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2010年4月13日 (火)

巌流島の決闘~佐々木小次郎の実態

 

慶長十七年(1612年)4月13日、宮本武蔵佐々木小次郎による船島(向島)での決闘・・・世に言う「巌流島の決闘」があり、武蔵が小次郎を倒しました。

・・・・・・・・・

一昨年の4月13日に書かせていただいたページでは、宮本武蔵の実像・虚像のついての話に終始してしまったため(2008年4月13日を見る>>)、本日は、そのお相手である佐々木小次郎さんについて書かせていただきますね。

・・・とは言え、この小次郎さん・・・すでにご存知の方も多いと思いますが、その実在さえ危ぶまれる謎の人であります。

そもそも、その生まれた年どころか、場所さえも特定されていません。

いくつかの伝説がある中で、有力候補として現地に銅像が建てられている場所だけで3ケ所・・・福井県福井市浄教寺町、同じく越前市北坂下、山口県岩国市横山

中には、近江(滋賀県)の戦国大名・六角義賢(ろっかくよしかた)とその側室との間に生まれたご落胤説もあり、その場合は近江観音寺が生誕地、なんて事も言われます。

その中で、最も有力視されているのが、浄教寺説なのですが、それは、武蔵の伝記『二天記(にてんき)に、最もくわしく小次郎の事が書かれているからなのですが、その『二天記』自体が、武蔵の死後100年も経った後に弟子が書いた物なので、あの吉川英治さんでさえ「多分、ウソだろう」とおっしゃるシロモノ・・・

しかも、武蔵本人が書いた『五輪書(ごりんのしょ)には、小次郎は登場しません。

なので、たとえ実在の人物だったとしても、その姿は、完全に武蔵の引き立て役としての登場・・・しかし、そう言っていてもはじまらないので、とりあえずは、その『二天記』に沿ってお話をさせていただきますと・・・

越前・宇坂庄(うさかのしょう)浄教寺村に生まれた小次郎は、同じ村の出身で中条流を極めた小太刀の名人・冨田勢源(とだせいげん)(7月23日参照>>)の弟子となります。

しかし、小次郎は小太刀を教えてもらうというよりは、さらに小太刀のワザを磨きたい勢源の練習相手をさせられ、そのために本人は長い木刀を持って、常に稽古をさせられていたのだとか・・・

ところが、長身で体格も良かった小次郎は、師匠の相手をするうち、いつしか、小次郎が師匠を稽古台にして、そのワザを習得し、師匠をしのぐ腕になってしまったのです。

ある時、門弟同士の練習試合・・・相手は、師匠・勢源の弟・景政(かげまさ)

しかし、ただ向かい合っただけの時点で、もはや勝負あったと思わせるくらいの気迫の違いに目がテンになる師匠・・・その予想通り、小次郎が振り下ろした太刀先は、一瞬にして反転して斬りあげられ、そのスピードについて行けない景政を尻目に、立会いは終わりました。

浄教寺町近くには一乗谷川という川があり、少しさかのぼると一乗滝という滝があるのだそうで、小次郎は、その滝周辺に飛び交う燕(つばめ)を見て、この秘剣を編み出したとか・・・これが、ご存知「虎切(こせつ)こと「つばめ返し」の技です。

その夜、小次郎は、師匠・勢源のもとを去るのです。

「物干し竿」と称される長太刀を背負い、その流派を「巌流(がんりゅう)と名付け、西国の名だたる剣客を打ち負かしつつの武者修行・・・いつしか、その名は一円に轟く事になったのです。

やがて、その名声を聞いた豊前・小倉藩30万石藩主・細川忠興(ただおき)に庇護される事となり、兵法指南役として仕える一方で、城下に巌流の道場も構えます。

そんな時に、小倉にやって来たのが、かの宮本武蔵・・・とにかく名声が欲しい武蔵は、決闘を申し込み、藩主の許可を得ます。

かくして慶長十七年(1612年)4月13日辰の上刻(午前7時頃)、小倉の沖合いに浮かぶ(舟)島での決闘が行われるのです。

しかし、ご存知の通り、ゆっくりめの起床に、ゆっくりめの朝食をとった武蔵は、約束の時間に一刻(2時間)遅れ・・・この間、床机に座ったまま、待ち続ける小次郎は苛立ちを隠せません。

