源頼政の鵺退治~敗北の英雄
仁平年間(1151年~1153年)4月10日頃、近衛天皇を悩ませた鵺(ぬえ)を源頼政が退治しました。
・・・・・・・・・
年号でいうと仁平の頃、時の天皇・近衛天皇は、夜になると決まって何かに怯えて気絶するという状況が毎日続きます。
名のある高僧が何人も呼び出され、大法・秘法を用いて快復を願いますが、いっこうに効き目がありません。
天皇が怯えて気絶されるのは、毎夜決まって草木も眠る丑の刻(午前2時頃)・・・内裏の西北・東三条の方角から、突然黒雲が湧き上がり、御殿の上に覆いかぶさる時でした。
朝廷で開かれた会議では、堀河天皇の時の前例が話し合われました。
この時も、まったく同じ状況で、堀河天皇は毎夜気絶されていたのですが、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)(2月27日参照>>)が、三度の鳴弦(めいげん)で邪気を祓ったと言います。
三度の鳴弦とは、弓の弦をビュ~ンビュ~ンと三度鳴らして、邪気を追いはらう儀式の事・・・この時は、やはり天皇が気絶された瞬間に、義家が三度の鳴弦を行い、
「我こそは前陸奥守源義家!!!」
と名乗りを挙げると、その場にいた者の体に戦慄が突き抜けて身震いをおこし、以後、天皇が気絶する事はなくなったのでした。
この例にならって、誰か勇猛な武士に警護させようという事になり、選ばれたのが源頼政(みなもとのよしまさ)だったのです。
しかし頼政は
「武士が朝廷に仕えるのは、叛乱を起こしたり違反したりする者を征伐するためであって、妖怪を退治するために仕えてるんやおまへん!」
と言って断ろうとするのですが、なんといっても、これは勅命(ちょくめい・天皇の命令)・・・逆らうわけにも行かず、近江の国の住人・猪早太(いのはやた)という信頼のおける郎党1人だけを連れて御殿へと向かったのです。
表裏同色の狩衣に、山鳥の尾で作った2本の矢、そして滋藤の弓を持ち・・・
あえて矢を2本持ったのは、もし、妖怪を撃ち損じた時、残った1本で、源雅頼(みなもとのまさより)の首を撃ち抜くためでした。
そう、実は、その雅頼が、天皇に
「妖怪退治やったら、やっぱ頼政でっせ!」
と推薦した本人だったから・・・
とにもかくにも、そうこうしているうちに、黒雲立ち込める時間帯がやってきました。
頼政が、御殿の上にたなびく黒雲を、キッと見上げると、中になにやら怪しい影が・・・
心の中で
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)」
と念じて、キリキリを弓を引き、「エイ!」と放ちます。
ヒョ~~とうなりながら一直線に進む矢・・・手ごたえアリ!!
「当たったゾ~」
と叫ぶと、早太が、サッと獲物の落ちてくる位置に回りこみ、押さえつけて刀でとどめを刺しました。
まわりの者が手に手に火を持って集まった時に見たその姿は・・・
「かしら(頭)は猿 むくろ(胴)は狸 尾はくちなわ(蛇) 手足は虎のごとくにて 鳴く声ぬえにぞ似たりける」
だったのたとか・・・
←『画図百鬼夜行』の鵺(ぬえ)の図
頼政の勇猛さに大喜びの近衛天皇は、獅子王という名の剣を与えます。
天皇から剣を受け取った左大臣・藤原頼長(よりなが)が、庭で平伏する頼政に、その剣を渡そうと、正面の階段を2~3段下りたところ、時候は、ちょうど4月10日ばかりの事だったので、シ~ンと静まりかえった御殿に、郭公(ほととぎす)の鳴き声が、二声、三声と響きました。
すると頼長は、
「ほととぎす 名をも雲井にあぐるかな」
(お前も、名をあげたなぁ)
と詠みました。
次いで頼政・・・
右膝をつき、左の袖を広げ、ふと見上げた空に輝く月・・・
「弓はり月の いるにまかせて」
(弓に任せて矢を射っただけです)
と、続けます。
「弓矢取るだけやなく、歌道にも長けてるんかいな!」
と、一同大喜び・・・。
そして、かの怪物を、くりぬいた丸木舟に入れ、いずこともなく流したという事です。
・‥…━━━☆
以上が『平家物語』に登場する頼政の鵺退治の物語・第一段・・・
カッコイイ~~(*´v゚*)
カッコイイゾ!頼政さん・・・
以仁王(もちひとおう)とともに、老体にムチ打って平家との橋合戦に挑む、あのオジイチャンの姿(5月26日参照>>)しか想像していなかったこれまでのイメージは、今、ものすごいイケメンの頼政像に方向転換しましたゾ!
さらに、『平家物語』では、二条天皇の時にも鵺が登場し、これも先例にならって頼政が呼び出され、見事、討ち取ったと、その武勇を絶賛しています。
これは、かの以仁王との挙兵、そして、その後の敗北&自刃の話の後に、生前の頼政の逸話として登場し、「これほど強い武将・・・そのまま、出世するはずだったのに、なんとも嘆かわしい」という感じで語られます。
ところで、京都は二条城の近くにある二条公園には、鵺池(ぬえいけ)という池があります。
現在の鵺池 |
整備前の鵺池 |
現在は、子供たちが遊ぶ児童公園にしっくりくるようにキレイに整備されていますが、その前は、水も枯れた状態だったようです。
平安の頃、このあたり一帯は御所の敷地内・・・内裏が建ち、官庁が建つ、政治の中心だった場所で、この鵺池は、かの頼政が、血のついた鏃(やじり)を洗ったとされる場所です。
しかし、上記の通り、そのお話は『平家物語』には登場しません。
また、このお話の続編とも言うべき謡曲『鵺』というのには、丸木舟(謡曲ではうつほ舟)に乗せられて流された後、亡霊となった鵺が、僧の供養によって冥土へと旅立ちますが、ここでも鵺池は出てきません。
また、京都の四条通から一本南の綾小路通の神明町(東洞院通と高倉通の間)には、神明神社(←)という神社がありますが、ここは鵺が退治された屋敷跡とされ、その時使用した鏃2本を頼政が奉納し、それが、今も宝物として伝わっているのだそうです。
えぇ?
内裏で退治したんじゃ?
つじつまが合わんのではないか?
てな、ヤボな事は言いっこなしにしましょう。
『平家物語』は軍記物・・・今でいうところの歴史小説ですから、事実をもとにしてはいても、フィクションが含まれているのが当たり前です。
確かに、橋合戦で負けた頼政が自刃するあたりは事実に基づいているのでしょうが、さすがにこの鵺退治の話を、本当にあった話だと思う人はいないわけで、これは、ひとえに、いかに頼政が強い武将だったかを強調したいがためのお話・・・
そのあとにくっつく、鵺池も、神明神社も、やはり、頼政を英雄として称賛しようとする人々が伝えた物語なわけです。
では、負けたのに、なぜ、英雄扱いなのか?
それは、もう、わかりますよね。
後に、源氏が勝者となるからです。
源頼政は、平家打倒の魁(さきがけ)となった人・・・幕末で言えば、寺田屋で死んだ薩摩九烈士(4月23日参照>>)であり、禁門に散った十七烈士(10月21日参照>>)なわけですよ。
なので、敗者となった頼政でも、英雄の称号を与えたい・・・
そんな気持ちの人たちが、彼に鵺退治をさせるという伝説を残したのでしょう。
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