やがて、慶長十一年(1606年)には、徳川家康の命により、家康の異母弟の内藤信成が入って大修理を行いますが、元和元年(1615年)・・・まさに、あの大坂の陣で豊臣家が滅亡(5月8日参照>>)したその年、信成の後を継いでいた息子の内藤信正が、摂津(大阪府)高槻城主となったのをきっかけに、長浜城は廃城となります。
その後は、湖北の支配権は、三成の後に佐和山城に入った井伊直政が新たに設けた彦根城へとゆだねられる事になり(2月1日参照>>)、長浜城の多くの木材や石材が、その建築材料として利用され、その姿は、完全に失われる事となります。
現在の長浜城は、昭和五十八年(1983年)、「秀吉の長浜城を再興したい!」という市民の希望を受けて、歴史博物館として再建されました。
二層5階の復元天守として生まれ変わった長浜城の外観は、冒頭に書かせていただいた通り、その詳細がわからないため、東京大学名誉教授の藤岡通夫氏の指導のもと、天正期の城郭を想定した設計となっているそうです。
館内では、湖北の歴史とともに、秀吉や国友の鉄砲鍛冶・・・また、湖北に縁が深い小堀遠州(こぼりえんしゅう)(2月6日参照>>)や、小谷落城の生き残りとも言える海北友松(かいほうゆうしょう)(8月28日参照>>)についての展示が展開されています。
秀吉が持った初めての城・・・その思いを受けた長浜城は、豊臣とともに生まれ、豊臣とともに歴史の表舞台から去る事が、その運命だったのかも知れません。
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