私はカモメ~塙団右衛門・樫井の戦いin大坂夏の陣
慶長二十年(元和元年・1615年)4月29日、豊臣方の大和郡山城・奪取に戦端が開かれた大坂夏の陣において、和泉南部の樫井で、徳川方の浅野長晟の軍勢とぶつかった塙団右衛門直之が討死しました。
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関ヶ原の合戦に勝利して征夷大将軍になって江戸幕府を開いて(2月12日参照>>)・・・もはや天下を手中に収めたかに見える徳川家康の最後の敵は、豊臣秀吉の後を継いで大坂城に君臨する遺児・豊臣秀頼・・・
秀頼が寄進した京都・方広寺の鐘銘に(7月21日参照>>)、家康がイチャモンをつけたところから始まった大坂冬の陣は一応の和睦となりましたが(12月19日参照>>)、それもつかの間、翌・慶長二十年(元和元年・1615年)3月15日、京都所司代の板倉勝重(かつしげ)から「大坂方に謀反の企てアリ」の報告を受けた家康は、翌・4月4日に、名古屋の息子の婚儀に出席するという名目で駿府を出発・・・10日には京都に入りました。
続く21日には、すでに家康から将軍職を譲られて2代将軍となっていた徳川秀忠も京都に入り、いよいよ、一触即発の状況となります。
戦端が開かれたのは4月26日・・・
圧倒的な兵力の差に、「ただ籠城していたのでは戦況を有利に進められない」と判断した豊臣方の籠城軍・主将格の大野治長(はるなが)は、先手を打たんと、自らの弟・大野治房(はるふさ)と、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)配下の兵を含む約2000に大和郡山城を落させます(4月26日参照>>)。
ここに、大坂夏の陣の火蓋が切られました。
続いて、たたみかけるように翌・27日には、和泉の岸和田城を攻撃し、徳川方の兵の待機場所となっていた堺の町に火を放ちます。
さらに、2日後の慶長二十年(元和元年・1615年)4月29日、和泉路を行く治房隊は、樫井(かしい・泉佐野市)にて、徳川方に属する紀州(和歌山県)の浅野長晟(ながあきら)軍とぶつかったのです。
この戦いで活躍したのが、本日の主役=塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)です。
ご存知の方も多いでしょうが、先の後藤基次とともに講談本でもてはやされた滅びのヒーロー・・・その豪快な生き様から、根強いファンの多い戦国武将です。
織田信長や秀吉にも仕えたと言いますが、彼が表舞台に登場するのは、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍(4月21日参照>>)の1人・加藤嘉明(よしあき)に仕えてから・・・
しかし、その配下の鉄砲大将として参加した関ヶ原の合戦で、主君・嘉明からの「負け戦に見せかけて敵をおびき出せ」との命令を、「そんなズッコイ事できるかい!」と逆らい、真正面からさんざんに鉄砲を撃ちまくって帰還しました。
当然、怒り爆発の嘉明・・・「お前は大将の器やない!鉄砲隊を任せた俺が間違てたわ!o(゚Д゚)っ」とさんざんに怒られてしまいます。
しかし、自分の戦い方に信念を持つ団右衛門のほうも怒りはおさまらず・・・とうとう屋敷の書院の大床に、
「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」
(ついとどまらずこうなんのやすい たかくてんをとぶいちかんおう)
「こんなキッタナイ水に留まってられるかい!俺は空高く飛ぶ自由なカモメなんじゃ!」
と、初の女性宇宙飛行士・テレシコワを彷彿とさせる名文句を書いた紙をデカデカと貼り付け、そのまま出奔・・・
それを見た嘉明は、さらにヒートアップ!