「待ちかねたゾ!武蔵!」
ようやく現れた武蔵を見て、小次郎は鞘から長太刀を抜き、鞘を海中に投げ捨てます。

Musasi600ats ・・・で、武蔵、
「小次郎、敗れたり! 勝者何ぞ その鞘を捨てん」
の名ゼリフです。

武蔵の挑発でタイミングを狂わされた小次郎・・・その打ち出す秘剣は、もはや、効き目もなくカラ振りし、逆に、武蔵の振り下ろした(かい)に脳天を打ち砕かれて倒れこみます。

そこを武蔵・・・すかさず、再び櫂を振り下ろし、ろっ骨を砕きとどめを刺しました。

武蔵・29歳・・・対する小次郎は・・・
残念ながら、ドラマに登場するような、若いイケメン君ではなく、たとえ『二天記』の記述が事実としても、鐘捲自斎(かねまきじさい)からの剣術の免許を取得している事を踏まえ、少なくとも50歳を越えた年齢であったとされています。

  • 細川家の記録には、小次郎の名前がない。 
  • 勢源の流派にも中条流にも小次郎の名前がない。 
  • 『五輪書』にも出て来ない。

・・・と、存在をも疑わせる事も多々あり・・・さらに、例え実在の人物であったとしても、

  • 当時の船島=巌流島は、岩礁のような物で、とても決闘を行えるようなスペースはなかった。 
  • 武蔵が弟子をいっぱい連れて来て、すでに初老の小次郎を皆でボッコボコにした。

などなど・・・様々な噂が取りざたさせる巌流島の決闘ではありますが、もし、本当であるならば、本日は、小次郎さんのご命日という事なので、若くてカッコイイお姿を想像しつつ、その生涯に思いを馳せてみるのも良いかも知れません。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

この決闘を題材にした舞台「ムサシ」。原作者である井上ひさし先生が、先週末75歳で逝去されました。一時期、私の町にも住んでいた事があります。
2003年の大河ドラマ「武蔵」で出てきましたが、21世紀になってからはあまり映像化されないですね。

投稿: えびすこ | 2010年4月13日 (火) 11時08分

えびすこさん、こんにちは~

あの年の大河ドラマは見ていませんでしたが、けっこうイロイロな噂を撒き散らしている作品でもありますね~

やはり、剣豪というのが、あまり注目を浴びなくなったのでしょうか?

投稿: 茶々 | 2010年4月13日 (火) 12時22分

茶々さん、こんにちは!

佐々木巌流、確かに謎に満ちた人物ですよね。何年前かな、渡辺謙さんが主役で小次郎のドラマがあった時期、先輩から「小次郎の死の真相について書かれた史料が『北九州市史』に載ったとの情報を聞いた事があります。

確か、細川氏の家臣、沼田氏の家記みたいなヤツで、小次郎は武蔵の一撃を受けたが絶命せず、まだ息のある状態だったので、沼田氏ら反小次郎派の連中がボコボコに叩き殺した―という内容だったかな?

投稿: 御堂 | 2010年4月13日 (火) 15時27分

御堂さん、こんばんは~

おぉ・・・
そんな文書が・・・て事は、小次郎さんは実在したかも、ですね。
でも、そこでも大勢でボコボコに・・・
お気の毒です。

投稿: 茶々 | 2010年4月13日 (火) 18時30分

こんにちは。
佐々木小次郎は、イケメンというイメージが
強いかもしれませんね。
演じる俳優のイメージもあると思います。

歌手の山内惠介くんも「ツバメ返し」の
キャンペーンで小次郎姿でしたから。

投稿: やぶひび | 2010年4月14日 (水) 14時47分

やぶひびさん、こんばんは~

大抵は、武蔵よりも2~3歳年下のイケメン俳優さんが演じられますが、やはり、それもドラマの世界だけのお話かも知れませんね。

ドラマとしては、小次郎が若くてカッコイイほど、武蔵が引き立ちますからね。

投稿: 茶々 | 2010年4月15日 (木) 03時21分

2003年の「武蔵」は第1回からケチがつきましたね。盗賊と戦う場面が「七人の侍」の盗作(この時の訴訟が原因でソフト化されず、出演者が他番組に出ても、当時のVTRを放送できないし、一部の俳優はこの番組の件をタブー視しているらしい)と言われたり、あと「抱きたい」と言うセリフを堤さんの又八が、何回も言うので「この番組ではやや不適切か」と感じて、翌日か翌々日にNHKに指摘したら、直後に新聞の投稿欄でも「抱きたいと言う発言が気になった」と出ていましたね。
今年の龍馬伝は「メッセージ性のない点」では、「武蔵」となんとなく似ている感じがしますね。何故、武蔵役が当時の市川新之助丈だったのか今でも疑問です。

