千早城攻防戦・秘話~はりぼての野田城
今日・4月1日はエイプリルフール・・・
その起源については、【ウソも方便…遠めがねの福助さん】(2011年4月1日参照>>)にチョコッと書かせていただきましたが、結局は、よくわからない・・・
とは言え、とにもかくにも、本日は、そのエイプリルフールにちなんで、「ウソ」が登場する大阪の昔話を一つ・・・
とは言え、今回ご紹介するお話は、時も場所もはっきりしていて、実在の歴史上の人物が登場し、しかも、その場所は現在でも史跡として残り、さらに歴史上の大事件を背景にしている、もっともらしいお話です。
ただ、いわゆる歴史家&史学の教授の方々が、おそらく事実であろうと解釈する1級史料と呼ばれる文献には書かれておらず、地元の伝承とされるお話なので、分類としては「昔話」となります。
―はりぼての野田城―
・‥…━━━☆
今から、700年ほど前、鎌倉幕府打倒をめざす後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、笠置山に籠り、近くの土豪(どごう・半士半農の地元の武士)などに賛同を呼びかけました(8月27日参照>>)。
楠木正成(くすのきまさしげ)は、倒幕軍の大将のひとりとして、河内の千早城(現在の大阪府千早赤阪村)を護っていましたが、そこをめざして幕府が、数万の大軍を率いてやってきました。
朝早く京都を出発して、八尾、柏原を経て、南に向かってものすごい勢いです。
千早城は、奈良と大阪をへだてている金剛山のふもとにあり、京から攻めるには、大和川を超え、石川を南へ、そして千早川をさかのぼり、それにつれて道はだんだん険しくなります。
しかし、あっと言う間に幕府軍はもう大和川を越えようとしています。
こんな大軍が攻めてきたら、今の千早城は、ひとたまりもありません。
野田城にいて、その知らせを聞いた野田四郎正氏(楠木正成の家来)は、作戦を練りはじめます。
野田城というのは、石川から少し離れていて、幕府軍が向かう道筋からははずれており、見通しの良い平地に建っている城なのですが、とても城とは呼ぶに程遠い、普通の屋敷のような建物でした。
それは野田城が『伝えの城』という、敵のようすを千早城に知らせる連絡の役目の城だったからです。
正氏は、敵が迫って来ているのを千早城に伝える伝令を走らせる一方で、なんとか幕府軍を野田城に釘付けにして、足止めをさせる方法はないものかと思案します。
正氏は、少しの手勢を集め、押しては退き、退いては押して、巧みに南に進軍していた幕府軍を南西の野田城のほうへ引き寄せます。
そのうえで、イバラの垣根をはりめぐらし、田んぼには水を引いて泥の沼のようにして、馬が足をとられて、なかなか進軍できないようにもしました。
そうやってうまくおびき寄せましたが、今度は野田城近くまでやってきた大軍をどうにかしなければなりません。
日の入りも間近、今日はこれ以上攻めてこないだろうとにらんだ正氏は、みなを集めてこう言いました。
「今から、城を造る。
城と言うてもホンマもんやない。
はりぼて(紙で作った外だけの物)の城や。」
家来や城下の者、農民も商人も、みんな集まって細い木で木組みを作り、紙に絵の具で色をつけて、糊ではって・・・。
そして東の空が明るくなった頃、それはそれは見事な城が、朝日にさんぜんと輝いていました。
どこからどう見てもりっぱなお城に見え、おまけにのぼり旗を何百本とならべて、見た目には、何千もの兵がそこにいるように見せかけました。
ほんとうは、正氏と家来が3人いただけで、他の者たちは、もう別の場所に移動していたのですが・・・。
そんな事とは知らない幕府軍は、何かワケの分からない所に誘いこまれ、気が付いたら聞いたこともないような場所に大きな城があって、ものすごい数の兵がいる。
ここは、いったん退却して、改めて千早城を攻めることにしよう、と帰っていきました。
その間に、千早城では武器や食料をたくわえ、充分に作戦をねることができたという事です。
・‥…━━━☆・
この話に登場する野田城は、あの武田信玄の最後の戦い(1月11日参照>>)となった野田城ではなく、大阪は和泉の野田城・・・南海電車・高野線の北野田駅の南側に、現在も一部の石垣が残り、史跡とされている場所です。
もちろん、主人公の野田城主・四郎正氏も実在の人物で、助演男優賞の楠木正成や後醍醐天皇は、皆様ご存知の通りです。
時代背景としては、まさに、正成の籠る千早城に幕府の大軍が攻め寄せたその時という事になります。
以前書かせていただいた通り、この時、幕府軍が千早城への総攻撃を仕掛けるのが元弘三年(1333年)閏2月5日(2月5日参照>>)・・・正成が、あの伝説的なゲリラ戦を展開する有名な戦いですが、ご存知のように、結局、幕府は千早城を落す事ができず、5月10日には包囲を解いて四散。
その12日後の5月22日、北条高時の死を以って鎌倉幕府は滅亡します(5月22日参照>>)。。
もし、このお話が、多少の誇張はあるとしても、何らかの事実をもとにしたお話であるなら、正氏さんは、諸葛孔明バリの兵法で、その幕府討伐に大きく貢献した事となりますね。
ちなみに、本日の主役の正氏さん・・・この後、後醍醐天皇に叛旗をひるがえした足利尊氏と戦う楠木正行(まさつら・正成の長男)に従い、四条畷の戦いで戦死したという事です。
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コメント
一夜城のエピソードと言えば、秀吉さんの…墨俣城の話が有名ですが、それを去ること二百年も前に、こんな話が有ったとは驚きです。
投稿: マー君 | 2010年4月 2日 (金) 02時50分
マー君さん、こんにちは~
そうですね。
年代からいけば、こっちが先・・・
まだまだ戦国時代にはほど遠いので、どのような城だったのか、見てみたいですね。
投稿: 茶々 | 2010年4月 2日 (金) 12時00分
蜂須賀氏は楠木流の軍学を継承してたナンテ俗説があります。墨俣城建設には八須賀氏を始めとする…川並衆の活躍に負うところが大きいです。楠木流の軍学を極めた蜂須賀彦右衛門なら、この逸話を知らぬはずはなかったでしょうね。竹中半兵衛や黒田官兵衛の陰に隠れイマイチ影の薄い蜂須賀彦右衛門ですが、秀吉の情報参謀としてその実力は折り紙付きだと思います。
投稿: マー君 | 2010年4月 2日 (金) 22時00分
マー君さん、こんばんは~
おっしゃる通り、墨俣の一夜城では蜂須賀さんは大活躍ですね。
秀吉の出世には大きく貢献してますね。
投稿: 茶々 | 2010年4月 3日 (土) 03時56分
大阪の北野田にこんな話があったんですね。びっくりとすごく面白いですね。大阪出身として誇らしい話です。聞かせて(読ませてもらって?)もらってありがとうございます。
投稿: minoru | 2012年4月 1日 (日) 02時26分
minoruさん、こんばんは~
昔話に分類されるお話という事で、普通に文献で読むより、何やら、人物が生き生きと感じられますよね。
私も、好きなお話です。
投稿: 茶々 | 2012年4月 1日 (日) 02時39分