団右衛門を「奉公構(ほうこうがま)え」の処分に・・・
この奉公構えというのは、かの後藤基次が、やはり元主君だった黒田長政にやられたのと同じで(5月6日参照>>)、元主君が「コイツはアカンやつですから、仕官を希望してきても雇わんように・・・」と、周辺の武将に根回しする・・・いわゆる「お前、ほすゾ!」ってヤツです。
やはり、基次と同じく、知らずに雇った福島正則(まさのり)が、奉公構えの話を聞いて、慌てて解雇する・・・なんて一幕もあったようですが、だからこそ、今回の合戦に向けて大量の浪人を募集した大坂城へとやってきていたわけです。
そんな団右衛門さん・・・以前書かせていただいたように、自分を奉公構えにした元主君・嘉明への怨みを晴らすべく、先の大坂冬の陣では、「夜討ちの大将」の異名を取る大活躍でした(12月16日参照>>)。
今回の樫井の戦いでも、自ら、先鋒をかって出ます(2013年4月29日参照>>) 。
しかし、この日は雨上がりで霧が深かった・・・団右衛門の相手となった浅野配下の亀田高綱(たかつな)は、見通しをよくするために市街を焼き払い、銃撃隊を潜ませて、彼らを待ち伏せします。
そこへ現われた団右衛門ら・・・いきなりの鉄砲に、先頭の数名が倒れる中、ひるむ事なく進む団右衛門は、自らが先頭にたって突撃を開始します。
あまりの猛攻に、亀田隊は後退・・・ほどなく到着した川の堤を盾に防戦します。
しかし、勢いに乗る団右衛門隊は、この堤も占拠し、さらに隊を二つに分けて押し進み、浅野軍の先鋒に大打撃を与えます。
そのまま樫井の市街地へと突入した団右衛門らは、激しい白兵戦を展開しますが、白兵戦となると、しだいに数に勝る浅野軍が有利に・・・
得意の十文字槍を繰り出して奮戦する団右衛門でしたが、圧倒的な数の兵を次から次へと繰り出す浅野軍・・・気づけばそこは敵兵に囲まれ、味方は、自分一人だけ・・・
大きくを息をついてまわりを見据え、再び縦横無尽に駆け回る団右衛門に、「槍ではかなわぬ!」と見た浅野配下の多胡助左衛門(たごすけざえもん)は、ジリジリと弓を引き、狙いを定め、至近距離から一矢・・・
放たれた矢は、団右衛門の太ももを射抜き、思わず落馬してしまいますが、その攻撃で助左衛門の存在に気づいた団右衛門は、すかさず槍で一突き・・・助左衛門が弓でそれを払ってかわしたところを、後ろから近づいた八木新左衛門(やぎしんざえもん)なる武将に槍で突かれてしまいました。
おびただしい出血の中、それでも新左衛門を討たんと立ち向かう団右衛門の気迫に、回りを囲む敵兵は、思わず息を呑みます。
しかし、さすがの団右衛門も、その流血の多さに、ここで力尽き・・・倒れたところ、首を取られたのでした。
男・塙団右衛門直之・齢五十・・・ここに、その豪快な人生を終えます。
中夏依南方 留命数既群 一生皆一夢 鉄牛五十年
「南国のような夏に 命留めた者たち・・・
人生って一瞬の夢のようやん by鉄牛五十年」
逸話によれば、新左衛門の突きに倒れた時、その流れる自らの血で、懐紙に書きとめた辞世だと言います。
鉄牛とは、嘉明から奉公構えにされ、仕官をあきらめて京都にて出家した時に号した僧としての団右衛門の名前・・・しかし、帯刀しながら托鉢(たくはつ・僧が鉢を持って辻に立ったり家を訪問したりして米や金銭を得る事)するその姿には、やはり、武士を捨てきれなかった団右衛門の思いを感じます。
果たして、最後の最後に、彼の脳裏に浮かんだのは、
縦横無尽に駆け巡った戦場か、
はたまた、夢を追って修行した京の町並みか・・・
かくして、
京街道を北東から、
大和路を南東から、
2手に分かれた徳川軍本隊が難攻不落の大坂城に迫るのは、5月6日の事でした(5月6日参照>>)
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コメント
来年の大河の大阪の陣はどういうきっかけになるのでしょうか?戦を仕掛けたのがどちらになるかですね。「豊臣方から仕掛けた」と言う解釈はありますか?一般的には「家康を呪うと言う解釈」で始まったみたいですが。
奉公構えとは「雇用規制カルテル」ですね。
前田慶次郎の様に破格の待遇での勧誘が絶えないのとは反対ですね。「戦国の自由人」の慶次郎はこの時、既に鬼籍の人でしたが。
投稿: えびすこ | 2010年4月30日 (金) 17時55分
えびすこさん、こんばんは~
大阪の陣の時の家康と秀頼の関係については、是非とも書きたい事がありますので、もう少しお待ちを・・・
もちろん、方広寺の鐘銘は、単なるイチャモン・・・仕掛けるきっかけが必要だっただけだとは思いますが・・・
投稿: 茶々 | 2010年5月 1日 (土) 01時42分