悲劇の名奉行・小栗忠順の汚名を晴らしたい!
慶応四年(1868年)閏4月6日、江戸幕府の勘定奉行を務めた事もある小栗忠順が、群馬県・烏川のほとりで、明治政府役人に斬首されました。
・・・・・・・・・・・
文政十年(1827年)に新潟奉行・小栗忠高の息子として江戸に生まれた小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)・・・通称を又一と言います。
直参旗本として代々徳川家に仕えた小栗家・・・初代・徳川家康とともに戦国の世を生きた時代には、その合戦で常に先鋒を務め、「また、一番槍取ったの?」と尊敬された事で、小栗家の当主は代々「又一」と名乗ったのだとか・・・。
幕臣の中でもエリート中のエリートの家柄に生まれながら、幼い頃から文武両道の才気に長けた忠順は、万延元年(1860年)に、あの咸臨丸一行(1月13日参照>>)とともに、軍艦・ポーハタン号に乗船して日米修好通商条約批准(ひじゅん・署名された条約に対し、国家として正式に同意する事)のため渡米します。
わずか34歳で、正使→副使に次ぐ監察(目付け)というナンバー3の役どころ・・・しかも、この時の彼には、第一目的の批准以外にも、重要な使命があったのです。
それは、一両小判と1ドル金貨の交換比率を改める事・・・
実は、開国当時、日本での金と銀の交換比率は1:5・・・しかし、海外では1:15。
つまり、外国人が日本に銀貨を持ち込んで、日本で金貨(小判)に交換して帰国しただけで、ボロ儲けという事になるわけです。
このため、またたく間に多くの小判が海外に流出し、エライ事になっていたのです。
忠順は、1ドル金貨の金の含有量を確かめるため、日本から持っていった秤を使って重さを測定し、難しい計算をソロバンでまたたく間にやってのけ、アメリカ人を大いに驚かせたと言います。
もちろん、この時の彼が、この難交渉を見事にまとめ、その後の小判の流出を食い止めた事は言うまでもありません。
帰国後も、外国奉行・海軍奉行・陸軍奉行・勘定奉行を歴任する忠順ですが、彼の功績は、そんなもんじゃありません。
大政奉還・王政復古と揺れる幕府内にあって、無駄な出費を省いての課税方法の見直しによる経済対策を行い、何とか幕府の財政を維持・・・さらに、国の安全を守るためには自前の軍艦を建造する必要があると、フランスの力を借りて日本初の大規模な造船所も建設しました。
そのうえ、幕府に代わる新しい政体樹立の構想も、彼の中にはあったと言います。
商工会議所や製鉄所、銀行制度や郵便電信制度・・・果ては、鉄道網やガス燈の設置など、これらは維新が成った後に明治政府が行いますが、実は、すでに忠順の手で、その原型となる物が考えられていたのです。
もはや官僚の域を超えた政治家・・・いや、大統領か首相にも匹敵する敏腕ぶりです。
しかし、そんなさなかに起こるのが、あの鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。
錦の御旗を目の当たりにし、幕府の敗戦を知った第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は、賊軍の汚名を着る事をヨシとせず、戦線を離脱して江戸城へと戻ってしまいます(1月6日参照>>)。
しかも、その後は、ただひたすら恭順な態度をとり、自ら謹慎・・・戦争回避の意志を表明しますが(1月23日参照>>)、この時、忠順は徹底抗戦を主張します。
そのため、怒った慶喜に、勘定奉行の職を罷免(ひめん・職務をやめさせる事)されてしまったのです。
しかたなく忠順は、一族を引き連れて、領地である上州群馬郡権田(ごんだ)村にて隠居生活に入る事になりました。
静かなる村で、読み書きを教えたりなんぞしながら、村人たちと、少しばかりの穏やかな時間を過ごす忠順でしたが、新政府は、それすらも許しませんでした。
(ちなみに忠順のよき理解者であった三野村利左衛門は、この頃、しきりにアメリカへの亡命を、彼に勧めていたと言いますが・・・2月21日参照>>)
西郷隆盛と勝海舟による世紀の会談(3月14日参照>>)から江戸城無血開城を成した総督府は、その勢いのまま一方はさらに北へ(4月25日参照>>)、一方は関東周辺の征圧(4月4日参照>>)に取り掛かるのですが、そんな総督府から、忠順捕縛の命令が下るのです。
その容疑は・・・
「大砲などの準備をして叛乱を計画している」と・・・
もちろん、実際には、そんな形跡はありません。
第一、彼が罷免されたのは1月27日・・・役人が村にやって来るまでの3ヶ月ちょっとで、叛乱軍など組織できるはずもありません。
未だ、新しい自宅すら完成しておらず、彼がその時住んでいたのは仮住まいの小さな家だったのですから・・・
(注:もちろん、埋蔵金も持ってません!:6月25日参照>>)
しかし、有無を言わさず捕らえられた忠順は、何の取調べもないまま、翌日の慶応四年(1868年)閏4月6日、権田村を流れる烏川のほとりで、わずかに残っていた3人の家来とともに、縛られたまま斬首されたのです。
享年42歳・・・まだまだヤレる人でした・・・いや、むしろ、国家の損失とも言える惜しい人材でした。
地元の領民に慕われていたという忠順さん・・・幕府の頂点にいた将軍・慶喜でさえ、陸軍総裁の勝でさえ生き残っている幕末・維新の争乱の中、幕臣でただ1人処刑された忠順は、賊軍の汚名を、その一身に背負って逝きました。
ゆえに、勝海舟を偉人とするドラマはあっても、彼を主役に据えたドラマは、ほとんどありません。
合戦における先鋒とは、一番の武功を挙げるチャンスのある位置であるとともに、一番危険な場所でもあります。
一番槍の又一は、又一らしく、維新という国家的大戦で、一番、風の当たる場所に立って戦ってくれた人なのかも知れません。
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コメント
茶々様、こんにちわ!
