秀吉の小田原征伐・開始~オモシロ逸話
天正十八年(1590年)3月29日、羽柴秀次軍が山中城を、織田信雄らが韮山(にらやま)城を攻撃し、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されました。
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天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦いで、主君だった織田信長の息子・信雄を手なづけた後、彼に味方する徳川家康を黙らせ(10月17日参照>>)・・・
さらに翌・天正十三年(1585年)に四国を平定し(7月25日参照>>)、天正十四年から十五年にかけて九州を平定し(4月17日参照>>)、その間に、越後(新潟県)の上杉景勝とも同盟を結んだ(6月15日参照>>)豊臣秀吉にとって、最後に残った大物は、北条早雲以来100年に渡って関東に君臨する北条氏・・・
ってな事で、その天正十四年と天正十五年に発布した『関東惣無事令』と『奥両国惣無事令』(大名同士の私的な争いを禁止する)破りを大義名分に、北条氏の本拠地・小田原城に攻める小田原征伐が開始されたのが、本日3月29日なのですが、その経緯は、すでに書かせていただいているそれぞれのページ↓で見ていただくとして、本日は、あまり一般的な歴史やドラマでは語られないような小田原征伐開始に関連する逸話を、2・3ご紹介したいと思います。
- 名胡桃城奪取事件>>
- 小田原攻め・軍儀>>
- 小田原征伐・開始>>
- 山中城落城>>
- 小田原城包囲>>
- 館林城が陥落>>
- 伊達政宗の小田原参陣>>
- もう一つの一夜城~石垣山城の謎>>
- 耐えた!水の要塞・忍の浮城>>
- 鉢形城が開城>>
- 八王子城が陥落>>
- 小田原城が開城>>
●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
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★その一:::::::::::::
北条氏政の時代に、関東へと向かう途中の1人の僧侶が、小田原に泊まった事がありました。
その時、ちょうど新しく制定された法令が書かれた高札を見て一言・・・
「北条も、もう、終わりやな・・・国が滅び行く前兆が見える」
と・・・
それを聞いて、不思議に思った奉行は、その僧侶を自宅に招き、お茶とお菓子でもてなしながら、じっくり、その理由について聞くのです。
まぁ、一般人がこんな事を言えば、叛逆分子として即!逮捕なんでしょうが、お坊さんだと「占い」の類とか、「忠告」の類のものになるんでしょうね
・・・で、早速、
「なぜ、国が滅びるなどと・・・何か、不可解な法令でもありましたか?」
と奉行・・・
「いや、法令はすべて正しく、もっともなものでしたよ」
ますます、疑問に思った奉行は
「では、なぜ???」
「いやいや、私は、30年前にも、ここ小田原に来さしてもろた事がおますねんけど、その時は、法令は5つしかおませんでした。
けど、今回、お邪魔してみたところ、法令が30にも増えてました。
殿様が立派なお人で人望があると、領民は皆、心穏やかに過ごせるので、法令が少なくても、違反する者があまり出ません。
ところが、殿様の人望がないと領民は不安になり、犯罪に走る者が多くなります。
そうなると殿様は、その犯罪を減らすために、さらに多くの法令を増やす事になるのですが、ほんだら、よけいに領民は不安になって、もっと有能な殿様に代わってほしいと思うようになり、現職のお殿様からは、心が離れていきます。
国を守るのは領民です・・・なので、もはやこの国の前兆が見えたと言うたんです。
・・・とは言え、ここで国を治める者らが、自らの行いを反省し、手直しして行けば、勢いのあった昔の頃の状況を取り戻せますやろうな」
この話を聞いた奉行は、しっかりとこの言葉を書きとめたと言います。
『武将感状記』正徳六年(1716年)刊行より
ひょぇ~~耳が痛いゾ・・・バラマキや保身の前にやる事やらねば!
