いにしえの奈良の都の八重桜~平成の世に咲き誇る
♪いにしへの 奈良の都の 八重桜
今日九重(ここのへ)に 匂ひぬるかな ♪
「詩花(しか)和歌集」にある伊勢大輔(いせのたいふ)の歌です。
百人一首の61番目にも収められているところから、ご存知の方も・・・
いや、あの
♪あをによし 奈良の都は 咲く花の・・・♪
と、並んで、奈良を詠んだ歌の代表格とも言える超有名な歌ですよね。
作者の伊勢大輔は、第66代・一条天皇の中宮であった藤原彰子(しょうし)に仕えた女房・・・そう、あの紫式部や和泉式部の同僚です。
もちろん、大輔も、彼女らに負けず劣らずの才女で、彰子中宮を囲んでの文化サロン=勉強会のスターでありました。
歌の意味は・・・
「その昔、奈良の都に咲いた八重桜が、今日は、この平安の都の宮中(九重)に咲き匂っているわ!」てな感じ。
実は、この日、時の天皇=一条天皇のもとに、奈良は興福寺の境内に咲く霊木として名高い八重桜の一枝が献上されたのです。
ちょうどその時に、一条天皇のそばにいた大輔に、天皇が
「この桜を題材に、いっちょ詠んでみてよ!」
と、歌をご所望・・・
で、大輔が、即興で詠んだ歌が、この歌だとの事です。
その桜は、もともと、春日大社の神体山から、第45代・聖武天皇の時代に平城京へ・・・さらに、興福寺の境内に移植されていた物で、それはそれは霊験あらたかな霊木で、その場所は、すでに平安の頃から、奈良の名所として人々に親しまれ、江戸時代や明治初年の「奈良・名所絵図」にもしっかり描かれています。
とは言え、この八重桜、一般的な、いわゆる八重桜ではなく「ナラノヤエザクラ」という一つの品種なわけで、繁殖力が弱く、一時は絶滅したかと思われていた物・・・
それが、近年になって、わずかに3樹だけ自然に生えている事が確認されました。
もちろん、「奈良・名所絵図」に描かれたその位置に、歌に詠まれたその桜は、今も、咲き誇っているのです。
・・・で、昨日、その勇姿を見て参りました。
・・・と言っても、この桜を見に来るのは、すでに4度目・・・1度目は4年前の早春で、2度目は一昨年の正倉院展・開催中の秋・・・
どちらも桜の季節ではなかったので、3度目の正直とばかりに・・・
実は、6日前にも行っております。
しかし、今年は、皆様ご存知の寒い春・・・「きっと咲いてる」と思って行った6日前は、まったくのつぼみ状態で(←写真左)、「今年は、もうダメかな?」と、一度は、諦めたのですが・・・
その6日前の時に、「鹿よけ」との事で、周囲に金網を張る準備がされていて、「ひょっとしたら、来年は、そばに近づけないのではあるまいか!」という不安にかられ、急遽、本年2度目の桜見物におもむいたわけです。
・・・で、昨日は・・・
見事に、咲いておりました~~!
ただ、来年どころか、この1週間で、すでに金網が完成しており、6日前は行けた「天然記念物」と書かれた石碑のところには、近づけないようになってしまってしました~~残念!
でも、大切な天然記念物の桜の安全のためですから・・・しかたないです。
いや、むしろ、「ハデハデな色の金網ではなく、黒の目立たない金網にしてくださってありがとうございます」と言いたいくらい、周囲の風景になじんでいる金網で、少し、安心しました。
さて、その八重桜の場所ですが・・・
東大寺の大仏殿の、ちょうど真裏にある道を北へ・・・左手に正倉院を見ながら、さらに進んで、「奈良奥山ドライブウェー」の入り口のちょっと手前。
右手の知足院というお寺への入り口の階段へと向かう細い道へ曲がり、さらに、その途中にある道を右・・・
坂を登ると、こんな感じ→で見えてきます(地図にある★印がその桜です)。
★明治になるまでは、現在の奈良公園一帯が興福寺の境内だったんですよ
(11月4日参照>>)
聖武天皇が見た桜・・・
平安貴族が歌に詠み、
江戸時代の名所絵図に描かれた桜・・・
いにしえの桜が、今年も花を咲かせ、
その勇姿と香りを、さも誇らしげに・・・
「途中、荒廃して代替わりしている」なんて噂もありますが、
そんな噂は聞かなかった事にして、
悠久の歴史ロマンに浸ってみようではありませんか!
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●周辺の散策ルートは、本家HP「奈良歴史散歩」の『奈良坂から正倉院へ…』のページ>>でどうぞ
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