投稿: えびすこ | 2010年4月17日 (土) 11時27分

えびすこさん、こんにちは~

ありましたね~盗作疑惑・・・
そうですかVTRの放送もできないのですか?
それは知りませんでしたが、局の看板を背負ってる番組なので、イロイロと大変なのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年4月17日 (土) 13時37分

佐々木小次郎の実態に新たな情報が・・・
小次郎は将門の名を持つ関東生まれだったかもしれないというものだ。 当時の社会政治情勢は室町時代の終焉から戦国時代・・江戸時代へと社会は流れていたので、剣術や特定剣士からだけでは佐々木小次郎の存在位置が見えてこないだろう。
小次郎の実態はこうだ・・・
関東に武士の子として生まれた小次郎は関東地方の無限の武士であった平将門の幼名を親が名付けた。 少年期に室町政権の一角の朝倉義景の下の富田勢源の門下となって朝倉氏の武士となっていく。
二十歳前後に起こった浅井・朝倉連合軍と織田・徳川同盟軍との激突が小次郎の運命をあやっつていく、小次郎は朝倉氏の滅亡を見届けると朝倉家を守りながらも朝倉家の先祖を辿って岩国から添田へと流れていく。途中、京の都で長期逗留し織田・徳川・秀吉らの動きを監視しながら武を磨き続ける。
岩国では抜刀道を強引なまでの強さで何度も振り切る剣術を極め虎切りの異名を・・・添田の岩石城では一揆軍を秀吉軍の末端との争いに参加した。
そののち細川藩の剣術士として所領を朝倉の末裔の近くに佐々木道場を開場した。
この時既に五十歳を超えていた様だ。
そして、秀吉の朝鮮出兵によって加藤清正の軍に参加し加藤清正を影から支え"虎切り"の異名を持つこととなる。
帰国後、佐々木道場を多く開き、一時は北部九州に佐々木道場あり、とまでいわれるようになる。
秀吉の死後、徳川政権となってしばらく、宮本武蔵の登場となるのである。
・・・・・・・

わたしは小次郎が関東生まれである気がしてならない。

投稿: 任意チロウ | 2010年8月24日 (火) 22時25分

任意チロウさん、こんばんは~

ほぉ、新説ですね。
宮本武蔵と同世代ではないところが、それらしい雰囲気がしますね。
今後の研究が楽しみです。

投稿: 茶々 | 2010年8月24日 (火) 23時25分

突然参加させていただき失礼しました。
急に書きたくなったのも私自身越前生まれだから、この土地の事情を良く知っていた為でもあります。
もう少し当時の戦国時代の様子を描かせてもらいましょう。
当時の過去に新田義貞という軍団が湊川の戦いで負けて北陸地方の越前に流れてきた。
戦力は皇軍側だったので二万の兵力が落ちた状態だが一万は擁していた様だ。 新田義貞軍も黒丸城に立て籠もるが足利軍の斯波・朝倉氏が新田軍を滅ぼした・・・・
それから百三十年は黒丸城を朝倉の本拠とし、後に百十年間を足羽の地に移動した。
朝倉家が権力を持ち後に加賀一向一揆との百年戦争に突入し長い間北陸の宗教と対峙することとなる。
朝倉義景の代になって織田信長の北陸制圧が侵攻し朝倉家は北と南の圧力に対応することとなる。信長との姉川の戦いによって室町幕府が崩れた事によって、朝倉家は家首の朝倉義景らの首を朝倉家自身が捕った。
・・・・・
しかし朝倉家全滅も大きな見せかけでもあったのだと勝手に思える事がある。
黒丸城は北前船の集積地ともなっていて、義景の首を取った大野の地は反対側の山側であって、時間稼ぎの朝倉家脱出へシナリオでもあった。
北や南へ逃げれない戦国の状況は、朝倉家を西へ・・・毛利との室町政権繋がりで逃げ込むには最後の手段でもあったようだ。
一時は毛利家(岩国)へ逃げ込んだ朝倉家も毛利の道筋のまま九州の地へ移動する。
それが添田の地だったのだと想像できる。

どうでしょうか戦国時代の流れの視点から見ると、小次郎の位置がみえてこないでしょうか!?。
まあ、福井の地から見えるのも面白いところでしょうか。

投稿: 任意チロウ | 2010年8月26日 (木) 15時34分

任意チロウさん、こんばんは~

いろいろと考えると楽しいですね~

投稿: 茶々 | 2010年8月26日 (木) 20時08分

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