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★その二:::::::::::::
この頃、徳川家康は海道一の乗馬の名人だという噂が広がっていたそうな。
・・・で、この小田原攻めの際、豊臣軍の先鋒として進んでいた丹羽長重・長谷川秀一・掘秀政の3人が、小高い山に差し掛かった時、ふと、下の谷を見下ろすと、家康の陣が手に取るように見えました。
「おいおい、これから、家康はんの馬に乗るところが見られるゾ!」
と、豊臣軍の兵士たちは興味津々です。
その谷には、川が流れていて、向こう岸に行くためには、細い橋を通らなくてはなりませんから、そこを馬に乗ったまま渡れるとしたら、相当な腕前という事になります。
現に、徳川の軍勢は、皆、騎乗したまま川を渡る事ができず、馬から下りて徒歩で渡っていたのです。
そこに騎乗のまま、橋のたもとまでやってきた家康・・・かたずを呑んで見守る豊臣の兵士・・・すると、家康は、サッと馬を下りて、配下の者に背負われて川を渡っていったのです。
「なんじゃ!アレ・・・アレが海道一の馬乗りの名人のする事か!」
と、兵士たちは大笑い・・・
しかし、彼らを率いていた3人の武将だけは笑わなかったのです。
「さすがは、乗馬の名人と言われるだけの事はあるな」
「ホンマモンの名人は、無理して危険をおかすような事はせんもんや」
と、感心しあったのでした。
『頼宣卿言行録』より
確かに、F1レーサーや高橋レーシングチームが街中で暴走している話は聞かないからなぁ
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★その三::::::::::::
小田原城攻めでの家康軍が、城の東側の攻撃をを受け持ち、そこかしこで各部隊が先頭の準備を整えている頃、内藤正成という武将だけは、まったく準備をせず、さらに東側に控える海に向かって歩いていきます。
そして、海辺に壊れた船がたくさんあるのを見つけて
「おい!あの壊れた船の板を集めて、わが陣まで運んどいてくれ」
と、自軍の兵士に命令しました。
それを見たまわりは・・・
「アイツ・・・ケチか!」
「壊れた板を集めてどないすんねん!」
「自分の領地にでも持って帰るつもりかww」
と、バカにしたように茶化します。
しかし、それにもめげず、正成は、せっせと板集めに没頭・・・
そんなある日、
「何とか、近場の曲輪を占領したいが、徳川の陣と曲輪の間に広がっている沼地が、それを阻んでいる・・・ここを渡る手立てはないものか!」
という話が持ち上がります。
すると、正成・・・
「私が集めた板を使っていかだを造り、沼地を渡って攻撃を仕掛けましょう」
と、あの古い板でいかだを造り、見事、曲輪を落としたという事です。
『翁物語』より
正成さんという方・・・なかなかスルドイですなぁ。
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コメント
坊さんの忠告を書き留めた奉行は偉かったかも知れませんが、やっぱり殿様はボンクラだったんでしょうな、坊さんの忠告に真摯に耳を傾けて領国経営の立て直しを図れなかったから秀吉さんに討ち滅ぼされてしまうんですから。氏康さんが氏政さんが茶漬けを食べる際に、飯に茶を二回かけたのを見て、一膳の茶漬けを食うのに茶をどれぐらいかければ良いかの見当も付かず、途中で茶をかけ足すなど、愚かしいと嘆いたって逸話がありますが、茶漬けの茶の量を見誤る氏政さんには、家臣や領民の心を正しく理解する能力は無かったのかも知れませんね。
投稿: マー君 | 2010年3月29日 (月) 16時54分
マー君さん、こんばんは~
やっぱ奉行が書き留めるだけでは・・・
氏直さんはなかなかの人物だったようですが、未だ実権を握っていたのは、味噌汁事件の氏政さんでしたからね~
早く、バトンを渡していれば、歴史が変わったかも知れません。
投稿: 茶々 | 2010年3月29日 (月) 23時05分
茶漬けのエピソード…湯漬けだったり味噌汁だったり数パターン有りますね。それは、さて置き氏政さんホンマに秀吉さんに勝てると思うたんでしょうか?
投稿: マー君 | 2010年3月30日 (火) 09時12分
マー君さん、こんにちは~
『北条五代記』には、序盤戦ではけっこう余裕があったように書かれていますから、最初の時点では勝てると・・・
いや、「勝てる」というよりは「追い返せる」と思っていたかも知れませんね。
現に、『武林名誉禄』には、あまりに長引く籠城戦に、途中で秀吉が、一旦機内に戻って出なおそうかと悩んでいる事が書かれていますから
韮山城の開城が決定打だと思います。
まぁ、これも最後の最後の勝者=家康の言い分ですが・・・
投稿: 茶々 | 2010年3月30日 (火) 13時39分