今日も良い ヽ(´▽`)/
毎日毎日 面白い記事をありがとうございます。
心から感謝です!
投稿: DAI | 2010年4月 6日 (火) 13時19分
汚名というより、怖れられての抹殺。内でも外でも優秀な人間を消してしまったそういう時期だったのですね。
岸谷五郎が演じたドラマは見ました。数少ない、彼を主人公にした本も読みました。双方に惜しい人が沢山死んでいます。結局そこいら辺からレベルがドンと落ちたのかもしれませんね。
投稿: | 2010年4月 6日 (火) 16時23分
DAIさん、ありがとうございます。
この時代の歴史人物は、ともに日本の未来を真剣に考えて模索していた人たちなので、攘夷であれ佐幕であれ、どちらも尊敬に値すると思いますが、この小栗さんと相楽総三の処刑は、新政府軍に文句言いたいです。
投稿: 茶々 | 2010年4月 6日 (火) 22時40分
そうですね。
あまりにも優秀で、怖かったのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2010年4月 6日 (火) 22時41分
この人も、生きてればもっと活躍してただろうに惜しいです。勝海舟が主役のドラマでは対立軸の人物として殊更に悪人のイメージで描かれたりするので損な役回りですね。
投稿: マー君 | 2010年4月 8日 (木) 02時42分
マー君さん、こんにちは~
ホントに惜しいですね。
維新後の活躍を見てみたかったです。
投稿: 茶々 | 2010年4月 8日 (木) 12時30分
茶々さん、こんにちは~。
小栗忠順は能吏であったとは知っていました。奉行としてチョコチョコ出て来る、何やってたのかよくわからない人でした(あとは、やはり埋蔵金伝説(笑)
が、あのハリスが脅して結ばせた無茶苦茶な貨幣レートを改めさせた人だったとはまったく知りませんでした。幕末、レートのせいで金が流出→対抗するため金の含有を減す→大変なインフレで経済にダメージ、とかなり深刻なことになっていたのを改善したのだから、この一点だけでもこの人の功績は測りしれませんよね。もっとスポットが当たってもいいはずなのに…。この方は改めてじっくり学びたいと思いました。幕末幕府側の、阿部、川路、江川などの諸氏に匹敵するくらいの方かと。惜しい人材ですよね。榎本武揚みたいに、武力で反抗した人でさえ生き残っているのに、納得いかないです。ほんと、新政府は阿呆ですね…
まだまだ私が知らない優れた方がいそうですね。ご紹介ありがとうございましたm(__)m
投稿: おみ | 2010年4月 9日 (金) 11時09分
おみさん、こんにちは~
ホントですね~
榎本武揚でも生き残ってるのに、なぜ???って感じです。
やはり、敏腕すぎたのでしょうか?
惜しい人です。
投稿: 茶々 | 2010年4月 9日 (金) 13時42分
茶々様、こんにちは。
久しぶりに拝見させていただきました!
小栗上野介忠順・・・幕末維新で大好きな偉人の一人です!
「佐幕開国派」という偏った視点で歴史を楽しんでいるせいか(汗)新政府の腹黒さというか、見識の無さが目につきますね。小千谷会談を決裂させた岩村精一郎しかり、傲慢な世良修蔵しかり・・・
小栗忠順と、一時は籍を置いた明治政府によって処刑された江藤新平がかぶって見えるのは私だけでしょうか。志半ばで散った無念さは計り知れませんよね・・・
(ちなみに勝海舟はお妾さんいっぱい!というイメージしかないのですが:笑)
投稿: はや坊 | 2012年7月 6日 (金) 15時26分
はや坊さん、こんばんは~
小栗忠順と江藤新平…
どちらも惜しいです。
このお二人が生きていれば、それこそ、どれほどの功績を残した事か!
投稿: 茶々 | 2012年7月 7日 (土) 00時54分
茶々様、こんにちは。
悲劇の名奉行とは、全くその通りですね。
信念を貫く武士、素晴らしいです。
小栗上野介、赤穂義士に討ち取られた、
吉良上野介、ん~~。
彼を主役にした、ドラマを作るべき。
投稿: | 2012年8月23日 (木) 16時31分
ホントに、未だ主役になっていない人のドラマを見たいです。
投稿: 茶々 | 2012年8月23日 (木) 20時14分
小栗上野介の記事はよかったです。
西軍の東山道軍は小栗上野介を殺す前に諏訪で身内の赤報隊相楽総三以下8人を殺してきています。「偽官軍」と決めつけ、殺すことで江戸での薩摩強盗のもみ消し、と新政府の「年貢半減令」の帳消しをした、謀略体質むき出しの体質が見えてきます。
文中
>その処刑の時は、役人にくってかかる村民たちで川べりは大騒ぎになったと言います。
・これは史実ではないウィキペディアの作り話で、現在は削除されていますね。
フィラデルフィアの金貨の分析実験については下記のページが参考になります。
http://tozenzi.cside.com/tuuka-kosyo.html小栗忠順の通貨交渉
投稿: 黙魚 | 2013年6月11日 (火) 10時56分
黙魚さん、ありがとうございます。
wikiは、あまり見ないので、ご指摘の部分は、たぶん別のソースからだと思うのですが、3年前の記事なので、今となってはどこで見たか、容易に確認できず…
今、手元にある東善寺の住職の目撃者への聞き取り調査史料では、「村人たちが黒山のようにたかって騒然とする中、物々しい警備で…」とあり、少しニュアンスが違う気もしますので、ご指摘の部分は表現を変えておきます。
その史料では、斬首を担当したのは高崎藩の小用喜一郎か永井鎗三となっていますね。
その時の高崎藩は、まだ官軍に寝返ったばかりだったので、何かしらの結果を示さねばならなかったのかも知れません。
赤報隊の相楽総三については3月3日のページ>>を見ていただけるとありがたいです。
投稿: 茶々 | 2013年6月11日 (火) 15時27分
茶々様。
小栗忠順…偉大ですね~。
彼は、朽ち果てていく幕府の運命をよく分かっていた。時流に乗ってくる奴にはかなわない。
彼は、横須賀(?)にフランスの援助を受けて“造船所”を作っていますが…、確か…。
「これで、蔵つきの売り家ができた~。」と感慨深げに言ったそうです。
つまり、幕府は瓦解するけど、新政府に対してよき「売り家」ができたと…。
明治新政府にバトンタッチするときの“ピルグレムファーザーズ”の一人ですね。
投稿: 鹿児島のタク | 2014年1月20日 (月) 04時51分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
そうですね。
完全に先の世を見抜いていたんだと思います。
そのためには、滅ぶ幕府の人間として、自分の未来が危うい事にも、もう、気づいておられたのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2014年1月21日 (火) 11時50分
侍は日本人の好きな言葉ですが、それを体現する彼を主人公に大河作ってほしいもんです。吉田松陰の関係者と違って、日本人には確実に受けることだと思うんですが。
投稿: とおりすがり | 2016年6月11日 (土) 09時50分
とおりすがりさん、こんにちは~
そうですね~
幕末はけっこうな頻度でドラマの舞台となってますが、小栗さんにはスポット当たりませんね。
大河ドラマ、見てみたいです。
投稿: 茶々 | 2016年6月11日 (土) 12時20分
小栗が処刑されたのは捕まった時期が悪すぎたのでしょう
当時、江戸では旧幕府軍兵士や彰義隊などの徹底抗戦派による官軍襲撃事件が後を絶たなかったそうです
そして小栗は彼らから指揮官になることを要請されていました(断りましたが)
この時すでに資金力・動員力ともにカツカツだった官軍は、小栗という存在に不安を感じてたんでしょう
実際、箱館戦争が終結して旧幕府勢力が完全に消滅すると捕縛された旧幕府の将兵はほとんどが赦免され、榎本や大鳥といった面々すら釈放されました
もう旧幕府の脅威は去ったと新政府が確信したからだと思います。小栗も函館で捕縛されれば明治の世を生きていたかもしれません
投稿: | 2016年7月 8日 (金) 12時40分
>時期が悪すぎたのでしょう
そうですね。
時期とともに、やはり優秀過ぎたのかも…
新政府の新しい政策は、ほとんどが、この方が考えた物だったみたいですから…
投稿: 茶々 | 2016年7月 8日 (金) 15時14分
先見の明はあったでしょうね
ただし、小栗には柔軟性が欠けていました
現代でもそうですが政治は何事も根回しが重要であり、一本気の性格だった小栗はその根回しが苦手だったようです
とにかく内にも外にも敵を作りすぎる性格だったそうで・・・
それを裏付けるように、彼の処刑が決まっても他の幕臣や親藩による助命嘆願はほとんどなかったそうです(近藤勇の場合は勝海舟からも助命嘆願が出ました)
投稿: | 2016年7月 8日 (金) 22時09分
>柔軟性が欠けて…
>敵を作りすぎる性格…
それはあるかも知れませんね。
良く言えば、曲がった事が嫌いで一本義な性格ですが、それは時として融通がきかず、後戻りできない場合も…
小栗の罷免が決まった時、彼の命を心配した三井の三野村利左衛門が、しきりにアメリカへの亡命を勧めましたが、頑として聞かなかったみたいですから…
小栗さんの中では、すでに覚悟が決まっていたのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2016年7月 9日 (土) 02時32分